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和菓子のはなし

この夏、和菓子がマイブームです。
きっかけは七夕でした。六月末から、心を亡くすほど忙しくて、気温だけがぐんぐん上がっていく中、「せめて夏を感じたい…季節を感じて癒やされたい!」と思っていたところ、ネットニュースで見た「天の川」(七條甘春堂)に目を奪われました。

この夏、ついにいただくことができました。写真で見るより、実物はもっとうっとりします!
もともと、茶道部の顧問をしていた時に外部講師のお茶の先生に習っていたこともあったのですが、お作法を覚えようと精一杯で、お菓子が出ても「これは、どこからどうやって食べるべきか…」と悩んでしまうだけの状態でした。もったいないことをしたものだ。
夏は錦玉羹を使ったお菓子も多く、透明できらきらした、涼しげな見た目の「映え」お菓子がたくさんあります。のみならず、和菓子って本当に奥が深くて楽しい! 特に和歌や俳句に親しんでいると、和菓子の銘や意匠に、「あ〜、あれね!!」と頷くこともあって、より世界観に遊ぶことができます。

青葉+露=?

たとえばこちら、どういう名のお菓子かわかりますか?

こちらは近所のお菓子屋さんで求めたものなんですが、店先にはお菓子の名前が書かれていなかったので、「こ、この、はっぱのお菓子…」と指さして購入しました(照)。でも、きっと名前は「あれだな」というのが思い浮かんでます。

「『おとし文』の形ですが、ご覧いただければお判りいただけるように巻いた葉とそれにとまる露を模しております」
突然現れたのは、私と同じ制服を着た男性。ごく自然な口調で喋りながら、私とお客さんのそばに寄ってきた。
「そしてこれは、こういった形に葉を落とす虫の仕業を見た人が、まるで紙を巻いて落としてある文のようだと感じたことから名づけられたお菓子です」

坂木司『和菓子のアン』(光文社2012)


イケメン和菓子職人の立花さんが、店頭のお仕事モードでしっかり説明してくれてますね。この「落とし文」を巡って、謎の事件が描かれます。といっても、そんな血なまぐさい話とかではなく、大変知的なミステリー。百貨店の食品売場にある「みつ屋」を舞台とした、ほっこりじんわりして勉強にもなる『和菓子のアン』、おすすめの小説です。

簾の内と外

次にこちら。

両国屋是清さんの「玉すだれ」です。こちらも昔から伝わるメジャーなお菓子のようで、いろんなお店が同じ名前で作られています。でも少しずつ違いもある。たとえば、あるお店のものは、透明の錦玉が黄色く色づいていたり、あるお店のものは、中のあんが黒く、青紅葉をかたどったういろうが透けて見えていたり。そういった趣向であると、簾の隙間からうっすらと入ってくる夏の日差しや、青々とした紅葉を透かして見る、という仕立てになり、いわば「簾の内側の人」の気持ちでお菓子を眺めることになります。一方、今回私が求めた両口屋是清さんのものは、中が華やかなピンク色でした。私は和菓子初心者なので詳しくは分かりませんが、何となく「玉すだれ」という名からも、御簾の内に密やかにいらっしゃる、うら若きお姫様を連想してしまいます。源氏の君であれば、強気に言い寄った挙句に捲り上げてしまうことでしょう。
もしも、以上の私の見立てが正しければ、「玉すだれ」という同じ名前で、簾の内と外の両方が表現される場合があるということです。伝統的なパターンがあるとはいえ、その想像力(創造力も)、広く複雑な世界を自在に切り取って手の平サイズに表現してしまう力、すごいなあ、と思います。

中国の李太白のように、韓国人も、月を愛してさかんに歌に詠んでいますが、そのおもなイメージは月を自分のほうに招き、引き寄せるというより、自分がこの世から月の世界にいこうというものです。「月の桂樹を金と銀の斧で切り、三間の草庵をつくって父母といっしょに千年万年暮らしていきましょう」という韓国の民謡が、それです。
でも、日本の俳人はおもに月を遠いところから手元に引き寄せる扇子型の想像力で歌っているのです。「盗人にとりのこされし窓の月」と吟じている良寛の月は、財布のようにふところにある月なのです。そしてまた、「赤い月是は誰のぢや子ども達」の一茶の句では、月は子供の手のなかにあるオモチャです。

李御寧『「縮み」志向の日本人』(講談社学術文庫2007)

賛否両論はあるようですが、日本人論として腑に落ちるところも多く、対欧米ではなく、韓国や中国といったご近所の文化との比較がされている点が秀逸な『「縮み」志向の日本人』より、扇子についての記述部分を引用しました。和菓子について詳しく述べられている箇所は見つけられなかったですが、まさしく和菓子も「縮み」の文化の結晶だと認められますね。

ビジュアル+言葉=和菓子、そして…

見た目の美しさで注目されがちな和菓子ではありますが、やはりその銘と、その背後にある古典の文脈があるゆえに、味わいが深まるというものです。「落とし文」であるからこそ、くるりと折り畳まれた青葉に風情が出てくるのであって、「はっぱのお菓子」ではやはり魅力が半減してしまいます。
ビジュアルと言葉とが協働して生み出す奥深い趣。これは、和歌の世界では「屏風歌」というジャンルで実現されています。

 女の家に男いたりて、ま垣の尾花のもとにたてり
吹く風になびく尾花をうちつけに招く袖かと頼みけるかな

『貫之集』122

 人の家の簾のもとに女出で居たるに、
 垣のもとに男立ちて物言ひ入る、垣の面
 に薄生ひたり
出でて問ふ人のなきかな花薄我ばかりかと招くなりけり

『貫之集』369

『貫之集』の屏風歌二首です。詞書によると、どちらも「ススキ(=尾花、薄)」が描かれた屏風絵に付された和歌であると分かります。そして、それら屏風歌には、共通して「ススキが男性を手招きする」さまが詠まれています。男女がいて、そこにススキが生えていたら、ピン!とくるものがあるのです。まずは、次の和歌。

秋の野の草の袂か花薄ほに出でて招く袖と見ゆらむ

『寛平御時后宮歌合』など。在原棟梁

ススキが、まるで人の袂のように手招きしていると見える、という歌。これは当時有名な作であったらしく、『古今和歌集』にも秋歌として採録されています。また、『新撰万葉集』にも、和歌の内容を翻案した漢詩と共に載せられています。その詩がこちら。

秋日 遊人 遠方を愛す、逍遙して野外 蘆芒を見る。
白花 搖動して招く袖に似たり、疑うは是れ 鄭生 任氏孃かと。

『新撰万葉集』

『新撰万葉集』の漢詩が、和歌の作者の心をよく理解して詩作していることは、前回の記事で述べた通りです。

ここでも、某詩人は和歌の意図をしかと受け取って、招くススキ(=白花)を「任氏嬢」のようだと表現しています。これは、中国の唐代怪奇小説である『任氏伝』のことで、白衣を着た、花のように美しい容貌の任氏(=実は、妖狐!)が、想い人である鄭生に袖を振る姿を、風になびくススキに重ねているのです。
先の屏風歌に戻りましょう。
恋する男女と、垣の根本に揺れるススキが描かれた屏風絵。それを見た歌人・紀貫之の脳内には、在原棟梁の和歌が閃く。幾重もの白い線で表現されたススキを見つめながら、彼は頷く。その目は、妖しげな美女・任氏の白い袖がゆらめくさまを確かに捉えている。画家の言葉なきメッセージをしかと受け取って、能書の彼は、屏風の上に筆を走らせる―。
そんな制作場面を妄想します。
プロの画家と、プロの歌人との対峙にして、協働。やはり屏風歌は絵と共に味わうようにできている。しかしながら、絵の方は現存しているものが大変少ない。これが、本当に嘆かわしいことです!

たとえば、白く薄いういろう製、秋風に翻る袖を模したお菓子。内側には、悲恋の血涙を思わせる赤を差したいところ。それでもって、銘は「花薄」。
如何でしょうかね。
秋の新作和菓子で出してくれないかしら。
(もしかしたらもう既にあるかも!?)

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