I AM THAT との格闘3

今回はメモを取る箇所が多い。
用語も難しい。

3 p27-

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苦痛と快楽の両岸の間を生の川は流れていく。
生の流れとともに行くとは、来るものを拒まず去る者は追わずという受容を意味している。

今現在に焦点の置かれたものは、私が常に今に在るからこそ、私とともにある。私が私自身の実在性を現在の出来事に与えるのだ。

現在の中に入り込んだ時だけ、私たちは思い出について考える。

欲望とは快楽の記憶であり、恐れとは苦痛の記憶だ。それらはともにマインドを揺り動かす。

孤立したとき、欠陥をもち、苦痛のありかとなる。
マインドはその本質上、分割し対立するものだ。

精神的過程が終焉したとき、包括的なマインドが生まれる。
包括的なマインドとは、愛が活動の中で環境と戦い、初めは挫折しつつも最終的には勝利を収めるようなものなのだ。

マインドが奈落を生み出し、ハートが橋を架けるのだ。
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欲望と快楽、苦痛と恐れについて
記憶や思い出、現在の実在性について
マインドと包括的なマインド、愛・ハートについて
かなり盛りだくさんだ。

欲望や苦痛というのは記憶からやってくるもの。
記憶が現在に入り込んだ時に思い出す。
今現在にいる私が、実在性を、過去の出来事に与えることで、
欲望や苦痛が、今現在にも現れる。
ということなのだろうか・・・

御祭船で語られている「閉塞空間」については、
この辺と関わる気がする。
肉体の現在と体感・脳内の現在がズレているような状態。現在に立っている周囲からの介入を感知できない。という感じだろうか。

宇宙自体は完全であるのに、マインドが分割して捉えてしまうので、
欠陥や苦痛というものが生まれる。
分割や対立という性質のないマインドが包括的なマインド。

「精神的過程が終焉したとき」
というのは、
「愛が活動の中で環境と戦い、初めは挫折しつつも最終的には勝利を収めるようなものなのだ。」
ということなのか・・・

宇宙全史では「永遠への愛」「絶望」などの用語がよく出てくるが、その部分と関わっているのだろうか。

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起こることがあなたなのではなく、あなたにものごとが起こるのだ。
あなたはすべてを包括する意識の究極的可能性であり、その表現、そして顕現なのだ。
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とある。
前半部分は、宇宙全史で語られている内容と重なると思う。
今はニサルガ用の脳みそになっているようだ。引用が全くできない。
「過去はエゴ 肩書もエゴ 経験もエゴ」というような感じがあったような気がする・・・
何が言いたいのか。例えば、
「片親だった」「障害がある」「いじめられっ子だった」であったり
「先祖代々裕福」「賞をもらった」「努力して成功した」といったものは、
起こった出来事であって、これが 私 ではない。
私というのが先にあり、そこに向かって、物事がおこったということ。

肩書として表現できるものは、私ではない。
本来の私に対して、ものごとが起こり、それに応じた立場・視点の私(宇宙全史で言うエゴ)が出てきた。
今まで「生まれてから、外付けしてきた私」という認識をしていた。
この後から出てきた私(エゴ)が、太陽をさえぎるように、「私は在る」を見えなくしている。
と、今は理解している。

そして、「外付けしてきた私」を否定・拒絶し尽くした先に、
「すべてを包括する意識の究極的可能性としての私」 が見えてくるのだろう。

1章づつメモを取りながら、読んでいくと最初よりは読みやすくなってきている。
そもそもの質問が難しい。質問者側の用語が混ざっている。
そこに、ニサルガの用語も難しいというのが一つ混乱する部分のようだ。

今「クオリア」という言葉を思い出しているが、頭がパンクしそうだ。
コツコツやっていきたい。



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