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【シリーズ第3回:黒人アーティストの人生】🎵ソウル(魂)を感じたい🎵

 このシリーズでは、私の大好きな黒人アーティスト、特に、1970年代、80年代に活躍したR&B、SOULミュージシャンを紹介しています。

・・・さて、誰でしょう🎵


ヒント

  1. 業界に入る前はギャングでした。

  2. シンガーソングライターです。

  3. アレンジャー、プロデューサーでもあります。

  4. 女性トリオをプロデュースしました。

  5. ソロでも歌っています。

  6. ディープでセクシーなバリトンヴォイスです。

  7. セックスシンボルと呼ばれ、女性に大人気でした。

  8. Dr.Love、ピロウ・トーク(睦言)というニックネームもありました。

 

生い立ち

 彼は1944 年にテキサス州で誕生した。
 幼い頃にギャングの巣窟、カリフォルニア州サウスセントラルのワッツ市へ引っ越しをする。
 ママと13カ月違いの弟と三人暮らしで、とても貧乏だった。
 彼らの生活にはお金も、車も、成功も、何もなかった。
 5歳になる頃には、この町でいかに生き延びるか・・・ということを考えていた。
 
 しかし、ママはとてもポジティヴで、愛情深い人だった。
 「ワッツというゲトーで暮らす黒人と、その他の場所で暮らす人々に違いはない!」
 と子供たちに言い続けた。

 ママはクラシックミュージックが大好きで、彼も4歳のときにピアノを習い始めた。
 幼い頃からクラシックをはじめ、ジャズ、ロック、ゴスペル、カントリー、様々なジャンルの曲が家で流れていた。
 そんな彼には音楽の壁がなく、すべてのジャンルが、ひとつの「音楽」だった。

 14歳のとき、色っぽいバリトンヴォイスに変わった。
 寝ている間に、声変わりが完了したようだ。
 朝、ママに話しかけると、別人の声になっていて、彼もママも仰天した。
 「私のベイビーが、ベイビーじゃなくなった~!」
 とママは泣いた。
 彼も聞きなれない自分の声が怖かった。
 けれども、若い女性には人気があったので、1か月ほどで不安は吹き飛んだ。 
 
 ママは、どんなときも食べるものだけは準備してくれた。
 けれども、ワッツで収入を得ることは簡単なことではない。
 彼は生きるためにギャングになり、車を盗み、ワッツでできるすべてのことをした。
 しかし、キャデラックのタイヤを盗んだとき、ついに御用となった。
 16歳だった。

 牢屋では、起床、食事、就寝時間、すべて決められていた。
 
 「・・・自由がない~!こんな生活は嫌や~!!!」

 釈放されたら、ギャング生活から足を洗おう。
 これからの俺の人生は、ポジティヴなことをしていこう!!と決意する。

 釈放から2日ほどした頃だ。
 レコーディングのためのベースシンガーを探していた友人に、
 「歌ってくれる?」
 と頼まれた。
 彼に断る理由はない。

 人生初のレコーディングを終えたとき、彼はこの業界が好きだと思った。
 そして、教育を受けていない彼にできることも、音楽だけだった。

 リフォームスクール(少年矯正施設)へ行く予定だったけれど、彼は自分自身でリフォームすることにした。

 

ハリウッドへ


 しばらくして、彼の17歳の誕生日がやってきた。
 その日の朝、起きた瞬間に、

「俺はハリウッドへ行かなあかん!!!」

 と強く感じた。
 神様のお告げだった気がする。

 しかし、ママは大泣きした。
 「ハリウッドには、知り合いも頼れる人も、誰もおらんやん!」
 「白人は、あなたのことなんか愛してないのに!」
 「あなたはきっと殺される~!!!」

 しかし、サウスセントラルから、ゲトーのワッツから脱出する方法は、他に考えられない。 
 その日のうちに、彼はハリウッドへと旅立った。

 まず、Hollywood Blvd(ハリウッドブルヴァード)と、VINE St(ヴァインストリート)の交差点で4時間立ってみた。
 ・・・誰もなにも言ってこないし、なにも起こらなかった。
 彼はこのとき、フリーダムを感じた。

 よしっ!俺はハリウッドでやっていける!!! 

 
 彼は小さなレコード会社を転々としながら、いくつかのバンドでシングルをリリースした。
 しかし、ステージに立ったとき、彼は思う。

 「これは、俺のしたいことじゃない!!!」

 ツアーマネージャーの仕事もしてみた。  
 この頃の南部は、まだまだ人種差別が激しかった。
 白人と黒人の隔離は、レストラン、ホテル、シアター、あらゆる場所に存在した。
 そして、はじめてのツアーで、彼は三度も殺されかけた。

 「ツアーには、二度と行きたくな~い!!!」

 そこで彼は、制作側の仕事にフォーカスする。
 作曲、アレンジの仕事は、すぐにお金になる点でもありがたい。
 
 最初に参加した曲は、1964年にリリースされた、Bob&Earl の”Harlem Shuffle”だ。
 この曲は、後にRolling Stonesにもカバーされている。

 「2日間でヒット曲を出す!」
 と言って出来上がったこの曲には、クラシックを聞いて育った彼のアイデアが散りばめられている。
 しかし、アイデアは使われただけで、彼の名前はクレジットされなかった。
 
 このとき彼は学んだ。
 自分のアイデアは、自分自身で守らなければならない。
 曲が良ければ、他の誰かがコピーしてくれる。
 いい曲を作り続けることが鍵だ!!!
 
 そこで彼は、同じサウスセントラル出身のViolla Wills(ヴァイオラ・ウィルス)や、プリティヴォイスのFelice Taylor(フェリス・テイラー)のプロデュースをする。
 シンガーの発掘、作詞、作曲、アレンジを含む、すべてのプロデュースを彼が行った。

 Felice Taylorの"It May Be Winter Outside (But in My Heart It's Spring)"はマイナーヒットを生み、彼の実力は少しずつ認められていく。

https://www.youtube.com/watch?v=OQwilsT7lFM


ついに・・・!!!


 1972年、彼がプロデューサーとして成功する日がやってくる!

 プロデュースした3人のトリオは、全員が素人だったので、リハーサルに1年を費やした。
 そして、リリースしたアルバム”From a Girls Point of View We Give to You-Love Unlimited"は、ビルボードのR&B部門で19位を記録した!!

 続いてリリースしたシングル"Walkin'In The Rain With The One I Love"は、R&B部門で6位を記録し、ついにミリオンセラーに達するのだ!!!

 

その人物とは・・・



Barry White(バリー・ホワイト)で~す。



 トリオのグループ名はLove Unlimited。
 ミリオンセラーの曲がこちら↓

 曲の途中、電話で男性と会話をするシーンがある。
 その声の主がBarry Whiteだ。

 ん~・・・たまらんっ!!

 Love Unlimitedは、Glodean James(グロウディーン・ジェイムズ)、Linda James(リンダ・ジェイムズ)の姉妹と、彼女たちのいとこ、Diane Taylor(ダイアン・テイラー)で構成される。
 彼はポジティヴな彼女たちが大好きだった。 
 中でも、Glodeanは特別だ。
 数年後、彼の想いが届き、GlodeanはMrs. Whiteになる。
 
  The Love Unlimited Orchestra

 翌年、彼はLove Unlimitedのバックバンドに、40ピースのオーケストラ、The Love Unlimited Orchestraを構成する。
 
 中でも世界的に有名になった曲で、彼が、
 「二度と作れない」
 と言った作品が”Love Theme”だ。
 フィリーソウル、ディスコの超豪華ヴァージョン!

 オーケストラだけの演奏もある。↓ 

 オーケストラの指揮をしているでっかい男性がBarry Whiteだ。
 ビルボードのポップチャートで1位を記録したこの曲は、アメリカだけではなく、ヨーロッパやアジアでも、テレビ番組のオープニングやコマーシャルのBGMなど、色々な場面で使用された。 

 彼の音楽が世界に受け入れられる理由のひとつは、「壁がない」ことだ。
 「白人のプロデューサーは黒人の音楽を、黒人のプロデューサーは白人の音楽を理解しない人が多い。音楽はフレームだ。カッコいいリズム、そしてフィーリングがポイントだ。いい音楽に壁なんてないよ」
 という彼の話は、ずっと心に残っている。 
 
 さて、個人的には、この曲を聞くと大学時代を思い出す。
 ホテルの結婚式の披露宴会場でアルバイトをしていたとき、招待客が入退場する際のBGMで、この曲が使われていた。
 毎週末、披露宴を2,3件掛け持ちし、何十回も聞いていた。披露宴が終わっても、頭の中をグルグルグルグルまわっていた。
 

シンガーとしての活動


 Love Unlimited、The Love Unlimited Orchestraに加えて、男性ソロシンガー用の曲が、3曲できていた。
 ところが、肝心のシンガーが見つからない。
 20th Centuryのオーナーは、彼が作ったデモを聞いて仰天した。
 「君、歌えるやん!!!自分で歌えばええやん!!!」
 と言って、3万7千ドルの予算を組んでくれた。
 ステージに立つことを拒み続けた彼だったけれど、ついに自分で歌うことを受け入れた。

 そしてリリースされたアルバムが”I've Got So Much to Give”だ。
 その中の”I'm Gonna Love You Just A Little More Baby”は、R&B部門で1位を記録する!!!

 どうだっ!!
 Barryの歌がなくても、最初のリズムからカッコいい!!
 ヒップホップっぽいドラムに、クラシカルなサウンドがかぶさり、ピアノ、弦楽器が入り、最後にどー----んとオーケストラだ~!!!

 同じタイミングでリリースしたシングル”Never Gonna Give You Up"と”Can't Get Enough of Your Love, Baby”も大ヒットする。

 観客が踊っている映像からもわかるように、時代はディスコ全盛期だった。
 彼の曲は時代にピッタリはまった。
 
 彼のもうひとつニックネームは”King of Disco”だ。
 
 しか~し!女性の観客は踊っているだけではない。
 彼のささやくようなセクシーヴォイスに、コントロール不能になった彼女たちは、ステージにパンティはもちろん、家の鍵をぶんぶん投げた。  
 

Change


 1970年代後半になると、ディスコ全盛期が終了する。
 それとともに、彼の勢いもなくなっていく。
 アルバムをリリースしても、以前のように上位に入らない。
 1979年、20th Centuryを去ったときに、自身のレーベルを持ったけれど、大所帯のバンドに経費がかかり、こちらも維持できなくなる。

 その中で唯一、R&B部門で20位になった曲が、1982年にリリースされたシングル”Change”だ。
 サウンドが時代に合わせてコンテンポラリーになっているので、好みはあると思うけれど、相変わらずカッコいい。  

 しかし、変わったのはサウンドだけではない。
 ピロウトークがなくなり、歌詞の対象が女性から若者に代わっている。
 女性としては、彼のスウィートで、セクシーなバリトンヴォイスをもっと聞きたいところだ。

 けれども、彼はこの曲を通して、若者に大切なことを伝えようとした。
 その歌詞は、

「世の中はずっと同じじゃない。
 俺たちも変わらなきゃならない。
 チェンジだ!
 自分のやりたいことをするために、きちんと目を開き、これから起こることを見極めろ。
 教育は絶対だ。
 人間は、テクノロジーに置き換えられるぞ。
 決断をし、力強く前に勧め。
 神様に感謝し、周囲の人とコミュニケーションをとるんだ。
 チェンジだ!!!
 私はできる!
 君にはできる!
 彼女もできる!
 彼にもできる!
 俺たちはできるんだ!」

 ブラザー、シスターたちが、ポジティヴでい続けることを忘れないよう、歌詞の中で「できる!」というフレーズをいっぱい使っている。
 
 ちょうどアメリカは、黒人居住地にクラック(ドラッグ)がばらまかれた時代だった。
 これまでも貧しかったけれど、クラックの到来は、黒人たちの崩壊を招いた。
 
 「この国の決定に、我々は含まれていない。
 この国は、我々黒人のことなど気にかけていない。
 俺たちが成功しないように、この国は黒人に教育を与えない方法を常に考えている。
 外の世界は冷酷だ。
 それでも俺たち黒人男子は、家族を養わなければならない。
 黒人やヒスパニックはテクノロジーについて何も知らない。
 俺たちはその使い方、直し方を学ぶ必要がある。
 学ぶことに遅すぎるということはない。
 怠けている暇はないぞ!」

 この歌は、若者への警告だった。

 

復活!!


 常に自分の進むべき道を知っていた彼は、1989年以降、少しずつ、少しずつ復活をはかっていく。
 そして1994年、アルバム”The Icon Is Love”、シングル”Practice What You Preach”で、ついにR&B部門の1位に返り咲く!
 20年ぶりのことだった。

 彼の最後のアルバムは、1999年にリリースされた”Staying Power”だ。

 この曲は、

 「俺はどこにもいかないよ・・・今夜、俺たちはメイク・ラヴをするんだ・・・君が終わったと思っても、俺はすぐに戻ってくるぜ・・・俺はパワーを維持してるのさ・・・俺の舌、そして唇は、君のボディに歓喜を与えるためにあるんだ・・・君をここにとどめておけるのは愛だけじゃない・・・俺にはそれ以上のものがあるんだ・・・」

 わ~い!!!Dr. Love!Mr.ピロウトークの復活だ~!!!

 ちょっとスパイスが効いていますが、これぞBarry White!という歌詞。

 この曲はビルボードでは45位止まりだったけれど、グラミー賞の、ベスト男性R&Bヴォーカル、ベストトラディショナルR&Bヴォーカルパフォーマンス部門を獲得した!!! 


 愛のパワー

 
 Barry Whiteはオーヴァーウェイトが原因で、高血圧、糖尿病、腎疾患などを患い、2003年7月、58歳という若さで亡くなった。

 彼はその人生で、素晴らしい曲を作り続けた。
 41枚のプラチナアルバム、109枚のゴールドアルバム、10枚のプラチナシングル、20枚のゴールドシングル。
 総売り上げは1億枚を超えた。

 彼の音楽、人生のテーマは「」だった。

 愛はすべての人々が欲するもの。 
 愛はパワフルで、ポジティヴなもの。
 I Love Youは世界共通の言葉。
 愛には扉を開けるパワーがある。

 彼は音楽を通じて、常にポジティヴで、愛にあふれていたメッセージを送り続けた。

 「ゲトーで暮らす黒人と、その他の場所で暮らす人々に違いはない!」
 
 ママの力強い言葉は、彼のベースだ。

 彼には、人種、そして音楽に壁がなかった。
 世界中の人々に、彼の作品が愛され続けた理由である。

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