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上書き(創作/リライト版)&今思うこと

僕はまた、その列車に乗り込んだ。


行きも帰りも50分程。折り返し運転でインターバルが10分程だから、往復で2時間。


もはや『小旅行』だ。


4往復もすれば、合計8時間。「学校へ行ってきた」と言い訳出来るくらいの時間にはなる。


そして夕方のよかれな時間になると僕はその列車を降りて家に帰り、親とは顔を合わせず一目散に自分の部屋のベッドに飛び込むという毎日だった。


親も薄々は息子が大学生活に馴染めていないことは気付いていたと思う。


2浪して随分と追い込まれたが、最終的に入試問題の『予知夢』のようなものを見たおかげで何とか大学に滑り込むことは出来た。


高校までは男子校。


「新たな出会い」に淡い期待を抱きつつも、「新しい環境」への不安がそれを大きく上回った。


やはりそんなことを思っていると実際にそうなってしまうものだ。


圧倒的な学生の数や、普通にフランクに話せている同級生の姿に気おくれしてしまった『お上りさん』の僕の足は、だんだん大学から遠のいていった。


途中「何とかせねば」との気持ちでいつもの列車を降りて、何度か校門の前までは行ってみたこともあった。


が、楽しそうに話している他の学生を見るとやはり気おくれと疎外感に苛まれ、僕はまた踵を返し、例の列車へと戻るのだった。


列車の中で、僕はこれまでを振り返った。


小学生の時は『ソフトボール』部。中学生の時は『ラグビー』部。何故だか1番やりたかったはずの『野球』部の門を叩くことはなかった。


「レギュラーになれなそうだったから」と理由を後付けたけど、実際は「何を怖れているのか」すらわからないほどに、ただただ『何か』に怯えていた。


親に現状を伝えようとも思ったが、2浪をしてる上に更なる『体たらく』を続けていることを知られるのが怖かった。


父は昔、公務員時代に「働きたくない」同僚達に結託されて陰湿な『村八分』にあい、心因性の難聴になってしまったことがあったそうだ。


それにもかかわらず、母にそれを伝えずに働いていたということを聞いていて、


当時はそんな父の「言わずに自己完結する」姿勢をどこか「カッコいい」と英雄視していた部分があったことも、僕の「言わずに隠す」姿勢に拍車を掛けていたのだと思う。


そうこうしているうちに、僕は2回留年してしまった。


こんな風に「切羽詰まった」時には、いつも何故だか僕には『救いの神』が現れてくれた。


この時も、幸運なことに僕の前にそんな「天使のような」人が現れた。


その人は4つ年下のオシャレな女の子。体重が40kgにも満たない、小動物のような可愛らしい子だった。


勇気を出してたまたま受けていた『社会保障法』の授業で、彼女は1番後ろに座り所在無さげにしている僕を見つけて、「こんにちは。隣大丈夫ですか?」と優しく声を掛けてくれた。 


それから、彼女は『社会保障法』の授業の度に僕の隣に座ってくれて、音楽を中心にいろいろなお話をした。


女性とまともに話したことがなく、たどたどしいはずをの僕の話を、彼女は嫌がることもなく楽しそうに聞いていた。


彼女に会いたいがために『社会保障法』の授業だけは確実に受けるようになった僕は、それを皮切りに他の授業にもだんだんと参加出来るようになっていった。


彼女の友達は、太った年上の同級生といつも仲良く話している彼女を不思議そうに遠巻きに眺めていた。


でも、1番そのことを不思議に感じていたのは僕の方だった。


僕と仲良くしていることで、彼女が友達から変な目で見られてしまうことが心配でならなかった僕は、彼女から教えてもらっていた電話番号に連絡をいれた。


僕は「何で生きててもしょうがないような欠陥人間の僕と仲良くしてくれるの?みんなに変な目で見られたりしない?僕は心配なんだよ」と彼女に単刀直入に聞いてみた。


すると彼女は落ち着いた口調で「本当にそんな風に思ってる?だとしたら全然違うよ。欠陥があるのは素敵なことだし、あなたと一緒にいることを恥ずかしいなんて思ったことは1度もないよ」と答えた。


少し泣いているようだった。


さらに続けて「もし私の言葉が信用出来ないなら、今から私があなたの素敵なところを50個挙げるから聞いてて」と言った後、つらつらと僕の『長所』を本当に50個も挙げてくれた。


僕はびっくりした気持ちと嬉しい思いで涙が止まらなかった。彼女のことを信じられなかったことを、激しく恥じた。


そのことをきっかけに人間として「息を吹き返した」僕は、そこからとんでもない勢いで単位を取得していき、何とか6年で大学を卒業することが出来た。


今でも彼女には感謝の気持ちでいっぱいで、頭が上がらない。紛れもなく彼女は素敵な人だった。


それから25年余り。


僕の中での大学卒業は、「自分の力だけでは出来なかった」なんだか「曖昧な」ものとなってしまっており、記憶の上書きがどうもうまく出来ずにいる。


そんな訳で、いまだに僕は夢の中で度々『例の列車』に乗っているのだ。



これは、実話を基にして2年前の文藝春秋さんの創作企画にチャレンジした作品をリライトしたものです。


なんでまた書きたくなったのかというと、


私、昨晩もまた「2単位だけ足りなくて大学を卒業出来ない」夢を見たんですよ。


それをママに言ったら、


「この前読んだNOTEで、そんな話を書いていた人がいたよ」


と、私と似たような夢をよく見るというクリエイターさんの記事を見せてくれたんです。


「僕だけじゃないんだなあ」と、なんだか勇気づけられて指が自然と動きました。


昨日はお休み。


ママの誕生日で、息子たちともたくさん遊ぶことが出来て本当に楽しい1日でした。


そんな強くしあわせを感じたあとに、こういった夢を見ることが多いんですよねえ。


いまだに心のどこかで、


「こんな私がしあわせになんかなれるわけがない」


と、現実を不思議に感じている部分があるのかもしれないですよね。


あと、50歳になってもあの時の「打ちのめされた気持ち」がまだ残存しているようです。


うちの次男坊が保育園に行かなくなってから4ヵ月。


彼も今、「小さいながらに『何か』に怯え、人知れず闘っているんだなあ」と私と重ね合わせて、改めて思いました。


今朝ママから、


「昨日K(次男)がいっぱい話し掛けていた質問に、パパは結構適当に答えていたよ」


と指摘されたのも、かなり反省しています。


創作に出てきた女性。そして、最愛のママ。


『救いの神』に助け「られ」てばかりでなく、さすがに今度こそ私自身が『救いの神』になり、次男を助け「る」番ですよね。


「あなたは新しいフェーズに入ったんだよ」


と、夢に教えてもらった気がします。


この夢も含めて、いい休日を過ごすことができて本当によかったです😊

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