I AM THATのメモ書き9 克服する力・神の癒し

こうした、本のメモ書きを取るという事はあまりやったことが無かった。
自分なりのやり方・やりやすい手順を模索している。
どうやら、私のマインドは一気に集中して片付ける方が好みなのだろう。
それなら、そのように進めればいい。
記事として進んでいなくても、私の状況は前に進んでいる。

9 ーーーーー


知覚とは認識ではないだろうか。何か全く知られていないものを感じ取ることができるだろう。
だが、知覚することはないできない知覚は記憶を伴うものだ。

知覚、想像、期待、不安、幻想は全て記憶に基づくものだ。
それらの間には、ほとんど境界線さえなく、互いに溶け込んでいる。
すべては記憶の反応なのだ。

身体が無意識にそれ自身を正しく調整するように、私も絶え間なく世界を正すよう活動している。

神の目を通して見、すべてはこれで良いということを見い出すのだ
苦しみはすべて人間の作り出したものであり、それらを終結させるのは人間の力の内にある。

人間を自らの行為の結果に直面させ、そのバランスを取らせるよう要求することで、神は助けている。
カルマ(因果応報)が公正さのために働く法則だ。それは神の癒しの手なのだ。
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前半の部分は、

I AM THAT との格闘3 にある内容を思い出させる。

「苦痛と快楽の両岸の間を生の川は流れていく。
生の流れとともに行くとは、来るものを拒まず去る者は追わずという受容を意味している。

欲望とは快楽の記憶であり、恐れとは苦痛の記憶だ。それらはともにマインドを揺り動かす。」

この辺りだ。
そして宇宙全史で「エゴ」と言われている内容だろう。

エゴについては、

一度まとめていたと思うが、繰り返す。
「社会に適合できるだけのエゴを形成し、それを薄くし、洗練させていくのが修行である。
死ぬまで、私たちはエゴと切り離すことはできない。
エゴとカルマには関係性がある場合もある。
脳科学で言うところの、内部表現といわれるものだろう。」

こんな感じの解釈を一旦している。
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神の目を通して見、すべてはこれで良いということを見い出すのだ

ここはどのように解釈しているだろうか?
私はI AM THAT との格闘 6 の話だと思っている。

「私たちの欠点や弱点を発見し、その原因や働きを理解する、知ると言うこと自体が、それを克服するのだ。

私たちは、経験と経験者のどちらからも身を引き、その間であり、またその2つを超えた純粋な気づきとして離れて立つのだ。」

純粋な気付き(真我)として離れて見、すべてはこれで良い 宇宙は在るがままで良い と見出す。

これは、
身体が無意識にそれ自身を正しく調整するように、私も絶え間なく世界を正すよう活動している。
ということでもあるのだろう。

身体やマインドにやって来る 苦痛や恐怖に気付き、
あるがまま として、手放していく
知ると言うこと自体が、それを克服する
絶え間なく世界は正されていく
と、認識している。

「苦しみはすべて人間の作り出したものであり、それらを終結させるのは人間の力の内にある。」
と本文にあるのはコレだと思うが・・・

「人間を自らの行為の結果に直面させ、そのバランスを取らせるよう要求することで、神は助けている。
カルマ(因果応報)が公正さのために働く法則だ。それは神の癒しの手なのだ。」
そして、コレは
神の癒しの手=公正さのために働く法則=カルマ(因果応報)
だということなのだろう。

何の話か?

ついてきているだろうか。

「知ると言うこと自体が、それを克服する」
というのを度々取り上げている。

何を知るのか?
私たちの欠点や弱点を発見し、その原因や働きを理解する。
自分の身体やマインドにやって来る不安や恐怖を観察するのだ。

不安や恐怖は記憶からやって来ることを知り、解けゆく。

「苦しみはすべて人間の作り出したものであり、それらを終結させるのは人間の力の内にある。」
と本文にある。

記憶により苦しみを自ら作り出し、気付くこと・理解すること・知ることによって克服する力が人には備わっている。
と解釈している。

この「苦しみを知ることで、克服する」人に備わっている力を
神はサポートしているのだ。

「人間を自らの行為の結果に直面させ、そのバランスを取らせるよう要求することで、神は助けている。
カルマ(因果応報)が公正さのために働く法則だ。それは神の癒しの手なのだ。」

ここは、このまま飲み込んでおこう。
「神の癒しの手」とは、甘いものばかりではないのだろう。


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