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【短編小説】インビジブル・ジャッジ【イソップ寓話:狼と仔羊】


イソップ寓話「狼と仔羊」狼が川で水を飲んでいる仔羊を見つけ、食べる口実を探して「お前は水を濁らせている」と非難した。仔羊は「私は川下にいて、濁せるわけがない」と反論するが、狼は次に「お前は去年、俺の親父に悪態をついた」と言う。仔羊が「その時は生まれていなかった」と答えても、狼は「言い訳は通用しない。食べないわけにはいかない」と言い放ち、結局、狼は仔羊を食べてしまった。

インビジブル・ジャッジ ~変えられない運命の輪~



初夏の陽光が道場の窓から差し込み、畳の上に黄金色の矩形を描いていた。高橋みのりは、その光の中に佇み、地方紙の若い記者と向き合っていた。
記者の目には、取材対象への好奇心と期待が浮かんでいる。
大学の練習試合で目覚ましい活躍を見せ、来る地方大会での躍進が期待されるこの新星に、一足先に取材の機会が訪れたのだ。

みのりが柔道着の襟元を整えると、記者は思わず目を見開いた。
その仕草には、先日の練習試合で見せた鮮やかな一本勝ちの余韻が感じられる。
畳の上では、みのりの長身が際立っていた。

「柔道の魅力は技術と戦略のバランスにあると思います」

みのりは熱心に語り始めた。

「最近は内股や払腰、それに技の連携にも挑戦していて…」

記者は頷きながらメモを取っているが、その目は明らかに興味を失っていた。
ペンを走らせる手も次第にスピードを落としていく。

みのりは記者の反応に気づかず、さらに続ける。

「監督からは『基本が大事だ』『形をきれいに決めろ』とよく言われるんです。まだ難しいですけど、必ず身につけてみせます」

記者の目が泳ぎ始めた。

「へぇ〜、なるほどね〜」と、明らかに興味なさそうに相槌を打つ。

そして、突如として話題を変えた。

「ところで、高橋選手が目標にしている選手はいるんですか?」

みのりの表情が明るくなる。

「はい!オリンピック代表の...」

「へぇ〜!」記者の声が一気にトーンアップした。
その目には突如として光が宿る。

「あの人、イケメンですよね!あんな感じの顔がタイプなんですね!」

みのりの顔に戸惑いの色が浮かぶ。

「え?いえ、そういう意味では...」

しかし、記者は我関せずといった様子で畳み掛ける。

「じゃあ、好きな男性のタイプは?デートではどんなところに行くんですか?」

みのりは困惑した表情を浮かべながらも、なんとか答えようとする。

「えっと...そういうことはあまり考えたことがなくて...」

「柔道やってると男性が寄ってこないんじゃないですか?」

記者の質問は、まるで投げ技のように容赦なく繰り出される。
みのりは必死に話題を柔道に戻そうとした。

「いえ、そんなことはないと思います。むしろ柔道を通じて多くの方と知り合えて...」

「なるほどね〜」記者は再び興味なさそうな様子で相槌を打った。
そして、突然カメラを取り出す。

「そろそろ写真を撮りましょうか」

みのりの表情が少し和らぐ。

「はい、分かりました。道着姿でよろしいですか?」

「いえいえ、そのままで大丈夫ですよ」

記者は手を振って制した。

「ちょっとこっちに来てもらえます?」

みのりは困惑しながらも、言われるがままに移動した。
背景には道場とは無関係な、近くの公園が広がっていた。

「はい、じゃあそこの花の前でちょっと笑顔で...そうそう、いいですね〜」

カメラのシャッター音が鳴る中、みのりの表情には微かな違和感が浮かんでいた。

その写真が、一部の関係者の間で密かに話題になるまでに、それほど時間はかからなかった。


藤原恵子は、とある大学の道場の片隅で静かに立っていた。
手元には半ば開かれた地方紙があり、その端には「大学柔道界のプリンセス、恋愛を語る」という見出しがわずかに見えている。

道場では、女性選手たちが試合の準備を進めている。
藤原が彼女たちを一瞥すると、その視線だけで選手たちはピシリと動きを引き締めた。
藤原の無言の存在感が、道場全体に緊張感を与えている。
外から、若い女性選手たちの囁く声が微かに聞こえてくる。

「見た?高橋みのりって子、伝統なんて時代遅れだって言ってるみたいよ」
「海外の柔道選手と写真撮ってインスタあげてたし、ちょっとどうかと思うよね」

藤原は静かに新聞をたたんだ。
彼女の顔に一瞬影が差したが、その思いを表情に出すことなく、道場内を見渡す。
視線は道場の隅に飾られた古い柔道着に向けられる。
そこにあるのは、彼女がこれまで築き上げてきた柔道の歴史と、伝統の重みを象徴するものだった。


数週間後、ある地方大会の準決勝。
会場には張り詰めた空気が満ちていた。

みのりは、試合場の端に立ち、深呼吸を繰り返していた。
向かい側には、名門国立大学の吉岡選手。
名門を背負った彼女は小柄だが凛とした姿勢で立っていた。
観客席からは、吉岡への声援が大きく響いていた。
みのりは、自分の柔道衣の襟元に手をやる。
「実力だけが物を言う、畳の上なら...」そう自分に言い聞かせる。
しかし、その思いとは裏腹に、試合開始前から、主審である藤原の厳格な姿勢を感じていた。
藤原は無言で、みのりの柔道衣を鋭くチェックする。
襟元、帯の結び目、袖の長さ。彼女の視線は、まるでレーザーのように隅々まで走った。
試合前から藤原の無言の圧力が、みのりに小さな汗を滲ませる。

「はじめ!」

ようやく試合開始の合図。
みのりの動きは、まるで水が流れるかのように滑らかだ。
コンディションは悪くない。
早々に内股で相手を崩す。一瞬、相手の背中が畳に触れたように見えた。

(決まった!)

会場から大きなどよめきが起こる。
しかし、藤原は反応を示さない。
みのりの表情に、一瞬の戸惑いが走る。
しかし、それを振り払うように、再び攻撃の態勢に入る。
試合は進む。
みのりは連携技を狙い、小内刈りを試みる。
しかし、相手にかわされる。
何度目かの小内刈りからの大内刈りを仕掛けられると思った瞬間、藤原が「待て」と叫んだ。
そして、みのりに偽装攻撃の「指導」が示される。
みのりは瞬間、頭が真っ白になった。
明らかに攻撃を仕掛けていたはず…。
何がいけなかったのか。
判定は公平ではないのか?
疑念が彼女の心を重くする。
自分の努力は無駄なのか。
彼女の中で、自信が少しずつ崩れ始める。
そういえば、試合が始まる前から藤原とは一度も目が合わない。
いや、合わそうとしない。
そこにいるはずなのに、存在を認められていない。
そんな扱いをされているようだった。
みのりの動きが、少しずつぎこちなくなっていく。
相手の攻撃をかわすことに必死になり、手を出せない。
いや、手を出したところで…。
そう思っていた矢先、消極的な姿勢に対して「指導」が入る。
みのりの中で何かが徐々に崩れだしていた。
集中力を欠いた一瞬の隙。
吉岡の大外刈りが決まる。
みのりの背中が鮮やかに畳を打った。
藤原の手が迅速に上がり、「技あり」の判定が下される。
会場からどよめきが起こった。

(まだだ…ここで終わらせるわけにはいかない)

みのりは立ち上がり、再び攻撃を仕掛ける。
彼女の目には迷いはない。
ただひたすらに勝利を目指す。
その瞬間、藤原と目が合う。
先程までとは違う。
みのりを真剣に見つめる目。
それは、今までとは違う、ここにいる自分という存在を確かに認識している目だった。
残り時間わずか。
みのりは最後の力を振り絞り、得意の払腰を繰り出す。
相手の体がふわりと浮くのが分かった。
次の瞬間、吉岡が畳に倒れていた。
会場が沸いた。
みのりの心臓が高鳴る。

(一本!)

彼女の中で声が響いた。

「技あり!」

みのりの目から一瞬で光が消える。
驚きと失望が、彼女の顔を侵食する。
時間切れの合図と共に、藤原の「それまで」の声が響いた。

敗北は確定していた。
これはきっと試合前から決まっていたことなのだろう。
そう感じた瞬間、彼女の心には大きな穴が空いた。
頭の中が真っ白になる。
足がふらつく。
畳の上に座り込んでしまいそうになるのを、必死に堪えた。
観客の声も、監督の声も、すべてが遠くに聞こえる。
ただ、自分の鼓動だけが耳の中で大きく響いていた。
「なぜ...」という疑問が、みのりの心を締め付けた。
彼女の目には、涙が溢れそうになっていた。
それは悔しさか、理不尽さへの怒りか、彼女自身にも分からない。
藤原と目が合った。
彼女の目には、厳しさの中に何か別のものが宿っているように見えた。
それが何なのか、今のみのりは理解できる状態ではなかった。
みのりは深く息を吐き出し、ゆっくりと歩き出す。
彼女の心には、敗北の重みと同時に、喪失感が漂っていた。

試合後、記者に囲まれた監督の狭山が質問を受けていた。

「高橋選手、本調子じゃなかったんですかね?精彩欠いてた気がしますが…」

狭山は、言葉を選びながらも、ひとつひとつ丁寧に石を置くかのように答えた。
「いや、調子は良かったはず。これは…まるで…最初から高橋を負けさせるつもりだったんじゃないか...」

その言葉は、場の空気を一変させた。
記者たちのペンが一斉に止まり、カメラマンのシャッター音が急に鳴り始める。

みのりは、その騒ぎから少し離れた場所で、ぼんやりと立ち尽くしていた。
彼女の目は、遠くを見つめている。
そこには、彼女の夢と、それを阻む見えない壁が映っているようだった。
この敗北に、どんな意味があったのか。
誰も彼女に教えてはくれない。
藤原は、みのりから少し離れた場所で静かに立っていた。
その表情は厳しさを保ったままだったが、目には何か複雑なものが宿っていた。
二人の間には、言葉では表現できない何かが流れているようだった。


試合の翌日、みのりの敗北を報じるニュースが、まるで津波のように広がっていった。
地元紙の一面には「大学女子柔道期待の星、無念の敗退!厳しすぎる判定に疑問の声」の見出しが躍る。
そのすぐ下には、涙をこらえるみのりの表情がアップで掲載されていた。
その写真は、みのりの瞳の奥に秘められた複雑な感情を捉えており、読む者の心を揺さぶるものだった。
少し前までみのりの柔道には全く興味を示さなかった地元メディアは、こぞって悲劇のヒロインの写真を掲載し、専門家の見解とSNSの声を載せて審判の判定を批判した。
その様子は、まるで餌を求めて群がる魚の群れのようだった。


試合から数日後、大学構内のベンチにみのりの姿があった。
近くで狭山が電話対応に追われている。

「いやいや、そんな、抗議するなんてつもりはありませんよ。...はい…はい…分かりました」

電話を切った後、狭山は疲れた表情でベンチに深く腰掛けた。
みのりの目は遠くを見つめ、まだ心の一部は試合会場の畳の上に置いてきているような表情だった。
狭山は、重苦しい空気を和らげようとするかのように、わざとらしくおどけた声で話し始めた。

「いや~、ちょっと言い過ぎちゃったかな」

みのりは、狭山を見つめた。
その瞳には、疑問と不安が渦巻いていた。

「監督、あの試合…やっぱり最初から負けることが決まってたんですか?」

彼女の声には、痛みと迷いが混ざっていた。
狭山は一瞬言葉に詰まり、そして真剣に答えた。

「あのときは俺も頭にきて、ああ言ったが…。さすがにそれはないだろう」

狭山の冷静な言葉が、みのりの心に一筋の光を射し込む。
彼女の表情に、わずかながらも安堵が浮かんだ。

「そうですよね…最初は私が何をしても勝たせないつもりなんだ!って思ってました。でも途中で目が合ったんです」

「目が合った?」

狭山の声には、興味と驚きが混ざっていた。

「そう、主審の…藤原さんでしたっけ?ずっと目を合わせてくれなかったんですよ。私なんて、目を合わせるまでもない存在なんだって思ってました。でも途中から目が合うようになったんです。私という存在を見ているって、その時思えたんです」

みのりは、試合中に感じたことを言葉ではうまく言い表せない。

「…それで負けることが決まってるわけじゃないって思えた?」

整理のついていないみのりの言葉を、狭山は少しでも理解しようと試みていた。

「うーん、よくわかんないです」

その時、狭山のスマホが鳴った。彼は慌てて電話に出る。

「もしもし…あ~これはこれは…え?この後ですか?はい、大丈夫ですよ」

狭山は電話を切ると、みのりに向き直った。

「高橋、道場に行くぞ」

狭山の声には緊張感が漂っていた。
みのりは、何か大きな転機が訪れようとしていることを直感的に感じ取った。
二人は立ち上がり、静かに道場へと向かう。
外では、夕暮れの光が街を包み込み始めていた。
キャンパスの石畳を歩きながら、みのりの心臓は次第に早鐘を打ち始める。
道場に近づくにつれ、その鼓動はさらに激しくなった。


大学内にある道場は、静寂に包まれていた。
畳の上に落ちる長い影に、みのりは息を呑む。
そこには、既に一人の人影があった。
藤原恵子だった。
みのりの心臓が大きく跳ねる。
藤原の姿を見た瞬間、試合での記憶が鮮明によみがえった。
しかし、今の藤原の表情には、試合のときの厳しさはない。
代わりに、何か深い思慮が宿っているように見えた。
狭山が藤原に近づき、小声で話を始める。みのりには聞こえない。
しばらくして、狭山がみのりに向かって言った。

「高橋、着替えて畳に上がりなさい」

その声には、いつもの温かさと共に、緊張感を纏っていた。
みのりは戸惑いながらも、柔道衣に着替え畳に上がった。

「何でしょう?この前の試合のことですか?」

彼女の声は、かすかに震えていた。
藤原は冷静に答えた。

「あの件で話すことはないわ。結果が全てよ」

言葉の鋭さはあの時と変わっていなかった。
言葉通り、藤原は無言で畳に上がり、みのりに向き直る。
道場に緊張感が張り詰める。

「あのときの貴方の払腰を再現してあげる」

突然、藤原がみのりに向かって動いた。
彼女の動きはあまりにも素早く、みのりの脳が反応する前に技がかけられた。
時間に急ブレーキがかかり、みのりは全てを鮮明に感じ取る。
払腰…何度も経験した技だ。
しかし、今回は違う。いつもよりも急角度だ。

「これじゃ、頭から落ちる!」

受け身を取れるはずなのに、体が反応しない。
体は硬直したままだ。全身に恐怖が走る。
しかし、藤原は巧みにみのりを畳に落とした。
呆然と畳に横たわるみのり。
藤原は、みのりが技をかけるときの癖を通して、彼女の払腰の問題点を身をもって理解させた。
襟を持つ角度、体のひねり方、タイミング、場合によっては頭から落とす可能性もあること。
地方の私立大学で限られた練習相手だけでは気づけなかった危険性を、一瞬で認識させられた。
みのりは起き上がりながら、全てを理解したような表情で藤原を見上げた。
藤原は無言でみのりを見つめ返す。

「そういうことだから」

その一言だけ言うと、狭山に軽く頭を下げ、道場を後にした。
道場を静寂が戻る。
みのりは、まだ畳の上に座ったまま、起こったことを消化しようとしていた。
狭山が静かに語り始めた。

「藤原さんはね、若い頃はお前と同じように才能あふれる選手だった。けど、現役だったのはたったの2年。時代が時代だろ?色々な壁にぶつかって、選手生活を断念せざるを得なかったらしい。直接的な引退理由は誰にも分からないがね。それからは審判のライセンスをとって、後進の育成に力を注いできたんだ」

みのりは黙って聞いていた。藤原の厳しさの裏にある思いを、少しずつ理解し始めていた。

「あの試合での厳しい判定は、女子柔道界を守りたかったんだろうよ。でも、お前の存在と才能を認めたからこそ、最後は一本にしなかったんだろうとも思えたんだ」

(最後の瞬間はとにかく夢中だった。技をかける瞬間のことは何も覚えていない。もしあの払腰を一本と認めていたら…)

「抗議なんて出来ねぇよな。なんせ一番近くに居た指導員が伝えられなかったことを技一つで伝えちまったんだから」

狭山は自嘲気味に笑う。

「監督、私...もっと強くなります。監督や藤原さんの思いに応えられるように」

みのりは立ち上がり、深く息を吐いた。
道場の窓から差し込む夕陽は、まるで柔道衣の白さを金色に染め上げるかのように、みのりを包み込む。
道場は単なる練習の場ではなく、過去と未来が交差する神聖な空間となっていた。
藤原が残していった技の余韻は、みのりの体にしっかりと残っている。
彼女が希望の光となることができるのかは誰にも分からないが、希望にあふれる瞳と、固く結んだ口元に、彼女の未来への決意が表れていた。


【あとがき】
イソップ寓話の「狼と仔羊」という話が元ネタになっています。
弱者がどれだけ正論を言っても強者の前には無力という教訓の話ですが、それだけではあまりにもだったので、現代版ではベースは守りながら大きく変更しました。絶対的な立場の違いと、言葉の応酬ではなく無言のやり取り。柔道は未経験なのでツッコミどころがあればすみません^^;

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