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【お題:人工知能】忘れられない夏にして(1)

 2050年、夏。
 葉月は研究センターの居室の窓を開け、澄み渡る青い空を見上げた。
 窓の外に顔を出すと、湿度の高い熱気が肌に纏わりつく。

 今日の外界の温度は53℃。真夏の気温はこの50年で際限なく上昇し続け、未だ留まることを知らない。25年前から日本では、夏の間は緊急事態宣言が発令され、室外へ出ることを禁じられている。
 今年で25歳になる葉月葵は、ゆえに一度もこの国の夏を味わったことがない。
「葉月、窓を閉めなさい。熱中症になるぞ」センター長が足早に、葉月の後ろを通り過ぎていった。
 大人は皆、熱中症というものを恐れている。夏を快適な冷房下でしか過ごしたことのない葉月にとっては、実感の沸かない脅し文句であった。
「アイス食べれば治るって、祖母は言ってましたけどね」
 甘くて冷たい、夏の必需品。形態や触感は様々。彩りも鮮やか。そんなアイスという魅惑の甘味も、葉月は味わったことがない。
「食べてみたいな、アイス……」
 アイスだけではない。ビーチ、キャンプ、炎天下でのロックフェス、浴衣で見上げる打ち上げ花火……教科書でしか見たことのないかつての夏の風物詩に、葉月は心焦がれる思いだった。

『アイス。果汁を氷結した冷菓。二十年前には家庭用食品として親しまれていました』
 唐突に、窓際に置いてあったAIスピーカーが、アイスの説明をした。
「ドクター、今日の予定を教えて」
『葉月葵さん、十分後にチームミーティングがあります。場所は第二会議室です』
 AIスピーカーは葉月の声紋に反応し、嬉々として予定を告げた。
 〝ドクター〟は、このセンターのシステム開発局が手掛けた人工知能で、全社的なデータの管理を担っている。職員個人の予定も漏れなく把握している。
「ねえドクター、忘れられない夏にして」
 筒型のスピーカーは暫く押し黙って『すみません、ちょっとよくわかりません』と答えた。
 葉月はスピーカーに聞こえるようにため息をついて、窓を閉めた。

「すみません、遅れました」
 葉月は慌ただしく会議室に駆け込んだ。テーブルを囲んで座っていたそうそうたる面々が、葉月の方を一瞥してすぐに顔を戻す。
 センター長を始め技術開発局長、調査研究局長、システム局長……葉月の勤めるサイエンスセンターの首脳陣が揃い踏みだ。普段とは違う顔ぶれに、葉月は眉を寄せた。
「今日って、なにかあるの」テーブルの端に座って、隣の席の同僚に尋ねる。
「氷堂さんに、お国から直々に研究依頼が来たらしいわ。今日はそれの共有よ」
 同僚の目線を追い、葉月はテーブルの反対端に姿勢を正して座っている黒縁眼鏡の男を見た。
 局長たちの問いかけに淡々と答え、会話の中で賞賛を受けても、表情筋をぴくりとも動かさない。その目は氷のように冷たく、まるで機械仕掛けの時計のように正確に、三秒に一度瞬きをする。

「前回の研究テーマだった、レンジで温まらない氷を使った冷やし中華の共同開発があったでしょう。あれがお偉いさんのお眼鏡にかなったようよ」
 同僚の言葉に葉月はあぁ、と相槌を打った。葉月の所属する冷力研究チームは、冷やす力、主に氷の研究を行うチーム。氷堂はその、若きチームリーダーである。
「電子レンジに用いられるマイクロ波は食品に含まれる水分を振動させることで物体を温めます。氷の水分子は動かない……物理法則によるものです」
 氷堂はテーブルの向こうで、辞書でも読み上げるように述べた。
「さすが氷博士だ」
――氷博士
 氷に知見のある人間だからか、その朴訥とした佇まいを指してか、人は彼をそう呼ぶ。氷堂は若くして、氷界の権威としての地位を確立していた。
「あのクールな感じ……かっこいいわよね」
 同僚の呟きに、葉月はそうかなと眉を吊り上げた。
「結婚、してるのかしら」と、同僚はうっとりした表情をする。
 指に止まったハエを凝視している氷堂を見て、葉月は苦笑いを浮かべた。お相手がいるのなら相当なもの好きな人に違いない。

「やはりこの研究には君が適任だ。〝溶けない氷〟を持ち帰り、このうだるような夏から日本を救ってほしい」
〝溶けない氷〟……。葉月はトップ層の言葉に首を傾けた。溶けにくい氷や、凍りにくい氷なんかの研究は散々実績を積んできたが、〝溶けない氷〟などは聞いたことがない。
「はい。承知しました」氷堂は機械のように、抑揚のない声で答えた。

 葉月は居室に戻り、窓際のAIスピーカーに顔を寄せた。
「ドクター、氷堂さんの予定を教えて」
『冷力チーム、氷堂さ』
「しっ声が大きい!」
 声を潜めて注意すると、AIの方もボリュームを落とした。
『氷堂聡さんのこの先一か月の予定は、フィールドワーク。場所は山梨県です』
 緊急事態宣言下にも関わらず、〝溶けない氷〟を探しに、一人で出張……。
 認可のある研究者であることは確かだが、それでも、50℃を超えた野外で単独での調査を許されるのはどういうわけだろう。もしものことがあればサイエンスセンターは有能な人材を失い、なによりその責任を問われることになる。このお堅い研究センターがリスクを冒すような真似をするだろうか。なにか裏がある。
 葉月はすぐに行動に移した。

 野外調査用の車が並ぶ立体駐車場に、氷堂は姿を現した。つなぎの作業着に身を包み、調査道具の詰まったスクエアバックを肩から下げ、軽トラックに乗り込んでゆく。
「ご名答」
 葉月は、軽トラックの荷台に積まれている荷物の隙間に身を潜めていた。怪しげな氷堂の出張を尾行……というのは建前で、夏に外に出る大義名分を探していた、というのが本当のところだ。
「何事も、ベストを尽くすのがポリシーでしてね」
 エンジン音と共に、荷台が震える。使ったことのない日焼け止めクリームを全身に塗りたくり、まだ見ぬ夏に備えた。

 駐車場をでると、思わず声が漏れた。
 絶景写真集でしか見たことがないような巨大な入道雲が、センターの向こうに立ち昇っている。縦に太く伸びた雲は、中に空想上の怪物でも住んでいるのではないかと思えるくらいに、大きかった。
 初めて見た夏の空の感動も束の間、駐車場を出てすぐあまりの暑さにどっと汗が噴き出す。外界では、肌が焼き尽くされるのではないかと思うほど太陽が激しく照りつけていた。
 葉月は急いで袖についているスイッチを押した。葉月が着ているのは冷力チームが開発を進めている冷房スーツの試作品。搭載されたソーラーシステムを起動すると、太陽光エネルギーを利用し衣類と皮膚の間を冷却状態にしてくれる優れものである。
「こんなダサい服、誰も着ないっての。しかも定価百万円って」
 宇宙服のように膨らんだスーツを摘まんで、葉月は鼻に皺を寄せた。研究者にはいまひとつ群像の感覚というものが足りていない。技術が進んでも、庶民がいつかのように夏を謳歌できる日はまだ先だ。
 葉月は冷房スーツの中から、夏を眺めた。蝉が羽根を擦って出しているというミンミンジリジリという音をバックに、軽トラックはゆっくりと進む。飛行機雲が青空に線を引き、向日葵がそれにむかって咲かせた黄色い顔を見たのを最後に、強烈な眠気に襲われた。傍らにあった麦わら帽子を顔に乗せ井草の匂いに包まれて、幸せな気分で眠りに落ちた。

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