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もう「は?」も「は💢」もないがしろにしない

(「は?いやいや、お父さん。娘さん、めちゃくちゃ『ちゃんと』してますって!」)


皆さんは、


日常で「は?」と感じたり、「は💢」と思ったりすることはありませんか?


私は最近「は?」と感じて、「は💢」と思う経験をしました。



私は朝早くからの仕事で、3時40分に起きて朝風呂やNetFlix鑑賞をしてゆったりしてから、5時少し前に出発することにしています。


出掛けの「時計代わり」に見るテレビ局は、平日はTBS。土曜日はテレビ朝日。日曜日はNHKと決まっています。


土曜日は『建もの探訪』が終わると「そろそろ行かないとなあ」となり、『テレメンタリー』をちょっとだけ見てから出発します。


先日もいつも通り『建もの探訪』『テレメンタリー』と鑑賞していたら、ママが珍しく起きてきました。


『テレメンタリー』も始まり、私が「テレビ消すね」と出ていこうとすると、ママから「なんかそれ面白そうだからつけておいて」と言われたので、消さずに出発しました。


そして仕事を終えた私が帰ってくると、


「パパ~。『テレメンタリー』にパパそっくりの人が出ていたから録画しておいたよ」とママが教えてくれました。


放送していた番組はこちら。


そこには、ママが言う通り「私にとても境遇の似た人」が出ていました。


主人公は入社4ヶ月で会社を辞め、現在は中古の軽バンで旅をしながら、フリーのデザイナーとして生計を立てている26歳の女性・佐藤眞理さんです。


彼女はこれまでいずれも公務員であるご両親が「よかれと思って」すすめた習い事をし、進学をし、就職もしてきました。


なんとはなしに、


「『普通』に大学へ行き、『普通』に就職し、『普通』に結婚するのだろう」


と、思っていたそうです。


しかし、実際に会社に勤めていくうちにだんだんと「毎日化粧をし、同じ電車に揺られて通勤する」というような世に言う『普通』に違和感を感じ、それが耐えられなくなり体調を崩し、4ヶ月で会社を退職します。


ここで、彼女のご両親のインタビューが入りました。


お母さんとお父さん。


いずれの口からも「みんなも」「普通」「ちゃんとした」の言葉が連呼されていきます。


私は画面上からその言葉が放たれる度に「は?」となり、胸がチクチク痛みました。



「普通」「ちゃんとした」


って、何だろう?


私の中で、その2つの言葉がぐるぐると回りました。

 
どうやらご両親(特にお父さん)には、人生で最初に勤めた会社を4ヶ月で辞めた娘さんのことが「普通」にも「ちゃんとして」も見えていないようでした。


お父さんの発言は、まだ続きます。


「最初に勤めた会社をどのくらい長く続けられるかで、その人の後の評価が決まってくる」


「公務員として自分のところに入ってくる若者は皆、良い人生をしあわせに生きている」


お父さんも『顔出し』でインタビューに答えていますし、娘さんへの強い思いや「私は正しいことを言っている」という確信もあるんだと感じました。


私もところどころ「は?」とは思いつつも、「確かに人生はそんなに甘くはないし、それも一理あるかな」と聞いていましたが、お父さんの発言の中で「は💢」とどうしても聞き捨てならない文言がありました。


娘さんが会社を短期間で辞めたことを、


「がっかりした」


と、おっしゃったんですよ。


「お父さ~ん。それは言っちゃダメだあ」


画面を見ながら思わずそう口にしてしまった私の目からは、次々と涙が溢れ出てきました。


私だって父親ですから、それがお父さんが娘さんの未来を案じて発した言葉なのだろうことくらいはわかります。


でも。


「がっかりした」は、たとえ親子のような近しい間柄でも言ってはならない、言われた相手のことを深く深く傷つける『自分本意』なNGワードだと私は思うんです。


これを聞いた娘さんはお父さんに怒ることもなく、静かに苦笑いを浮かべていました。

多分ですが、
 

娘さんはこれまで、公務員のご両親を「がっかりさせない」ために、意識無意識にかかわらず動き続けてきたんでしょうね。


でもいつからか、ご両親の人生観と自分のそれの間の乖離にも気付き始めていて、就職をきっかけに「は?」という自分の中に渦巻く違和感がいよいよ無視出来ないくらいに膨れあがったんじゃないかと思うんですよ。



ですから、私はご両親(特にお父さん)にお伝えしたいんですよ。


ご両親。


娘さん、ここで見ている49歳の私よりめちゃくちゃ『ちゃんと』してますよ。


「は?」と疑問や違和感を感じた自分を見逃さず、『ちゃんと』内観して、『ちゃんと』自らに問い、『ちゃんと』自分が納得できる答えを出してらっしゃるじゃないですか。


これを20代前半でできたのは、本当に凄いことですよ。


私も娘さんと同じく、「よかれと思って」公務員の父と幼稚園教諭の母が敷いてくれたレールの上を「立派な両親が言ってるんだから大丈夫だろう」と、特に疑問なく渡ってきました。


その結果、私は人生45年目にして詰みかけ、心の風邪を引くことになりました。


今になって、恐らく私はレールの上の途中途中で若干の『違和感』はあったものの、レールから外れる怖さから「なんとなく」それを放置し続け、自分の中の「本当の答え」を出すことを引き延ばしてきたのだな、と感じるんです。


そんな心中の微細な「は?(疑問や違和感)」や「は💢(人や自分への怒り)」の蓄積が、今回の心の風邪の原因かなと思っています。


そして、私は療養期間中に「自らに問う」ことの大切さにようやく気付き、その心の声にしたがって転職を決意しました。


以後3年あまり。


「無理に人の期待に応えることをやめた」私はとても満たされ、しあわせに生きています。


両親の考える『しあわせ』と私の『しあわせ』は、違うものでした。


だからといって、両親を恨みに思うとかはまったくありません。


なぜなら、「敷かれたレール」の上を渡ってきたのは他の誰のせいでもなく、間違いなく『私自身の意志』なのですから。


「自らに問うた」おかげで、そこについてもハッキリとしました。


娘さんも、その点は理解されています。


「昔なら『社会不適合者』の自分を嘆き、それを社会や他人のせいにしていたと思う。でも今はそういう時代ではなくなった。そこを幸運と捉えて、自分の選択が正解になるような生き方をしていきたいです」


そうおっしゃった娘さんのキラキラした目に、


「もう、『は?』も『は💢』もないがしろにしたくない」


という自分の今の思いが重なり、私は大号泣しました。


娘さんの言葉には本当に勇気づけられましたので、ご両親には彼女の思いに少しでも寄り添っていただけると嬉しいです。



これは、見た人によっては「甘い」のひと言で終わってしまう話なのかもしれません。


でも、佐藤さんや私のような『みんなが』出来るであろう『普通』が死ぬほどに耐え難い人間も世の中にはいるのだ、ということを頭の片隅くらいには置いて欲しいなと願います。



最後にこのお話について、大切なことを付け加えないといけません。


ドキュメンタリーの途中で佐藤さんのお母さんが娘さんに対して、


「娘の決断を100%応援出来ない自分がいるが、一方で自由を選んだ彼女を『羨ましい』と感じる部分もある」


との発言もあったんですよね。


これを聞いた娘さんの嬉しそうなリアクションったらなかったです。


なぜか私まで救われた気持ちになりました。


きっとこの家族は「ゆっくりゆっくり」と繋がっていけるのだと、私は信じます。


佐藤さん。応援してますね。


そして、私自身も「己に問い続けられる」人であろうと思います。


なにせ人は「しあわせになるため」に生きているのですから😊


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