シロクマ文芸部掌編小説「夏は夜があかんねん」
「夏は夜があかんねん。」
久しぶりに会った友人は
俺の顔を見るやいなや
そう切り出した。
「なんやその久しぶりに会った友人に対する一言目は。」
俺はけらけらと笑いながらも、
そういえばこの男はいつも
話しの切り口が独特なことを思い出した。
確か、前に会ったときは
「ミートスパゲッティが空から降るなら」
だった気がする。
「この蒸しかえるような暑さ、日中の陽気な暑さとは打
って変わって、陰湿な暑さとでも言おうか。」
友人はそう言ってわざとらしく
俺の方を見ないで歩き始める。
「なんちゅーのかなあ、夏の日中の暑さなら受け入れられんねんけど、夜のこの暑さだけはどうしても許せんねんなあ。」
「なんやそれ。」
俺は友人の後を追った。
いつもの習慣である。
この男と会う時は必ず、飯時で、
しかしすぐには店に入らず
1時間ほど、その店の周辺をうろうろと散歩してから
ようやく飯にありつくことができる。
友人曰くそれは
最大限ご飯を美味しく食べるための
一種の儀式のようで
「初めて赴く店の土地っちゅうもんを、ある程度知っとくだけで、飯の美味さが変わってくんねん。」
と胡乱げな俺の眼差しに向けてよく説明した。
賑やかな駅前の繁華街から逸れると
一変して古びた家屋が建ち並ぶ
閑散とした住宅地に入った。
「感覚的にいえば、夏の真昼は開放的な暑さで、日が暮れていくにつれ、それが狭まっていくような感じやな。非常に息苦しい。」
俺は仕事の疲れのために、あまり口を開かないでいると
友人はそれを見計らって、立ち止まった。
「ほら見てみぃ、まんまるやで、月。」
「ほんまや、綺麗やなあ。」
視線を空へ向けると、確かに満月だった。
「綺麗なもんか、夏の夜の月ほど憎たらしいもんはない。熱帯夜に苦しむ人間を涼し気な顔で見下ろして浮かんでるんが腹立つわ。」
「何や、なんかあったんか。」
「かといって、月が顔出してへんときも、それはそれでなんか腹立つけどな。」
いつもと様子のおかしい友人に
俺は眉をひそめた。
しばらく歩くと橋があった。
欄干の赤い、趣のある木橋である。
友人ははたとその橋の上で立ち止まった。
「おい!見ろよ!蛍や蛍!蛍がよーけ光って飛んどるで!」
友人はそう叫んで川の方へ指を差すと、
俺も同じように橋から川を覗き込んだ。
確かに川べりに伸びた雑草から、蛍の光が飛び交っている。
「今年初めて蛍見たわ。やっぱりええなあ。」
俺が感心したようにそう呟くと、
友人は今度は身を潜めるような小さな声で
「いやけど、蛍ってよー見たらきしょいで。調べてみ。あいつら光るから重宝されとるけど、光らんかったら、ただのキモい虫や。」
と言った。
俺はさすがに様子がおかしいと思い、
「おい、ほんまになんかあったんか?さっきから、お前おかしいぞ。お前は確かにこの歳になっても、手に職をつけんと、ふらふらして、何をしてるんか分からんが、しかし、いつも物事に対して寛容で、人や物の悪い側面ではなくて、常に美しさを見出す男やったはずや。
今日のお前はおかしい!」
と一頻りそう言うと
友人は少し考え込み、
顔に手を当てながら、
「さすがに雨は降らんか。」
とくすくす笑い出した。
俺は思わぬ友人の反応にとうとう気でも狂ったのか、
と心配した表情になっていると、
友人はごめんごめんと申し訳無さそうな顔を浮かべ、
「いやあ、ちょっと、逆説的枕草子をやってみようかと試みてんけど、思いの外上手くいきすぎて、全く気付か
れんかった。」
「逆説的枕草子?」
「いや、枕草子の歌あるやん。夏は夜ってやつ。あれの全部逆を会話の中で入れて、気付かれるかやっててんけど、ほんまに蛍おったんで、俺も驚いとる。」
と腹を抱えて笑い出した。
本当にしょうもない男である。
だがそのしょうもなさに
いつの間にか仕事の疲労を忘れて、
俺もしばらく笑っていた。
「ほな、ま、飯行こか。」
いつまでもこんな時間が続くことを
夏の夜に祈りながら、
俺と友人はそう言って歩き出した。
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