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日常での仏教活用法【禅】

日本の仏教というと、葬式仏教と言われるくらいに、本来の仏教の姿とは、違うかたちで扱われています。特殊なんですね。

日常生活でどう活かすことができるものなのか、多くの方が知らないと思います。

仏教は、死後ではなく、「生きている今」にこそ真価を発揮します。人生を豊かにするヒントが多くある宗教です。

藤田一照氏の著書『ブッダが教える愉快な生き方』を参考して、お伝えしていきます。

禅とは?

まず、前提から。西洋と東洋哲学では、まるで真逆の考え方で発展していきました。

・西洋→左脳的であり、外向きな探求
・東洋→右脳的であり、内向きな探求

西洋は、外側、つまり理性をもって論理的に本質を追求してきたのに対し、東洋は、内側、感性をもって人間に内在する「何か」を追求してきました。

その東洋哲学・宗教の代表が「仏教」なわけです。

今回お伝えしたいのは、仏教のひとつ「禅」です。

禅の起こりは、6世紀ごろに、達磨からです。禅が出てきたのには、理由があります。それまでの仏教が本来の姿からかけ離れていき、いわば「体験なき知識だけ仏教」になっていたんですね。

仏教の祖であるシッダールタは、体験から「悟り」を得ました。それを弟子たちがさまざまな解釈で、経典を作り上げます。結果、凄まじいほどの数の経典が出来上がるんです。

いつしか、その経典を読み漁り、情報メタボになった修行僧が増えてくるわけです。

そんな現状を打破するために、登場したのが、「禅」です。原点に立ち帰ろうということです。

禅といえば、「坐禅」。シッダールタも坐禅で悟っていますから、坐禅に重きを置くのは自然です。

ですから、「知行合一」が前提にあります。知識と体験はセット、です。

例えば、バク転をするにあたって、心構えや筋肉の使い方、やり方など知識として仕入れることは簡単です。でも、それは「できる」とは別物ですね。なので、そんなの無価値だと言い捨てます。だって、シッダールタはそうやって悟ったから。

この流れで、既知を捨てろ!ともいうわけです。既知とは、これまで、必死に仕入れてきた知識のことですね。まずはこれを捨てる、つまり、全部リセットしろ!体験しろ!ってことです。

日常での活かし方

さて、どうやって日常で活かしていくべきなのか。シッダールタは煩悩を観察することで、悟りを得ました。ここをヒントに活かしていきます。

ステップで説明していきます。

受容しまくる

生きていれば、さまざまなことが起こります。これを全部、受容するわけです。起こったことは「贈り物」と捉える。ポジティブに受け入れます。

例えば、理不尽なことや、ムッとすることがあっても、快く「かしこまりましたー」と承諾するんです。

そうやっていくうちに、自分の中にある「怒りや哀しみ」の感情が消え失せていきます。受容性が高まっていくわけです。

ここでいう、「怒り」「哀しみ」「嫉妬」などは、全て、作為的な感情です。この感情を受け入れることは、すなわち、それらと共存することを意味します。

シッダールタは、煩悩と共存することで、悟りを得ています。

解像度を上げる

作為的な感情から離れることができれば、意識が「自己」に向きますから、物事を捉える解像度が上がっていきます。すると、深く洞察できるようになります。

解像度が高まった際に重要になる軸がふたつあると説きます。

・苦しみ=痛み×抵抗
・幸せ=快感÷執着

時間的な解像度を上げてみると、まず、第一に「痛み」「快感」がきます。その後に来るのが、「抵抗」「執着」です。この二番目の考えを限りなく減らすわけです。

抵抗するから、苦しみが起こる。
執着するから、幸せが減退する。

であれば、解像度を上げた視点で、二番目を意識して、減らすことが重要ですね。「痛み」と「快感」は、避けられませんから、そのまま受け入れます。

ここまでくれば、大きく共存に近づけます。

損得勘定はいらない

何でもかんでも、損得勘定に囚われていると、「面白さ」を見落とします。

何か学ぼうとする時、メリットがあるものしか見ようとしないことはあると思います。でも、それらも選り好みせず、受容すべきです。

そのような作為的な感情を持って、学びを得ても、心身に浸透はしませんし、そのものから最大限に本質的なものを選別する鋭い洞察力を養うべきなのです。

日々精進する

僕たちが(学びを必要としない)完全体になることはありません。

物質や事象、全ては無数の「縁」によって、生起しています。時が流れる以上、張り巡らされた「縁」は常にうごめいています。

ですから、常に、別の自分が存在し続けており、事態は変わっていくわけです。その意味で、完全体になることはあり得ません。

学び続けることを怠らず、学ぶことに「喜び」を感じながら、成長を求める姿勢が大事になります。

死をも克服する?

最終的には、あらゆることを受容する姿勢が出来上がれば、「死」をも受け入れることができます。

シッダールタは、「老いる、病む、死ぬ」の三拍子を受け入れられずに、克服するため、修行にでたわけです。

結果、煩悩を観察し、受け入れる(共存する)ことで、「死」を克服しました。

受容性を高めることで、高い解像度をもって「自己」を観察する。あらゆる「悩み」を解決することができるようになります。

今こうして、全身に血液が流れていて、生かされている事実すらも本来、素晴らしいことであり、人生を豊かにしていくきっかけになるはずです。

最後に

何でもかんでも「受容」というと、「受け身」の姿勢に聞こえてきますが、この受容は「自発的」なものです。

逆説的ですが、自発的な「受容」をしていくことが、人生を豊かにするための鍵なのです。

葬式仏教だけで括るのは、どうしてももったいない気がします。ぜひ、人生におけるヒントにしてみては、いかがでしょうか。

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