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中国皇后記11 愛と憎しみに飲み込まれた皇后 文元皇后 袁斉嬀

 こんにちは、翎浅(れいせん)と申します。今まで五胡十六国時代の皇后達を多くご紹介してきました。今回は文元皇后·袁斉嬀(ぶんげんこうごう·えんせいき)を紹介します。愛憎渦巻く人生をどうぞ!


1 文元皇后·袁斉嬀の幼少期

 文元皇后·袁斉嬀(405年〜440年)は、南朝宋の文帝劉義隆(407年〜453年、りゅうぎこう)の皇后です。傲慢な性格だと言われることもありますが、非常に繊細な性格と言ったほうが正しいです。彼女の幼少期は良いものではありませんでした。役人である袁湛(えんたん)の娘として生まれますが、母·王氏の身分が低かったので、5、6歳になるまで引き取られませんでした。身分の低さで父から承認されなかった袁氏は、自身の尊厳と利益を必死に守ろうとするようになりました。

2 劉義隆との結婚から即位後

 不遇な幼少期でしたが、袁氏も成人するとその美貌や優れた気質が知られるようになりました。時は南朝斉から南朝宋へ変わり、初代皇帝の跡を長男·少帝が継いでいました。その弟である当時宣郡王であった劉義隆の妃に袁氏は選ばれました。この時代には珍しく、妻の方が2歳年上という夫婦でしたが、夫婦仲は良かったようです。2人の間には長女となる劉英娥(りゅうえいが)が生まれました。
 少帝は即位からわずか2年で廃されると、代わりに劉義隆が皇帝に即位することになります。袁皇后が19歳のことでした。即位した後も袁皇后は深く寵愛され、礼遇を受けます。そしてその年、袁氏は長男·劉劭(りゅうしょう)を出産しました。しかし、袁皇后は生まれた劉劭を見て「この子は顔つきが異常で、将来必ず国を破滅させます。育ててはいけません」と劉義隆に伝え、なんと息子を殺そうとしました。劉義隆はそれを知ると急いで皇后の元に向かい、袁皇后の行動を止めさせました。この予感は実際に事実となるのですが……。

3 袁斉嬀の嫉妬から始まる愛憎

 後宮のトップとして恩寵をほしいままにしていた袁皇后でしたが、父が亡くなって実家は非常に貧乏でした。そのため、夫に恩賞を求めることが多かったのですが、劉義隆は倹約を重んじていたので、5万元ほどしか恩賞はもらえません。袁皇后は不満を持ち、夫婦ですれ違いが起こりました。その後、袁皇后に代わって淑妃潘氏が劉義隆に寵愛されるようになり、次男·劉濬(りゅうしゅん)まで生まれて後宮が傾くほどに寵を独占していました。そのため、自分が陛下に頼めば得られないものはないと潘淑妃は自慢しました。その噂を耳にした袁皇后は嫉妬し、この噂が事実かどうかを探り、夫の自分への愛を確かめることにしたのです。  
 袁皇后は潘淑妃の元を訪ねました。そして彼女に実家が困窮してお金が必要なことを話し、淑妃の名義で皇帝に30万元の恩賞を賜るように頼みました。すると、潘淑妃はそれを承諾します。質素を重んじる夫がいくら寵妃の願いでも聞くことはないし、潘淑妃が自分よりも愛されているなどありえない。袁皇后はそう信じていました。2人は10年近くもの歳月を共に過ごした夫婦だったからです。数日後、袁皇后に驚くべき知らせが届きました。皇帝が潘淑妃に30万元を贈ったというもので、袁皇后は非常にショックを受けました。自分への恩賞は倹約のために減らしたにも関わらず、潘淑妃が頼めば倹約も何も関係なく贈ったのです。皇帝の潘淑妃への愛の深さを知った袁皇后は、夫らを恨むようになりました。しかし、潘淑妃を陥れれば自身の皇后の位をも揺らいでしまいます。どこにも吐き口のない恨みを次第に心に溜め込んでいった袁皇后は、体調不良を名目に宮殿に籠り、劉義隆と会うことを拒否しました。妻の体調を心配した劉義隆は度々宮殿を訪れますが、袁皇后は決して会おうとしません。劉濬ら諸庶子が面会に来ても会うのを拒否しました。
 袁皇后は精神を病み、患った病は深刻になっていきます。ついに袁皇后は危篤になり、劉義隆がやって来ました。頑固だった袁皇后でしたが、最後に夫を一目見たいと思いました。劉義隆は泣きながら袁皇后の手を取り、遺言があるのか尋ねました。いざ夫と顔を合わせた袁皇后は、一言も言わずに劉義隆だけを見つめていましたが、しばらくして布団で頭を覆ってしまいました。袁皇后はこの時、何を思ったのでしょうか。恨みをぶつけたかったのか、はたまた秘めた夫への愛を伝えたかったのかもしれません。葛藤の末に死ぬまで彼女は何も口にしませんでした。440年、袁斉嬀は息を引き取りました。享年36歳。長寧陵に埋葬されました。
 袁皇后の死を劉義隆は非常に悲しみ、10代の頃から育んだはずの愛を忘れていたことを後悔しました。華麗な哀悼文を臣下に書かせ、自らも「撫存悼亡,感今懐昔」(意訳「目の前の光景が昔を思い出させ、亡くなったあなたとその情事が懐かしく慕わしい」というような意味)という8文字を書いて哀悼の意を表しました。更に袁皇后の諡号について、臣下が宣皇后という諡号を考えましたが、劉義隆は納得せず自ら元皇后という諡号を選びます。皇帝が自分で諡号を考えるのは非常に稀なことでした。夫の諡号を冠して文元皇后と追尊されました。劉義隆はその後の13年間の治世で、誰も皇后を立てませんでした。

4 その後と逸話

 その後心の罪悪感のせいか、劉義隆は袁皇后の遺児である劉劭を溺愛し、皇太子に立てました。しかし、袁皇后が出産当時に予想したように、劉劭は性格が凶悪で、心の中に憎しみを抱いていました。彼は母の死を父と潘淑妃のせいにし、復讐を決心しました。453年、劉劭は偽造した詔書で、弟の劉濬と共に兵士を連れて宮殿に侵入し、劉義隆を殺害しました。その後、劉劭はまた兵を率いて後宮に侵入して潘淑妃を斬り殺し、母の仇を取って帝位につきました。劉濬は母の潘淑妃の死を喜び、心待ちにしていたと口にしました。まもなく2人は劉義隆の三男である劉駿(りゅうしゅん)に捕らえられて処刑されました。袁皇后の予言は的中し、劉劭は家族を滅ぼし、国を乱しました。
 
 袁皇后の死後にこんな逸話が残されています。美人の位にあった沈容姫という妃嬪がいて、小さな過失で怒らせたため、劉義隆は彼女を処刑しようとしました。袁皇后が亡くなってから閉鎖されている皇后の宮殿に沈容姫は来て、「今日私は無罪で処刑されます。もし天があるならば、このことを知ってください」と泣き叫びます。すると、宮殿の窓が応えたかのように開きました。すぐにこのことが劉義隆の耳に届き、劉義隆は驚いて宮殿に向かいました。劉義隆は袁皇后の霊が許せと言ったのだと思って、沈容姫の罪を許しました。ちなみに、沈容姫は三男である劉駿の母です。恩を仇で返しているような?

5 まとめ

 今回は文元皇后·袁斉嬀の人生を紹介しました。2人は愛し合っていましたが、多くのすれ違いにより最後まで仲を戻すことが出来なかった袁斉嬀と劉義隆。袁斉嬀が劉義隆を恨むのは当然で、愛と信頼を裏切ってしまったのです。ですが、袁斉嬀も頑なに劉義隆を拒み続けてしまいます。2人はどうしたら良かったのでしょうか。時には相手を許すことも大事……現代にも通用することかもしれません。ちなみに写真の赤いシクラメンの花言葉は「嫉妬」、マーガレットの花言葉は「真実の愛」「信頼」だそうです!それでは以上で終わりとさせていただきます。

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