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【小説】「渋谷、動乱」エピローグ

 翌日の朝、知らないうちに運び込まれていた病院のベットで、奥田秋生おくだあきおは目を覚ました。意識がまだぼんやりとしていたが、こんなにゆったりとしたベットで目を覚ますのは、何年かぶりのことだと思った。
 何気なくベッドサイドの置き時計を見て、日付が変わっていることに気付いた。ゆっくりと深く呼吸をしながら、真っ白な天井を見つめ、昨日のことを思い出していると、まるですべてが夢の出来事だったように思えた。あの掲示板の黙示録でさえ、どうして自分はあれほどまでにこだわっていたのか、今はとても不思議で仕方なかった。そこへノックの後、病室の戸が開き、看護師の田辺涼子たなべりょうこが入ってきた。
「――あ、奥田さん。目、覚めましたね。どうですか体調は」
 近づいてきてベッドに横たわる自分を見下ろし、優しく声を掛ける田辺の顔を見て奥田は、白衣の天使は本当にいるのだと思った。奥田の顔に子どものような自然な笑みが浮かび、目じりからは涙が伝い落ちた。
 
「いらっしゃい、綾音さん」
 綾音はあの時の宣言通り、藤堂の店を予約し、1か月後に店を訪れた。
「あの後、大変でしたね」
 鋏を動かしながら、藤堂は綾音に聞かれるままに、あの日、カフェで別れた後のことを話して聞かせていた。
「あの後、一緒に救助を手伝った不知火アナから電話が掛かってきて、男性は無事退院しましたって」
「ほんと、よかったですね」
 藤堂は一度手を止め、鏡の中の綾音を見つめながら、
「箭内聡明の方は一時期、あの日のことがメディアで取り沙汰されて、名前を聞かない日はなかったけど、もうすっかり過去の人になってしまったもんね。綾音さんは何か知ってたりする?」
「いえ、特には。でも、まりあ、――あの時、まとめサイト教えてくれた友達です。まりあが言うには、なんか海外に行ったきり、戻っては来てはいないみたいな」
「そうなんだ。まあ、どうでもいいんだけど」
 
 都内某所にある高級ホテルの45階の一室で、箭内聡明は芸能活動を始めて以来、しばらく止めていた煙草をまた吸い始めていた。
「聡明さん」
 そう言って、マネージャーの糸井泉希いといみずきが、聡明が座るソファーの前の、大理石のローテーブルに置いたA4数ページの資料は、奥田秋生に関するものだった。
「ご覧いただけば分かる通り、いたってごく普通、いえ、それ以下と言っては失礼ですが、とりたてて気にするような方ではなさそうですね」
 聡明は左手で奥田の顔写真入りの資料をぺらぺらめくり、間もなくローテーブルの上に資料を放り出すと、ソファーに深く背中を預けた。
 
 自分の演説を止めたのはN局のディレクター橘哲史たちばなてつしだったが、その原因を作ったのは、あの時意識を失い、救急車で運ばれた奥田秋生に間違いなかった。奥田が持っていたリュックの中には、何故か拡声器が入っており、まさかとは思ったが、彼こそが自分の演説を止めようとしていたのではないかと疑った。そこで糸井に頼み、奥田の素性を調べてもらったのだったが、完全に当てが外れたようだった。だが同時に、奥田を突き動かす原因となったらしい例の掲示板の書き込みの存在が不気味だった。目下、糸井に調べさせてはいたが、今のところはまだ、詳しいことは分からない。父親の線もうっすら疑ったが、まさかそこまでするとも思えず、掲示板の書き込みの件はしばらく保留することにした。

 ――さて、である。
 聡明の頭の中にはすでに、新しいプランが出来上がりつつあった。芸能人でもない。活動家でもない。新しいセルフイメージの構築に向けたプランが。舞台はそう、――とそこで、聡明は誰かの視線を感じ、思考を止めた。聡明が振り返った背後には大画面のモニターがあるきりで、当然だが、この部屋には糸井と自分以外には誰もいなかった。聡明は真っ黒な画面に淡く写り込む自分の姿を凝視した。――あれは誰だ? 俺か? 本当に俺か? そう自問した後、ソファーに座り直し、今回のプランのスケジュールの前倒しの必要性を感じた。時機を逸しては事を仕損じる。父親の言葉だった。そうかまだ、背中には親父がいるのか。聡明はおもむろに、ローテーブルの上のクリスタルの灰皿を握ると、振り返り、背後のモニターに向かって思い切り投げつけようとして、はた、と止めた。そばにいた糸井の存在が、聡明の衝動を押しとどめた。心の中で、また貸しを作ってしまったなと呟き、続けて、ありがとうと糸井に礼を述べた。
「はい? いえ、いつものご依頼ですから」
 聡明は資料のことで礼を述べたわけではなかったが、まあいいかと、再び煙草を口にくわえ、大きく煙を吐き出した。
 父親の敏正が心不全で急死したのは、その3日後のことだった。

                               おわり

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