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「キャラ」と「キャラクター」まとめ①/伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』

どうもこんにちは、菅田将暉が結婚したニュースを見、驚いて五分ぐらい硬直した男、各駅停車です。

今回は、前のnote記事で取り扱った『キャラクター精神分析』『キャラクターとは何か』といった本に続き、キャラクター論の要約となります。取り上げるテーマは、キャラクター論の中で何度も登場する用語、「キャラ」「キャラクター」という用語です。

マンガ評論家の伊藤剛(いとうごう)が2005年の著書、『テヅカ・イズ・デッド 開かれたマンガ表現論へ』の中で提唱した対になる2つの概念「キャラ/キャラクター」は、その汎用性の高さからサブカルチャー批評に大いに貢献し、また新しいキャラクター論を招くことに繋がりました。

多くの批評や評論の中で展開される「キャラ/キャラクター」。いまいちわかりづらいこの二つの概念を、とりあえず自分なりに整理する目的で今回は一連の文章を書いていこうと思います。

この『テヅカ・イズ・デッド』はかなり難解な本なので、もしかしたらまとめるにあたって間違えて理解している部分があるかもしれません。ご了承ください。

また、説明するにあたって「キャラ」、「キャラクター」、そしてキャラクターと3つの単語が混在する紛らわしい部分があります。文章中では僕たちが普段意識している意味でのキャラクター(カギカッコなし)と、伊藤の考える用語としての「キャラ」、「キャラクター」(カギカッコあり)を区別しています。

このまとめ①の文章では、「キャラ/キャラクター」について詳しく説明するというよりもむしろ、『テヅカ・イズ・デッド』の中でこの概念がどのように生まれたのか、という経緯を辿っていきたいと思います。

「キャラ/キャラクター」の生まれた経緯


そもそも、この「キャラ/キャラクター」という概念は、伊藤が当時(2000年代)のマンガ論、マンガは「つまらなくなった」、マンガは「読まれなくなった」(p18)といったマンガ論に対抗する過程の中で、作られた概念でした。

伊藤は『テヅカ・イズ・デッド』の中で、「マンガを自律した表現として見て、語り、分析する」新しい方法論を確立することを目指しています。それはいったいどういうことなのでしょうか?詳しく説明していきます。

現実に追いつけなくなった、従来のマンガ評論

1980年以降、オタク系文化の台頭やメディアミックスの発達によってマンガの読み方が多様化するようになると、一人で漫画のジャンル(SF/ホラー/ラブコメ/バトル等)全体を見通すことが不可能になり、マンガの世界はジャンルや雑誌ごとに細分化され、1980年以前に比べてとても複雑な世界へと変貌していきました。

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(引用 よく読む書籍の“ジャンル”ランキングを公開!性別、年代によって、読むジャンルも変わる?/引っ越し侍ウェブサイト)
そんな、時代と共に複雑化するマンガを取り扱うことになった1980年以降のマンガ評論は、当然その変化に対応して新しいマンガとのかかわり方を模索する必要がありました。しかし、マンガ評論はその変化に追いつくことができず、1990~2000年代になると、ただ最近のマンガは「つまらなくなった」(p18)という言葉を繰り返すだけになってしまいました。伊藤はこのようにマンガ評論の現状を嘆きます。

では、なぜマンガ評論は80年代以降の複雑化したマンガについていけなくなり、ただ「つまらなくなった」と愚痴をこぼすだけになってしまったのでしょうか?伊藤はそれついて、「マンガを客観的に論じる方法がないからだ」というようなことを述べていきます。(以下、引用)

従来からの「マンガ評論」が、80年代末からの「変化」を言外に指し示しながら、しかしそれに対応できずにきたことは、大きくは、マンガを自律した表現として見て、語り、分析する語彙も、方法も持たずにきたことに由来する。(p57)

伊藤は従来の「マンガを自律した表現として見て、語り、分析する語彙も、方法も持たずにきた」マンガ評論を振り返ることで、自説を補強していきます。

読者と結びついた従来のマンガ評論

そもそも1970年代から、マンガ評論は評論家たちの世代意識と密接に結びついた文章ばかりであったと伊藤は述べていきます。伊藤はその世代意識と密接に結びついた評論を「ぼくら語り」と呼びます。同じ読書体験を持ち、同じ感想を言い合う想像上の共同体、「ぼくら」のみにマンガを語るうえでの発言権があったといいます。さすがにそういった閉塞的なマンガ評論は1980半ばに解体されます。

しかし、状況は好転しません。「ぼくら語り」が解体したのちの1980年代以降では、伊藤はマンガを語るうえで人々の多くが「『自分』の言葉しか信用することができなくな」(p59)ったと述べています。

結果、「自分語り」的な口当たりのよいエッセイと、あらすじの要約めいた簡単なレビュー、無邪気なファンに徹する感想、そして、書籍データや作家について、個別の評価を棚上げして列挙するようなものだけが「許される」こととなる。(p59)

「ぼくら語り」、そして「自分語り」。伊藤に言わせれば、1970年代からのマンガ評論は、常にマンガとマンガを読む人が密接に結びついた評論でした。たしかにこのままでは「マンガを自律した表現として見て」いるとは言えません。80年代以降に複雑化したマンガを捉えるためには、一度読み手の経験・体験から離れてマンガを語る必要があります。

ここで一度まとめます。この本の中で伊藤は、「マンガを自律した表現として見て、語り、分析する」新しい方法論を確立することを目指しています。

「ぼくら語り」や「自分語り」といったような、評論家自身の読書体験と結びついたマンガ語りでは、80年代以降に雑誌やジャンルの細分化によって複雑化したマンガをとり扱うことができません。なぜなら、読書体験と結びついた従来のマンガ語りは、自分が読んだことのない作品について正しく客観的な評価を下すことができず、「つまらなくなった」(p18)という言葉しか評論に残すことしかできないからです。

だからこそ、伊藤は読者と結びついたマンガ評論を解体し、新しい客観的なマンガ評論のやり方を提案します。ではその新しいマンガ評論とは?

伊藤の考える新しいマンガ評論

伊藤の考える新しいマンガ評論のやり方とは、「徹底的にマンガの表面に現れているものだけを分析する」という「表現論」でした。

伊藤が「マンガについて語る/論じるにあたっての『モデル』」(p85)として紹介したのは、「コマ構造」「言葉」「キャラ」と言ったマンガを構成する3つの要素を分析の対象する方法です。

これら3つの要素は「できるだけ『目に見える』レヴェルのもの」(p85)、つまりマンガの表面に現れたものです。伊藤はマンガの表層に現れたものだけを分析することで、世代間意識や自分語りに終始しない客観的なマンガ論が展開できると考えました。

伊藤の上げた三要素を見ていきましょう。「コマ構造」は四角く区切られることによって、マンガの「時間進行を司る単位」(p86)となる線のこと。
「言葉」は、伊藤によって定義されていませんが、おそらくセリフや書き文字、登場人物のモノローグのことを指します。
そして、「キャラ」です。この「キャラ」という概念は、マンガの表面上に表現されたもの、つまり「できるだけ『目に見える』レヴェルのもの」として数えられています。

しかしながら、ここで疑問に思う人がいるかもしれません。果たして、「キャラ」はマンガの表層といえるのでしょうか?

キャラクターは「目に見える」か

僕たちは、マンガを見るにあたって、当然物語の中に登場するキャラクターを見ます。しかも僕たちは読み進める中で、マンガ上のキャラクターに感情移入をし、キャラクターを本当の友人のように愛することさえあります。

僕たちはキャラクターを受容する際に、マンガ上の絵としてキャラクターを見ることもあれば、マンガの表面よりもより深いところでキャラクターを理解することもあります。

そんな風に愛着を感じさせ、言ってしまえば実際に生きている一人の「人間」のように僕たちが接することのできるキャラクターを、ドライにただ「マンガの表面上に現れるもの」として扱ってよいのでしょうか?

実はここに、「キャラ/キャラクター」の概念を理解するために重要な点があります。

「キャラ/キャラクター」の誕生

結論から言ってしまえば、伊藤は僕たちの考えるキャラクターを、2つに分割しました。その2つこそが、「キャラ」と「キャラクター」です。伊藤は日常使われる意味でのキャラクターを、「キャラ」、すなわちマンガ上に表現された「記号」としてのキャラクターと、「キャラクター」、すなわちマンガの中で生きている「人格」としてのキャラクターに分けました。

伊藤は新しいマンガ評論のやり方、「徹底的にマンガの表面に現れているものだけを分析する」やり方を採用するにあたって、「できるだけ『目に見える』レヴェルのもの」としてのキャラクターを扱う必要がありました。だからこそ、「キャラ/キャラクター」の分割を行って、人々の感情移入を誘う「人格」としての「キャラクター」ではなく、記号的にマンガの表面に現れる「キャラ」を、マンガの分析の対象にしたのです。

これにより、マンガの表層、目に見えるものとして現れる記号の「キャラ」と、マンガの中に立ち現れる、実際に生きているような人格を持った「キャラクター」、2つの概念が生まれることになりました。

まとめ~読者と結びついたマンガ評論の解体を目指して~

再度まとめます。

伊藤は読者と結びついた主観的なマンガ評論にうんざりしていました。そのため、『テヅカ・イズ・デッド』の中で「できるだけ『目に見える』レヴェルのもの」を取り扱い、客観的にマンガを語る方法を紹介しました。それこそが、「コマ構造」「言葉」「キャラ」というマンガの三要素を取り扱うマンガ分析でした。伊藤は自身の方法論の範疇で、マンガの中のキャラクターを論じるために、記号としての「キャラ」、人格としての「キャラクター」という分割を行ったのです。

以上、マンガ上の記号としての「キャラ」、マンガの中で人格を持った「キャラクター」、この二つの概念が生まれた経緯を紹介していきました。
次の文章では、「キャラ」と「キャラクター」、それぞれについて更に踏み込んで説明していこうと思います。

補足


(実は『テヅカ・イズ・デッド』の第二章(p55-108)で、伊藤は「キャラ」「コマ構造」「言葉」のマンガを構成する三要素を提示した後に、図式を用いてジャンルや社会的環境を交えた総合的な新しいマンガ論の枠組みを提示しているのですが、恥ずかしながらそもそも僕があまり理解できていないのと、「キャラ/キャラクター」について説明する上では余り必要ないと判断したため割愛しました。)

(引用箇所を示すページ数は2014年に星海社新書として刊行された『テヅカ・イズ・デッド』に依ります。)