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『生の短さについて』(セネカ)で実感。幸せを見つけ出せるのはいつだって、「いま」だけだ。

 著者セネカは紀元前4年もしくは5年に生まれたと考えられており、イエス・キリストと同じ年に生まれた可能性が高い。そう考えると、すごく昔の人だったことが感じられる。裕福な家に生まれたが、病気をしたり、順調に出世と著述がうまくいきだすと今度は父や一人息子が亡くなったり、姦通嫌疑で8年間流刑されたりと、ジェットコースターのような人生だったようだ。50代で後に皇帝となるネローの教育係となるが、69歳頃、ネロー暗殺陰謀連座の嫌疑によりネローから自決を命じられる。

 セネカはストア学派後期の哲人、ということなのだが、訳の大西氏の解説によると、セネカの根底にはストア哲学以上に「死の瞑想」があるのではないか、しかもそれは「死を」瞑想するのでなく、「死の側からの生の瞑想」であると見ている。 このことは、収録の「心の平静について」の以下の文からも感じられる。

死を恐れる者は、生ある人間にふさわしいことを何一つできないであろう。しかし、自分が、母体に宿された、まさにその瞬間から死を定められていることを弁えている者は、その約定に従って生き、変わることのない強固な精神力をもってそれを履行するから、生じる出来事の何一つとして突発的なものはない。

『生の短さについて』収録「心の平静について」/セネカ(岩波文庫)P108

 セネカは表題作の中で

すべての人間の中で唯一、英知(哲学)のために時間を使う人だけが<中略>(真に)生きている人なのである。

生の短さについて / セネカ(岩波文庫)P48

と言う。そして、それ以外の人間については容赦なくバッサリ切っていくが、その標的が面白い。無為に過ごす者や快楽を追うものはもちろんのこと、あの「神君アウグストゥス」のように、多忙を極めた者もまた、他人に時間を使わせて大事なことを後回しにしている愚かな者として批判されているのだ。一方、

時間を残らず自分の用のためにだけ使い、一日一日を、あたかもそれが最後の日ででもあるかのようにして管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。

生の短さについて / セネカ(岩波文庫)P28

と、より具体的に、望ましい在り方を説く。時間を自分の用のためだけに使う人なんてどうなのか? という反論・反感はもちろん心に沸き起こるのだが、そのあとの部分は納得。メメント・モリであり、「明日でなく今を生きよ」という、ヒトの幸せにとって最も重要なことをさらりと言っているように見える。二千年以上前から、人間にとって肝心なことは同じなんだなぁ。 この点も巻末の解説がすばらしい。

「生は短い」という一般の通念に対して「生は長い」という逆説的な提題で始まる本編の問題意識の答えは序章で与えられている。「浪費」すれば「短く」、「活用」すれば「長い」、それが答えである。当然と言えば当然のように思えるこの答えには、セネカの「時」に対する哲学的な問題意識が含まれる。G・D・ウィリアムズの的確な解説を引いてみる。ウィリアムズはおむねこういう―――時間は過去、現在、未来の三部分から成るが、現在だけが十全に実在(real)する。しかし、いかなる時間も正確には現存(present)しない。連続するものの一部として、現在という時間それ自体は過去と未来から成り立つものなのであり、したがって、われわれが「今」一つの行為を行っている、と言うとき、それはいささか緩やかな「継続的」現在という時間のことを指して言っているのであり、この継続的現在というのは、私という人間の意識、思考、自発性、自由意志との関連でのみ実在性をもつ。セネカはこの「倫理(心のあり方)」の問題として時間そのものに目を向ける。言い換えれば、現在という時は、人間がそれを意識し、思考し、自発性を発揮し、自由に意思する場合にのみ存在し、そうでない場合は存在しないということ、つまり現在という時は思考や意思といった心のあり方に依存し、存在すれば「活用」でき、存在しなければいたずらに流れ、「浪費」されるということ、また、現在は過去と未来から成り立つものであるゆえに、活用されれば広大な広がりをもつ(すなわち長くする)ことができるのに対して、現在が存在しなければ過去も未来もないゆえに、時間は「無」となる、ということである。

『生の短さについて』収録 解説 / 大西英文氏(岩波文庫)P306-307

ミヒャエル・エンデの『モモ』を思い出した。
時間の真実に触れた気がした読書。


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