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巴戦のゆくえ— 永遠と不均衡

貴景勝はあっけなく土 平幕の阿炎関ともえ戦を制しぬ

 
 これまで、スポーツを題材とした歌は割合に多く詠んできたように思う。その大半は野球を主題としたものだが、その他にはテニスや剣道、フィギュアスケートを詠んだ作品もある。なんとなく、サッカーは短歌とは相性が良くないという(全くもって恣意的な)感覚があるのだけれど、それでも昨年のワールドカップの際には、数首をかたちにしてみた。あるいは、競馬や競艇を描いた短歌もあるのだが、これらはスポーツに分類されるのだろうか。

 そんな僕も、大相撲を題材とした短歌を詠むことになるとは正直思ってもみなかった。僕自身は、全く好角家というわけではないのだが、昨年11月の大相撲九州場所・千秋楽はたまたまテレビで見ており、冒頭の歌はその取り組みを詠んだものである。


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 2022年11月の大相撲九州場所は、大関貴景勝、前頭筆頭高安、同九枚目阿炎(番付は当時)の三力士が最終日に12勝3敗で並ぶ混戦となり、実に28年ぶりの巴戦による優勝決定戦となった。
 大相撲における巴戦では、勝ち星の並んだ三力士が交互に取り組みを行い、最初に連続して2勝を挙げた力士が優勝となる。この決勝戦は、いずれかの力士が連勝することが優勝の条件であるため、それぞれが勝ちと負けを交互に繰り返すと、理論上は永遠に取り組みが続いていくことになる。

 面白い! 普段は相撲など特段に興味を示さないのだが、偶然にも目に留まったこの巴戦のゆくえを、テレビの前の僕は大きな関心をもって見守っていた。実を言うと、誰が優勝するのかにはさほど興味がなくて、「巴戦」というこの一風変わった方式に大いに惹かれていたのである。

 巴戦では、くじにより最初に取り組みを行う二者が選ばれ、残りの者は休みとなる。ここで問題 — さて、果たしてどちらが有利なのだろうか。〈囚人のジレンマ〉や〈3人のガンマン〉ようなゲーム理論を思い浮かべたのだけど、自分が勝たなければ優勝はないのだから、いずれにせよ目の前の取り組みに死に物狂いで向かうしかないのだろう。

 巴戦による決勝戦の前に、三者ともすでに最終日の取り組みを行っているのだから、最初に休憩を引いて、体力を回復させた方が得かもしれない。そうなれば、初戦の相手は連戦となるため、体力的には大いにこちらに分がある。ここで1勝をものにして、次戦はとにかく勢いと気合いで乗り切るしかない。
 と、考えていたのだが、確率論的にはこれは大きな誤りだった。実際はというと、各力士の力量が等しい(各勝率=1/2)と仮定するならば、先に対戦する二者の優勝確率は5/14(≒35.7%)であるのに対し、最初に休む力士の優勝確率は4/14(≒28.6%)となり、なんと3人目の力士が優勝する確率は7%も低いのだという。

 純然たる公平さが求められるスポーツの世界で、こんな不均衡が見られるなんて驚きである。もちろん、これは三者の実力が全く等しい場合においての話であって、現実の勝負の場面では、何にも増して各力士の技術や精神力、優勝への執念が問われるのだろう。初戦の二人ががっぷり四つに組んで、取り組みが長引けば、それだけ3人目はむしろ有利な状況に置かれるように思う。7%の確率差は、あくまで理論値にすぎない。

 さて、28年ぶりの巴戦となった昨年の大相撲九州場所・千秋楽。勝負のゆくえはというと、初戦で高安を破った阿炎関が、勢いそのままに大関貴景勝を押し出しで下し、2連勝で初優勝を飾ることとなった。

 〈永遠〉の一端を垣間見せることもなく、あっけなく2戦で終わってしまった巴戦。実力ではおそらく7%以上の優勢であったろう貴景勝は、結果的には不運な3人目の立場を覆すことができなかった。
 ただ、初戦で敗れた高安は脳震盪でしばらく立ち上がることができなかったので、いずれにせよ3戦目に臨むことは厳しかっただろう。最後の大一番が棄権というかたちにならず、阿炎関の初優勝を祝福できたのは幸いだったのかもしれない。

 つくづく、スポーツはドラマだと思う。


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 最後に、最近読んだ歌集から印象的だったスポーツの歌を挙げたいと思う。

スパンジェンバーグといふ名うつくしく外角球を左に運ぶ    大辻隆弘
三番手投手が滅多打ちにされ帰趨さだまる中日あはれ         同
大辻といふ若者が負け越して大相撲十一月場所は終わりぬ       同

『樟の窓』


 いずれも大辻隆弘氏の近著『樟の窓』より。2021年1月1日から12月31日まで、ふらんす堂のWeb上連載「短歌日記」にて詠まれた作品を書籍化した本著。1日1首×365日という日記形式から、日々の些事や季節の移ろいをしみじみと感じさせる作品も多いなか、掲出歌のようなスポーツを題材とした歌に心惹かれた。

 一首目、固有名詞の響きの美しさに主眼があるが、それだけではない。スポーツの刹那的場面を切り取りながら、その瞬間にふとよぎる主体の(ほとんど無意識的な)意識の流れが現れているように思う。
 二首目、「三番手投手が滅多打ちにされ」る光景とは、短歌においてはかくも画になるのだなあと思う。東海地方在住の作者の眼差しは「あはれ」という語の外連味と響き合っている。
 三首目、集中で個人的に最も印象的だった一首。作者と同姓の幕下力士の動向を見つめつつ、「負け越して」のあたりには、どこか作者自身の心情が透けて見えるようにも思う。

 一冊を通して、歌に描く対象との距離感に惹かれた。その対象が〈私〉という一人称である場合も、作者自身と客体化して描かれる〈私〉との自在な距離感は、ときに軽妙洒脱、ときに胸を打つ真摯さで、またときにはそのどちらとも言い難く、そこが何よりも魅力的だった。


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