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$坊主の遊び 三遊亭円歌

$坊主の遊び 三遊亭円歌

$三代目 三遊亭 圓歌(さんゆうてい えんか、(1932年1月10日 - 2017年4月23日)は、日本落語家俳優日蓮宗僧侶。 本名は中澤 信夫であるが、出家後の資料では中澤 圓法(円法えんぽう)としている場合がほとんどである。出囃子は「二ツ巴」。定紋は片喰。


生年について

生年については1932年説と1929年説があり、落語協会公式サイトでは1932年1月10日となっている。これに対して1929年説は「空襲で役所が焼け、戸籍を再度届け出た際に家族が間違え、戸籍上3歳若くなったためである」としている[3]。一般的には1929年説が通っているともされていたが、4代目圓歌によれば、3代目の通夜が終わった後、飲み屋で会った岩倉鉄道学校の卒業生が1931年生まれで圓歌のことを「1年後輩」と言ったこと、かつて手伝いに来ていた圓歌の母に1929年生まれが正しいのか聞いたところ「そんなに早く産んだ覚えはない」と言われたことに加え、1929年説は5代目春風亭柳朝との確執の末に出てきたものだという。圓歌は日ごろから柳朝とはそりが合わず何かにつけて意地の張り合いをしていたが、ある時柳朝に「俺は昭和4年生まれだ。そっちは?」と聞かれ、負けず嫌いがゆえに1932年生まれの年下であることが言えず「俺も4年だ」と言い返し、これが定着したものだとしている。一方で、学徒動員されたのが昭和17年であることと尋常小学校入学時の教科書の話から昭和4年(1929年)1月10日生まれが有力だと思われる。

生涯

東京府南葛飾郡寺島村(後の東京市向島区(現:東京都墨田区向島))出身。幼少期より、駄菓子屋を経営する祖母・中澤タダと二人暮らしであったという。東京市第二寺島尋常小学校(現在の墨田区立第二寺島小学校)時代の先輩には小川宏、同級生(1929年説であれば後輩)にはのちに漫画家となる滝田ゆうがいた。なお、この頃から吃音症を患うようになる。卒業後は鉄道員になりたくて岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)に入学し、同校を卒業。

その後について、「運輸通信省東京鉄道局(当時の国鉄)に入局し、山手線新大久保駅駅員を務め、終戦を迎えた1945年8月に東京鉄道局を退職、同年9月2代目三遊亭圓歌に入門した。」に語られることがあるが、高座の上でのネタ、漫談での語り、あるいは高座外での嘘が混ざっている話で、新大久保駅員であったことも、真偽の根拠が不明であるため、これらは弟子の立花家橘之助らによって高座で語られている。

戦後間もない頃、実家を間借りていた人物が「ポコちゃん」こと4代目三遊亭圓楽(後の3代目柳亭市馬)であった。圓楽に吃音症の克服を相談したところ「落語家になればいい」とアドバイスを受け、寄席見物に行く。ここで2代目三遊亭円歌と出会い、入門。前座名・三遊亭歌治[9]。なお、入門した詳細な時期については不明。自伝及び落語では1945年9月1日とあるが、実際はこれよりもっと遅くに入門したといわれる。

1949年、二つ目に昇進し、2代目三遊亭歌奴に改名した。この頃スランプに陥り、一時期大阪へ失踪。周囲に諭されて東京に戻るが、帰路の都電で円歌と遭遇。「明日の朝、おいで」と言われ、翌朝おそるおそる謝罪しに行くと、「いままでの芸じゃ駄目だ。何か、新しいものを見つけてこい」と1ヶ月ほど暇を出される。そこで歌奴は祖母の疎開先であった秋田県湯ノ岱温泉へ向かった。

ここで、現地の人と東京の観光客で方言の違いで両者の会話に齟齬が出ていたことが面白く、これを落語に取り入れることができないかと思案し、そこへたまたま持っていた上田敏の訳詩集「海潮音」に収録されていたカール・ブッセの詩「山のあなた」を加えてできた噺が、歌奴の代名詞とも言える創作落語「授業中(山のあなた)」である。この「授業中」を早稲田の寄席「ゆたか」でやったところ大いに受ける。気をよくした歌奴はNHKラジオにかけるとこれまた大好評。こうして1950年代には歌奴の名前は全国区になっていった。

1957年には二つ目のまま林家三平鈴本演芸場でトリを務めるまでになった。1958年9月、真打に昇進した。

歌奴時代、黎明期のテレビ演芸番組に多く出演し、1960年代の演芸ブームでは売れっ子芸人の一人に目される。この時の活躍から、初代林家三平と共に「爆笑落語」の時代を築いた人物として後年に知られるようになる。一時期『笑点』の大喜利メンバーとして出演。この頃に自作の「授業中」で人気を博したことから、この時代の世代からは圓歌襲名後も「歌奴」と呼ばれることがあるという。



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