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【映画の感想】「君たちはどう生きるか」を見てした妄想

正直言って君たちはどう生きるかの感想を書く時期としては、かなり外れている。
本編は1度しか見ていないし、記憶違いもあるかもしれない。
それでも、見た直後の心動かされる感覚や宮崎駿のドキュメンタリー(NHKのプロフェッショナル)、高畑勲展で感じたことを文章にしたくなった。
(近くの映画館ではまだ公開が続けられているようなので良しとしよう)

映画の内容に関する妄想は「つまるところ「君たちはどう生きるか」」以降の章に書いているので、内容に関連した部分を読みたい方はそこだけご覧ください。


「君たちはどう生きるか」ではない

まず最初にこの映画の感想を一言で書くなら「おんもしれ〜〜〜〜」である。しかも、映画館でとなりの席の人にぎりぎり聞こえない声量での「おんもしれ〜〜〜〜」だ。
映画を見終わったあとは少し浮遊感があった。なんだか色々考える映画を見たあとはこの感覚になる。世の映画通ほど映画を見ているわけではないが、この感覚になった映画は最近だと「ケイコ、目を澄ませて」と「怪物」だ。だからといって「THE MEG2」を見たあとは沈み込む感覚かと言われればそうではない。あれはあれで最高だ。
この映画は予告が全くなかった。SLAM DUNKと同じだ。だからてっきり書籍の「君たちはどう生きるか」のアニメ化だと思っていた。読んでから見るべきか、見てから読むべきか。遅読家の私は悩んだ(遅読家という日本語があるかは知らぬが)。そんな折、好きなラジオ番組を聞いていると書籍のアニメ化ではないと話していた。天啓!その日の内に映画館に向かった。念のため買っていた書籍を本棚にきれいに保管した。
映画を見る前に私が知っていた情報は、ラジオのパーソナリティ2人がしていた話とポスターの鳥だけだ。
ラジオパーソナリティの2人はそれぞれ、「全部わかった」「なんにもわからなかった」と言っていた。
敬愛する二人の言うことだ、恐らく「全部わかるものの、なんにもわからない映画」なのだろう。意味不明である。私は混乱した。
解決策は目の前にあった。ビデオカメラ男が警報ライト男から軽快に逃げ回っている。いよいよである。
映画上映中になるべく音がでないように必死にポップコーンをかきこんだ。
以降はネタバレも含む可能性があるので見ていない方はご注意ください。

つまるところ「君たちはどう生きるか」

映画を見たあと私が感じたことは「結局、君たちはどう生きるかだな」だった。
私がこれまでジブリを見ていて感じていたのは、宮崎駿の子供に対する神聖視だ。となりのトトロではトトロは子供にしか見えない。キキは大人に近づいたときに魔力を失う。千と千尋の神隠しで豚にされなかったのは千尋だけである。この神聖視には私も少なからず共感する。
私は「神」が存在するとした場合、それは一体何なのであろうかと考えたことがある。その時の一旦の結論としては「神は赤ちゃんである」だった。
我々が神に期待すること、想像することは何かを考えた。これはつまるところ「可能性」ではないかと思った。
神はあらゆる可能性を保有する。それ故、人はそれを実現してくれと祈る。
この可能性を最も持ち合わせている存在は「赤ちゃん」ではないだろうか。まさに何にでもなれる存在だ。これと似た感覚を宮崎駿の子供への神聖視に感じるのである。

君たちはどう生きるかでは真人は選べた。
塔の世界がバランスを崩しかけ、大叔父から塔の管理の引継ぎを打診される。これは「神として生き続けるか、人に成り下がるか。」の問いである。
真人の答えは「人として生きる」だった。
真人のコメカミにできた傷が嫌に生々しく描写されたシーンだったと記憶している。この傷は真人が自分自身でつけた傷だ。転校した学校で馴染めず、いじられる中、下校途中に自らコメカミを傷つける。この傷に激怒した父親は学校に乗り込み経済力を武器に非難をする。
最初このシーンを見たときには、はっきりと意図がわからなかった。
しかし、最後の生々しく描写された傷をみて、そういうことかと腑に落ちた。
つまり、真人は自分の復讐に父親を利用するためにコメカミに傷をつけたのである。人間の権化であり、自覚していないにしろ嫌悪すら抱いている父親を利用することを考えたのである。
真人は決断した。自身の中に渦巻く卑しさ、汚らしさ、自身の中にある神が持ち得ない感情を認め共に生きることを。それが人として生きるということなのだ。

この映画では、父親は「大人」の代表として描かれているように思う。
金のために戦争の道具を作り、その金で権力を買い取る。妻がなくなってすぐ妻の妹との間に子をもうける。彼はかつて自身が神であったことなど端から覚えていないという振る舞いをする。
この「大人」と「子供」、言い換えれば「人間」と「神」の対比こそが描かれ続け、真人はどう生きるかを問われたのだ。
そして、それこそが宮崎駿が私達にもしてきた問いであると感じた。
だからこそ「君たちは」どう生きるか、なのである。

インコたちはどう生きるか

「人間」と「神」という対比でみると、この映画はすっきりとする(あくまで私の中でではであるが)。
この物語の中で印象的に描かれている存在がいる。インコである。
このインコは何を象徴しているのだろうか?
私は人間のメタファーであると思う。

インコが生活しているのは、どこかわからぬところから降ってきた「石」の中である。石は不思議な力を持っており、その力を享受しながら、この石の中でインコたちは数を増やしていく。そして、石の中の均衡は崩れはじめる。
我々人類は広い宇宙の中にある地球に生まれ、自然の力を享受しながら生活して、自然を冒しながら数を増やしていく。そして地球は人が生きられない環境になりつつある。
宮崎駿は以前から大自然も子供と同様に「神」として描いている。
ナウシカ、トトロ、もののけ姫。すべて自然と人との物語である。
ではなぜ、人間のメタファーにインコが選ばれたのだろうか?
そこには宮崎駿の痛烈な「人間」に対する批判があると思う。

人間とインコの共通点、それは言葉を発することができる点だ。
インコは会話を覚えて言葉を発することができる。ではこれは意味を成した言葉なのであろうか?私にはそうは思えない。
これが宮崎駿のメッセージだと感じるのだ。
「人間」は言葉を発しているが、それは誰かの声真似でしかなく、意味を成した言葉ではないのだ。
我々は社会を生き、卑しさ、汚らしさの中に暮らしている。その中で交わされる言葉は真意を含まぬおべんちゃら、方便、社交辞令など実態を伴わないものが多く存在する。そんな言葉に意味はない。意味はないが、それで世界は成り立っている。
そんな社会でトップに立つインコの王は、石はインコのものであるべきだと思い、神たる大叔父へ交渉に向かう。我々人間も地球を人間のものだと考えている節がある。世間では地球環境保全が叫ばれ、地球が苦しんでいると大きな声で宣伝する。今の何倍もの二酸化炭素濃度の時期などいくらでもあった。それが苦しかったのだろうか?地球とは会話できないので真意はわからないが、人間の都合で今の地球は苦しんでいることになっている。
インコの王は最終的に世界のバランスを保つための石を大慌ててで組み立ててしまうことで世界のバランスを崩してしまう。
私は人はまだバランスを崩しかけているだけであると信じたい。
残念ながら我々にはインコのような美しい羽は生えていないのだが。

真人の選択も自身の悪意、卑しさ、汚らしさを認めて「人間」として生きていくことであった。神として理想の世界の中に生きるのではなく、人間として悪意の中に生きる選択をしたのだ。
それが我々にも問われていることであり「君たちはどう生きるか」というタイトルの所以であると思うと述べた。
ではなぜ真人は人間として生きるという選択をしたのか。この問いに対する回答の片鱗を宮崎駿のドキュメンタリーと高畑勲展に見た。
以降ではそれについて述べる。

宮崎駿はどう生きたか

NHKが制作するドキュメンタリーは面白い。個人的にはそう思う。
ジブリをあそこまで深く撮影できるのはNHKだけだと思う。
なぜなら、NHKは職員を一人20年以上ジブリに派遣しているらしいからだ。
ジブリに取材交渉にいった当時、スタジオジブリに常駐するなら良いという条件を出されたらしい。それを実行しジブリの裏側を撮ってきたのだ。
その努力の中で取られた宮崎駿の君たちはどう生きるか創作のドキュメンタリーは、君たちはどう生きるかの解釈に一つの「答え」を提示するものであった。
その答えは「大叔父は高畑勲、真人は宮崎駿」である。
とても直接的な答えの提示だ。
君たちはどう生きるかの制作中、宮崎駿がパクさんと慕う高畑勲が亡くなる。その後宮崎駿はパクさんの幻影を探し、制作が進まない期間が訪れる。なかなか描こうとしなかったのは高畑勲たる大叔父だ。
この物語の中では、大叔父は神として、真人は後継者として描かれる。
では、宮崎駿はそこに何を投影したのだろうか?その答えの一端を高畑勲展で感じた。

高畑勲展で語られたこと、それは、「高畑勲は究極のアニメを求めていた」ということだと思う。
高畑勲はアニメを思想の表現手法として用いた。子どもの娯楽だと思っていたアニメを思想表現として使った作品に青年期に出会い、アニメ制作に目覚めた。これが2人の運命を変えたのだ。
それ以降高畑勲はアニメに芸術性を求め続けた。本物志向の現地調査、精緻な書き込みによる日本の田園風景と都会の風景の対比、視聴者に想像の余白を与える手法などだ。そしてかぐや姫の物語を制作した。高畑勲は思想表現手法としてのアニメを芸術にした。この究極のアニメを求める姿勢を宮崎駿は神聖視していたのではないだろうか?

そんなアニメ制作の現場を宮崎駿はスタッフとして支えた。そして自身でもアニメを制作する。このとき宮崎駿は求められたのだ。
芸術性を追い求めるのか、大衆に向けたアニメを作るのか。
つまり、神として生きるか、人間として生きるかの選択である。
宮崎駿の映画はどちらを追い求めたものなのだろうか?
宮崎駿は神になりきれなかったのだと思う。
悩みながら制作をしたのではないかと思う。
宮崎駿作品は、誰が見ても面白い。
だが必ずメッセージを含んでいると思う。
高畑勲は求めなかった。「誰が見ても面白い」を。
ここに宮崎駿は苦悩したのだ。尊敬し崇める高畑勲と同じになりきれない。
親のタバコをくすねて使用人を丸め込んでしまう。
コメカミに傷をつけてしまう。
そんな真人も大叔父の去り際で決断する。今までの自分を肯定する。
神としてではなく、人として生きるのだと。
宮崎駿は世界を代表するアニメーターとしてどう生きたのか。
選びきれていなかったからこの映画を作ったのだと思う。そして自分の中で消化したのだ。
それが真人の答えだったのだと私は思う。

わたしたちはどう生きるか

神として生きるか、人として生きるか
これは宮崎駿自身への問いだけでなく、映画を見た我々にも提示されている問いだ。
理想の中に生きるか、自身の中の卑しさ汚らしさを認めて生きていくか。
答えはない。だからこそ「君たちはどう生きるか」なのだ。
私の大好きなラジオパーソナリティ2人の意見を合わせた「全部わかるものの、なんにもわからない映画」は本当だった。
一つだけ言えることは、私はこの映画を見ることができて本当に良かったということだけだ。
終演後、私の右側にあったポップコーンは開演前の姿を保っていた。


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