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感情のいろどり

「愛している」という言葉はよく使われるけれど私は自分の中でその意味と実際の感覚が一致したと感じたことがない。たぶん、こういう感じの感覚だよね?というのはわかっているんだけれどピンときたことがない。
愛しているという感覚がわからないだけかもしれない。
単純に感覚が少ないのです。自分の感覚がよくわからない時もあるので、そういうことを含めて、おそらく遺伝的な要素が半分くらいはあると思います。(過去記事に書いたこと有)

だから私の書く作品の中には「愛している」という言葉は登場しない。

たぶん私の世界は「好き」という感情が基本になるんだと思う。この感覚ははっきりしている。
好きのレベルゼロから1000くらいまであって、それの度合いによってさまざまな感覚が湧いてくる。
それが今のところなんとか把握できているすべてだ。
私は持っている感情の色が人よりも確実に少ないと自分では感じている。

だから奥深い感情、複雑な感情を持った人の言葉を読むと、必死にどんな感覚なのか言葉から写し取ろうとする。むつかしいけれど、私にとっては作ったことのない、見たことのない色彩と同じだから知りたいのです。たいていは半分もわからない。
やっぱり経験するしかないみたいだ。でもこんな感じだと経験してもわかるかどうかあやしい。
だから気になる感情の表現は何度でも読み返して私の中に落とし込もうとする。

noteではいろんな人のいろんな感情に出会える。
宝箱みたいだ。
他にもいろんな本を読んだりして感覚や気持ちを今まで集めてきた。
そういったものはもちろんポジティブなものもあればネガティブなものもある。どっちもあるから引き立て合っていい色になる。
そんな気がしている。
そんな自分なので、書く時はなるべく情景の描写を多くする。人物の心情はそんなに詳しく書けない。そこからはみなさんに私の説明の足りない分を想像していただく。どう感じるかはみなさんにおまかせしてしまう。
私は感じるための材料を提供しているにすぎないのです。

だからいつか愛しているという言葉を使える日が来たらいいなと思った。
この言葉はとても素敵だからいつか使ってみたいです。



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