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将来が暗くて悲しいサブカルチャー批評について
こんにちは、チョコ菓子『きなこもち』が三月ぶりに再販されて毎日泣いている男、各駅停車です。
先日投稿した自己紹介にも書いたことなのですが、僕には「サブカルチャ―作品の批評で本を書く」という野望のようなものがあります。
自己紹介では「サブカルチャー批評」について、主観的に自分の思い入れを語っていきました。
今回は僕のエモーショナルな部分から少し離れて、「サブカルチャー批評」について、客観的に語っていこうと思います。
将来の暗いサブカルチャー批評
結論から先に言ってしまうと、サブカルチャー批評の未来はめちゃくちゃに暗いです。あまり多くの人々に求められていません。
僕自身、ネットでサブカルチャー批評について色々調べているのですが、得られる情報と言えば「批評は終わった」「サブカルチャー批評は求められていない」といったものばかり・・・
ではどうしてサブカルチャー批評には未来がなく、あまり多くの人々に求められていないのでしょうか。
ここでは、ネットの情報と僕自身の考えを統合して、サブカルチャー批評の暗い展望について2つにまとめてみました。
①「批評」を人々が望んでいない
②作品を見た人しか批評を見ない
①は批評の抱える問題、②はサブカルチャー批評の抱える問題です。
順を追って解説します。
①「批評」を人々が望んでいない
第一に、そもそも「批評」が求められていないというものがあります。
この文章を書いた稲田氏のいう通り、現在では批評本が売れない一方で、作品を絶賛する情報を集めたファンブックが売れるようになっています。
「どこがよいのか」ということと併せて「どこがよくないのか」を語る批評は、ただ作品をほめちぎる感想に比べて嫌われる節があります。
サブカルチャー批評家の宇野常寛は、著書『遅いインターネット』の中で、批評を書くことを「世界との距離感や進入角度を測る行為」(p208)だと表現しています。
それと対比すれば、現代のマジョリティーが求める作品論というのは、「距離感や進入角度」があらかじめ決まって、どのように結論を着地させるのかが分かっている作品論、つまり最初からベタ褒めすることが決まっている作品論です。
ではなぜ無条件に作品をほめたたえる作品論が、現代では諸手を挙げて喜ばれるのでしょうか?
これには現代における、どうしようもないある背景が原因であると考えています。
その背景とは、好きな作品や俳優、つまり「推し」を語ることが、ある種自己表現に繋がっているということ。
詳しく説明します。
わざわざ確認するまでもなく、現代ではナンバーワンよりオンリーワンが称揚され、その人の個性がもてはやされています。
しかし大抵の人々は、ナンバーワンにもオンリーワンにもなれない。自分にしかない個性を手に入れようとしても、常にSNSで自分より能力のある同世代の存在を確認できてしまいます。
例えば月収100万の学生起業家であったり、pixivで大量の「いいね!」を稼ぐ神絵師であったり、世界規模の大会で入賞するスポーツマンであったり・・・。上を見上げるとキリがありません。
そこで重要になってくるのが、近年急速に普及して人気となった「推し」文化です。自分が何を好きか、自分の「推し」は何なのかを語ることが、今日では多くの人にとって一種の自己表現、その人なりの「個性」になっています。
前述した稲田氏の文章から言葉を借りるなら、「推し」を応援する「推し活動」が心の拠り所となっているのです。
だからこそ、批評によって自分の心の拠り所である「推し」を悪く言われると、自分も傷つけられたように感じてしまう。
「推し」について人が語る時、その人が「推し」の良さを誰よりも褒め、その人と「推し」の距離感が近ければ近いほど、その人は「推し」に深く没入していることになり、その「推し」への愛は唯一無二のものとして「推し」仲間やSNSの間で称賛されます。
『推しの子』『推し、燃ゆ』『推しが武道館行ってくれたら死ぬ』等の、「推し」をテーマ作品では共通して、主人公が「如何に自分が『推し』のことが好きなのか」を語ることで、読者にキャラクターの特徴を掴ませる描写があります。
つまり、誰よりも「推し」を素晴らしいものとして称賛し、「推し」と自分との距離感を限りなく近づけることが「推し活」をする人にとってのキャラクター、個性となるのです。
それゆえ、「世界との距離感や進入角度を測る行為」である批評は、「推し」との距離を限りなく近づけ、素晴らしさをほめちぎる一定の進入角度で「推し」を語るという現在のマジョリティーの作品論から外れたものとなっています。
これでは批評が求められないのもやむを得ないでしょう。批評はマジョリティーには必要とされていないのです。これは悲しい。
②作品を見た人しか批評を見ない
第二に、サブカルチャー批評には、実際にサブカルチャー作品を見た人しかその作品についての批評を読まないという致命的な前提があります。
これはほとんどが作品論に陥りがちなサブカルチャー批評の最大の弱点です。そもそも批評する作品の人気によって自分の書いた批評が読まれやすいかどうかが決まってしまいます。具体的に言うのなら、『ピンポン』批評が『シン・エヴァンゲリオン』批評以上に読まれることはまずない。
①「『批評』を人々が望んでいない」の時点で、僕は批評というカテゴリーの抱える読者の数がそもそも少ないことを確認しました。
サブカルチャー批評ではさらにそこから作品の人気によって読者の数が絞られていきます。同じ魔法少女ものでも、『魔法少女育成計画』より『魔法少女まどか☆マギカ』の批評の方がどうしても読まれる。
「作品を見た人しか批評を見ない」という風潮を考えてのことなのか、現在では著名な批評家による読者の囲い込みが起こっています。
例えば批評家で哲学者の東浩紀は独自の雑誌『ゲンロン』を発刊し、定期購読させることによって読者を確保しています。
また、エヴァンゲリオンを制作した会社GAINAXの初代社長で、評論活動を行う岡田斗司夫は、youtubeのアニメ解説動画をフックにして会員制のサロン『岡田斗司夫ゼミ』に視聴者を登録させ、そこから自分の著書を読ませるという手法を取っています。
また、批評家の宇野常寛も独自のメディア『PLANETS』を展開し、宇野の意見に賛同する人々からお金を集めて批評活動を行っています。
これらの批評家は自身の考え方や立場を表明し、それに賛同する人々を選別して、それから批評を読ませます。
言い換えるならば、批評家の考え方が魅力的だと思われない限り、批評は読まれにくくなっています。
「何を言うかよりも誰がいうか」という警句は、批評界隈でも通用するルールなのです。
若手批評家がインタビューに答える下の文章では、若い批評家が「アイドル化」することについての言及が書かれており、批評界隈の状況をよく説明しています。
サブカルチャー作品を見たことのない人に、自分の書いたサブカルチャー批評を読んでもらうためには、批評家自身の「アイドル化」「パフォーマー化」が必要です。
多くの人々に自分の文章が読まれることを望むならば、ネットやメディア上での熾烈な評価経済競争に勝利しなければならないというかなり厳しい現実が批評家にはあるのです。
嫌な言い方をすれば、「人間力」の戦いになっています。きつい。
終わりに
以上、サブカルチャー批評の暗い未来について
①「批評」を人々が望んでいない
②作品を見た人しか批評を見ない
とまとめました。
自分がやりたいサブカルチャー批評について客観的にまとめるというのがこの文章のテーマだったのですが、書いていくうちにだんだん悲しくなってきました。サブカルチャー批評に本当に需要がないことをひしひしと感じたからです。
自分がこのリスクを背負ってそれでもサブカルチャー批評をやるかどうかは、もっと文章をかいて判断したいと思います。つらい(´;ω;`)ウッ…。