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連載【短編小説】「わたしの『片腕』」第二話

 突然、席を外してしまって申し訳ありません。
 さて、わたしが川端康成さんの『片腕』という短編小説に出会った時のお話でしたね。続きをお話します。 

 陰翳礼讃いんえいらいさんとばかりに、三和土たたきのある玄関は薄暗く、ウナギの寝床のように奥に長く伸びる廊下は、薄墨を刷いたかのようです。本当にこのまま、足を踏み入れてしまっても良いものでしょうか。行きはよいよい、帰りは怖いとはこのこと、振り返った時に玄関が無くなっているなどということだけは勘弁願います。  
 抜き足差し足で思わず、ひっ、と声を上げてしまった廊下は氷のように冷たく、着の身着のまま、裸足で駆け付けてしまったことを後悔しました。現在のような暖房のない室内は、どこもかしこも冷え冷えとしているようでした。さらに忍び足で廊下を進むと、左手の和室の障子に、何やら黒い人影のようなものがひとつ、ふたつ、影絵のように浮かび上がっているのが見えました。話し声が聞こえます。顔を近づけ、耳をそばだててみましょう。

「あ、指輪をはめておきますわ。あたしの腕ですというしるしにね。」

「おねがい……。」

「婚約指輪じゃないの?」

「そうじゃないの。母の形見なの。」

 落ち着きのあるしわがれた男性の声と、黒髪のおごりを知らぬ、まだあどけなさの残る少女のやりとりが聞こえます。ここまで来た以上、鶏のようにはやる好奇心を押さえつけることは出来ず、わたしは障子のかまちに指先を引っ掛け、す、すすと開き、行間ほどの視界を確保しました。見えます。見えます。なで肩で背中を丸めている和服姿の眼鏡を掛けた男性と、その向かいに座る、同じく和服姿の少女。男性のひざの上には、肉感のあるほっそりとした筒状のものが……。瞬時に、冒頭に続く一文を思い出しました。

 そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。

 ――そうです。あれは、少女の片腕に違いありません。途端、わたしはぴしゃりと障子を閉めました。ひとり、無性に怖くなったのです。あまりにもさりげなく書かれているために、その描写を丸々鵜呑みにしてしまいそうになりますが、待ってください。
 身体とは、無数の神経の束と筋肉、そして骨によって繋ぎ合わされているものです。それをこうも容易く、部品交換のように取り外すことなど出来るものでしょうか。
 ――いやいや、なんてことないじゃないかと、小馬鹿にしたように薄ら笑い、このまますらすらとお読みになられる方は、小説と言うフィクションを盲信していらっしゃるのではないでしょうか。これは作り話なのだから、どんなにおかしなこと、不思議なことが書かれていても、そこに疑いを挟む必要はない。現実を基準にして疑い出したら、小説など読めたものではない。隣のお部屋から、何故か男性の声でそのようにのたまう声が聞こえてきます。
 ですがわたしには、とても作り話とは思えなかったのです。今まで誰にも打ち明けたことはなかったのですが、これも何かの機会です。告白しましょう。わたしが幼いころ。そう、今のように眼鏡を必要とする前のことです。

 そこは、どなたかの広々としたお家だったと思います。鮮やかな緑色のカーテンを通して、外からの日差しが柔らかく差し込む中、フローリングの床の上に、当時のわたしと同じ五、六歳の女の子が仰向けに寝かされていました。桜色のワンピースを着ていたので、春だったのかもしれません。不思議なことに、わたしの視点はその空間にいながらにして、天井に据え付けられたカメラのような第三者の視点でした。理由は今もって分かりません。
 女の子の足元には、子熊くらいの大きさのくまのぬいぐるみが、ぺたりとお尻を付けて座っていました。手元には、カトラリーのナイフやフォークのように整然と、肩からひじ、肘から手首、手、太ももの付け根から膝、膝から足首、そして足と、それぞれのからだの部位のパーツが左右の対になって並んでいました。
 くまのぬいぐるみは、アンパンのようなまるまるとした手で、磁石のように各パーツを吸い付けて持ち上げると、両手を使って器用に組み合わせ、肩から手、太ももの付け根から足までの「腕」と「脚」を作り上げました。さて、その後はどうするのだろうと見守っていると、いえ、見下ろしていると、くまのぬいぐるみは横たわる女の子の腕と脚に、組み立てたばかりの腕と脚を並べてあてがい、ひとつ満足そうにうなずきました。そして、手始めにとでも言うように、女の子の右脚に手を伸ばすと、丸い手をぴたりをくっつけ、左右に揺さぶり、わずかに上に持ち上げたかと思うと、驚くべきことに、女の子の右脚が太ももの付け根から音もなく外れたのです。
 てっきり人間の子だと思っていた女の子は、どうやら「球体関節人形」だったようです。どうりで全く息を漏らさず、死んだように眠っているはずでした。くまのぬいぐるみは慣れた手つきで、女の子のすべての腕と脚を交換し終えると、突如、ふくろうのようにぐるりと首を回し、天井を見上げました。わたしは目が合うかと思い、とっさに視線をそらしました。くまのぬいぐるみは、天井の染みでも見つけようとするかのように、しばらくの間、天井を見上げていましたが、やがて飽きたのか、間もなく首を戻し、目の前に横たわる女の子に視線を注ぎました。当然のことながら、女の子は人形なので動くはずはありません。もしかしたら、くまのぬいぐるみは女の子に魂を吹き込み、目覚めさせることができるのではと期待をしたのですが、願いは叶いませんでした。

 ――そうでした。今、思い出しましたが、わたしはこのお話を母に話したはずです。夕食の支度のため、玉ねぎをみじんぎりにしていた母は、時々目を擦りながら、「面白いお話ね」と涙ながらに答えました。母にとってわたしが話す不思議なことは、いつも「面白いお話」として不要な本棚に片付けられていました。わたしは本を読む子どもではありませんでしたが、今、こうしてお話しているように、何かとお話を語る子どもでした。もし当時、母に話して聞かせたお話を全て書き留め、一冊の本にまとめていたらどんなに良かったでしょう。生憎あいにく、わたしが母に語ったお話の数々は、成長に伴い、わたしの記憶の中からも薄れ、くまのぬいぐるみのお話も、『片腕』を読んだからこそ思い出したものです。
 それからもう一つ、とても気になることがありました。ひとりでお風呂に入るようになってから気が付いたのですが、わたしの肩の付け根には、綺麗な輪を描くような傷跡がありました。母は「抱っこ紐の痕かしら」などとうそぶいましたが、そのようなごまかしが効くほど、わたしは子どもでも、無知蒙昧むちもうまいでもありませんでした。
 
 川端さんの『片腕』を読み進めれば読み進めるほど、その「片腕」は、もしかしたらわたしの「片腕」ではないかと思うようになりました。――虚実の混同? そうかもしれません。しかしわたしには、くまのお話も、片腕も、どれもこれもが本当のことに思えて仕方がないのでした。

                               つづく

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