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能登半島地震の話

はじめに

まずは
能登半島地震で被災された方のお見舞い申し上げます。一日もはやい復興を願っております。

今回は、能登半島地震の記憶について語ろうと思います。
記憶がまだ鮮明なうちに残しておこうとこの記事を書きます。

注意

この記事には能登半島地震による地震、津波などの災害に関する話があります。ご注意下さい







地震発生時の記憶

地震発生時、私は家族と雑煮を食べていました。テレビではサッカーの試合が終わった頃でした。
「雑煮うめー」
とか呑気なことを思っていた時
突然、緊急地震速報が流れてきた。
私は甲高い音が苦手だった上、緊急地震速報の音声がトラウマだったため耳を塞いだ。私がいた所は揺れを感じなかった。(まず私は中部地方出身でもありませんし、雑煮を食べていた時は中部地方にいませんでした)
しばらくしてテレビは石川県珠洲市を映していた。
「なんかでかかったなぁ」
なんて思っていた数分後…
またもや緊急地震速報が流れる。今度はかなり大きかった。私は緊急地震速報の音声にびっくりしながらテレビを見ていた。するとそこに映ったのは
地震の揺れで建物が倒れ、土埃が舞う様子だった。揺れがおさまった頃には、街のあちらこちらで土埃が舞っていた。非常に衝撃的だった、建物がたったの一瞬で、まるで積み木の様に倒れる姿を…
あの場面は今でも覚えている。
しばらくすると今度は津波がくるという速報が入った。予想外だった。あの東日本大震災の様な津波があの珠洲市を襲うと想像したのだった。
「終わったぁぁぁぁ!石川はおしまいだぁぁぁぁ!」
そう絶望する中、テレビではアナウンサーが緊迫した声で避難する様に呼びかけていた。私はテレビの前で、ただ茫然としているだけだった

翌日

テレビでは能登半島地震の話でいっぱいだった。ちょうどHuluで見ていたウルトラマンネクサスも見る気になれなかった。翌日になり被害状況がわかってきた。その中で衝撃的だったのは
輪島市の朝市での火災だった
翌日になっても燃え広がるその光景は何か伝統的なものが燃えてなくなる様な感じがした。
そして羽田空港事故、衝突した機体の中には被災地に送るはずだった支援物資が入っていたという話を聞いた時には、衝撃を受けた。

その後(おわりに)

それから数ヶ月、復興が進んでいった。だが、多くの命ががなくなっていったということ、そして自然は時に無慈悲な一面を見せると言うことを改めて実感した。私はコンビニで募金をしたぐらいなのだが…

募金したお金はきっと役に立ったであろう
そう信じてる。



最後まで読んで頂きありがとうございました。

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