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『ベルリン天使の詩』から『ドライブ・マイ・カー』


note探ってたら『ドライブ・マイ・カー』の記事が…。ちょっと思い出した。

8/21 映画「ドライブ・マイ・カー」と村上春樹イズム|たいちゃん https://note.com/eletx/n/n4c6e7c000bba

2年前の4月に転職して、毎朝Y駅の中央改札から雑踏を横切ってS線まで歩く毎日になった。その度に思い出すのが「ベルリン天使の詩」のダミエルの眼。堕天使の彼は人間社会に興味を惹かれ、この世界に降りてくる。この世界に降り立った瞬間、モノクロームの世界に色がつくのが味わい深い。

妄想に浸れば私の頭もモノクロームの世界とカラフルな世界を行ったり来たりできる。誰も知らない雑踏の中では、モノクロームの世界が現れ、ひとたび知り合いにでも会えばカラフルな世界に戻ってこられる。とはいえ、俯瞰した天使の目から見れば自分も悩みや孤独を抱えた憐れな人間の一人でしかない。

そんな少し憂いを抱えた人たちに一筋の救いを与える映画が、「ドライブ・マイ・カー」だ。評判になってから大分、時が経過したが、ようやく観た。

思えば、自分の生きてきた時代は戦争の無いとても平和な時代だと子供の頃から吹き込まれて育ってきた。しかし、今振り返ればそこには時代のうねりがあり、人の悲しみが、成仏出来ずにたくさん渦巻いていることに気づく。

ベトナム戦争、湾岸戦争、エチオピア、ソマリアの飢餓、阪神大震災、地下鉄サリン事件、9.11同時多発テロ、東日本大震災、福島原発事故、相模原障害者施設殺傷事件、ロシアのウクライナ侵攻、毎年起こる台風や大雨の脅威、コロナウイルスのパンデミック、さらに、個人的な関係のある人たちから聞こえてくる悲痛な叫びもある。生きている以上は、その時代の軋みから逃れることはできない。そして、どんな人にも綻びやほつれがあり、諍いが起こっている。いつまで待ってもすべての人を救う神はやってこないようだ、と諦めが心に宿る。

大江健三郎は、悲しみを人生の親戚と呼び、天童荒太は悲しみを癒やすために悼む人を創造し、新海誠は戸締り師に人知れず世界を救う役目を預けた。

ドライブ・マイ・カーの救済は何処に?に興味があった。チェーホフのワーニャ伯父さんの舞台を背景に置きながら物語は展開する。そして、音のなくなった世界から音のある世界に向けて少しづつ開いていくことで流れがつくられる。同じリズムで刻まれる感情を排した人の声は、ずっと聴いていると気持ちよくなってくる。お経のリズ厶を心地よく感じるのに似ている。こちらとあちらの溶け合う世界なのだろうか。

写真家の瀬戸正人氏の人の顔を無表情に撮って並べたサイレントモードという展示が、ふと浮かんできた。「沢山の表情のない顔を並べると見えてくるものがある」と彼は言っていた。この映画にも顔の表情、声の表情に集中して、見聞きしていると突然魂が揺さぶられる仕掛けが施されている。

静寂、それが破られる時の感情の揺らぎ。

「主人公の家福のように、静寂と共に生きたい」と感情移入し、憧れを抱くようになっていた自分は、その仕打ちに酷くつらい気持ちになった。しかしながら、糾える縄のごとく禍(わざわい)も福(しあわせ)も一緒に味わうことが生きることなのだと、歳を重ねたものの強みとして心から思うようにすれば少しばかりモヤが晴れる。

スクリーンの中で観た抱擁は、大きなカタルシスをもたらす。好きな映画を一つ、二つ思い出せば誰でも合点がいくだろう。この映画も然り、力強さはないがお互いをいたわるような優しい抱擁があった。色や音を取り戻せばこの世で生きる事は決して怖くはない。

「僕たちは大丈夫だ」

「自分自身をまっすぐ深く見つめろ」という死者の語るシンプルな言葉を手がかりにして、深い井戸の中から帰ってきた魂の物語。 

真っ赤な車は愛妻のこと?

サンキュー、ハニー

元の世界に戻れたら、どこまでもまっすぐに、振動を起こすことなくドライブできる感覚が身についてるかもしれない。

「ドライブ・マイ・カー」確かに村上春樹が提示してきた世界があったように思えた。

生きろ!

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