[小説] 傘と熱

 ある日の夕方、立花町に傘が降った。
 二方を山に囲まれ、低地に位置する町の南には電車が通っていて、そこに、地面に灰色の箱を無造作に置いたような小さな駅があった。北に行けば行くほど田んぼが目立ち、人が少なくなって、山の裾に押し出されるように住宅が点在していた。それは町が自然に侵食されているようだった。
 傘が降った時、町人は灰色の雲に浮かぶ点々を、じぃっと目を細めて見上げた。草木が根を張るようにゆったりと地面に近づいてくる点々は、雨粒でないことは確かだったが、その正体がわかるまで、人々は首を伸ばして立ち止まっていた。ある人は雪だと言ったが、雪が降るにしては早いし、この町で雪は数十年ほど降っていなかったから、誰もそうだとは思わなかった。
 次第に黒い点々が大きくなり、輪郭をあらわにして、それが傘だと分かったとき、綱渡りが成功したような、小さな歓声が起こった。人々は足を止め、口を開けながら少年心をむき出しにして、空を見上げた。彼らはすぐさま傘を自分たちの町に受け入れた。もちろん、拒絶する方法もなかったのだけど、大きく布を広げ、空を覆い尽くす傘の群れに対して、恐怖ではなく高揚感と期待を抱いたのは、彼らが日々うっすらと閉塞感を感じ、退屈であったからだった。
 やがて空から降りてきた傘が地面に触れた。次々に積み重なる傘に、人々は見入った。大体の傘が、誰かに使われたように、皺が寄っていたり骨が錆びついていたり、柄をどこかにぶつけたように凹んでいたりした。空から降ってきたことを除けば全く何の変哲のない傘だったのだが、人々はそれを食い入るように見つめた。空から降ってきた、この事実が傘に物語と幻惑を付随させて、彼らを惹きつけていた。
 これは飛行機から落としたのではないか、傘屋から飛ばされてきたのではないか、単なる偶然か、と人々の中でさまざまな憶測が飛び交った。しかし、どれだけ見ても目の前にあるのはただの傘だったから、興味は持続しなかった。
 次第に熱は冷め、傘は興味の対象から、障害物に変わっていった。すでにある人々は降ってくる傘を鬱陶しそうに手で退けた。どこかでクラクションがなったのが聞こえたが、誰に向けられたものでもない音は、鼠色の雲に霧散していった。
 「おわっ!」
 突然、誰かの叫び声がした。
 叫び声には恐怖と驚きが混じっていたから、人々はその声に強く惹きつけられて、指揮者が棒を振ったかのように、一斉に声主の方を見た。
 声主は、三十代ぐらいの男性だった。紺色のスーツに、斜めに白い線が入った黒色のネクタイを閉め、背中には黒い、四角い箱のようなリュックを背負っている。工場で大量生産されているような彼が注目を集めたのは、右手に黄色の傘を握って空を飛んでいる、その様子からだった。
 それは飛んでいるというよりも、傘に引っ張られ、空に引き摺り込まれたがために、手を離したくても離せない危機的状況だった。人々は呆気に取られ、口を開けて立ち尽くした。
 中には助けようと、飛ぶ彼の元まで歩く人もいたが、オロオロと右往左往するだけで、どうすることもできなかった。人々は、普段鉄仮面のように表情を微動だにしないビジネスマンが、慌てた様子で傘に引っ張られる様子がおかしくて、ほとんど周りはクスクスと笑い、そのピエロを取り囲んで、喜劇を楽しんだ。彼からしてみればたまったものではなかったが、彼も地上を見る余裕すらなく、振り落とされるまいと傘の柄をしっかりと握った。
 ピエロは誰かに助けられることもなく、地面に帰ることもなく、傘の海の中に沈んでいった。
 喜劇が終わって席を立ち、家路につく人々の前には傘があった。飛んで行った彼から目を離し、いざ目の前の傘と対峙すると、人ごとだと思えたものが、急に現実味を帯び出した。傘が自分たちに仕掛けられた鋭い罠のように思えた。柄を握った瞬間に空へ飛ばされるのではないかと、決して触らないように、両手を握りながら、ポッケに手を突っ込みながら、家へと急いだ。彼らはもう一度、傘が降った、という事象に真っ向から対峙し、この現象の異質さを改めて認識した。彼らの中に恐怖が芽生えた。
 バスロータリーの近く、駅前に驚きの声が上がった。
 今日何度目かのどよめきに、多少疲れを感じながら、周囲の人の反応に遅れた人たちは、ざわめきに向かって振り返った。そして、それは駅前特有の現象ではなく、自分の身の回りにも起こっていることを知った。
 見ると、地面に落ちた傘が、地面に触れた柄と生地の縁の部分から溶け出して、傘下に水溜りを作っている。黄色い傘は黄色く溶けて、紺色の傘は紺色に溶けていた。
 地面に触れる傘から次々に溶け出して、巨人がインクをこぼしたかのように、町一帯がおよそ自然界にない色で覆われた。ある子供が母親の手を引っ張りながら、「スプラトゥーン!」と言った。
 はしゃぐ子供に対し、大人は冷めていた。
 見慣れた傘の代わりにできた、色とりどりの水たまりは、なんだか得体のしれないものであり、不気味で、近寄りがたかった。合成着色料のような、人工物であることを声高に主張したような色々に、子供の手を握る親の足が早まった。
辺りは暗くなっていく一方で、アスファルトの上にできたインクは地面に染み込むことはなかった。次々にできる水たまりを避けられずに、人々の足は十色に塗られていく。色とりどりの足はマーブルが散らばっているかのようだった。
 誰かが「まだ降ってる」とつぶやいた。
 それは誰に向けられたものでもなかったから、薄紅が差す灰色の空に溶けていくはずだった。しかし、人々は不安によって周りの物事に過敏になっていたから、その誰かの言葉を、誰かが耳に入れ、空を見上げた。一人、また一人と増えていく。不安が伝染していき、質量のある霧となって町を覆っていく。
 降り続く傘は止まず、住人は小粒の不安を胸に抱き、足元を見て、それはみるみるうちに膨れ上がった。足が別の生き物のように動く。事態を飲み込めない上半身は、本能の獣のように、反射的に目の前の傘を避けていく。
 地面に溜まったインクはやがて混ざり合い、黒色になった。インクは足裏、くるぶし、脛、膝小僧、と量を増していった。町人は必死に走った。人々は入り乱れ、傘にぶつかり、押し出された傘の骨が誰かを刺した。傘に覆われ視界は悪く、住人は見えない段差に引っかかりながら走った。
 やがて胸の高さまでインクが溜まり、車はほぼ液体に浸かって、車に乗っていた人々は、それを捨て、どこへいくでもなく泳ぎ、泳げないものは必死にインクをかき分けた。
 ある母は子供を抱き抱え、自分の顔の高さまで持ち上げて空気を吸わせようとした。子供は何が起きているか、状況が全く理解できず、綿毛みたいに飛んでくる傘に無邪気に手を伸ばした。
 母はその手を引っ込ませようとしたが、空を飛んでいたサラリーマンを思い出した。ハッとして空を見上げても、空にひしめく無数の傘が邪魔で見えなかったが、このまま歩いていても助かりそうはなかった。母は自分の持っていた荷物を全て下ろし、子供を左脇に抱え、飛んできた透明なビニル傘を手に取った。
 触れた瞬間、柄がどろりと溶けた。片栗粉を混ぜた水のように、シワの刻まれた手を、生暖かい液体が這っていった。最後の望みが消えた母は子供を水面に置いて、どうにか浮いてくれないか、といろいろ試してみたが、無駄だった。母は子を両手で抱き抱え、空を眺めた。
 暗い空を背景に、大きく生地を広げた傘の裏面は、大きく口を開けた肉食獣のようで、あぁ、これは傘の食事なのか、と思った。
 母と子はインクに沈んだ。そして、夜になって、町はインクの海に呑み込まれた。

      ***

 「コーヒーって美味しい? 」
 「美味しいよ」
 「ほんとに? 」
 「ほんとに」
 「無理してない? 」
 「なんで無理すんだよ」
 「私の前だから」
 「まぁ、あるかも」
 (沈黙)
 「照れんなよ」
 「照れてない」
 午後五時、東側を向くバス停のベンチに座り、夕日の差し込む田圃を眺める。とても商売にできないような、かといって一家で管理するには持て余す田んぼで、肩身を寄せ合って茂る枯れ色の稲が、熟れたように照った。左手は山に囲まれていて、右手の向こうに開発途中の町が見える。街と田んぼの境に駅があって、そこにはバスも走っているから、田舎とも都会ともいえない、中途半端な町だな、と思った。
 「卒業したらどうすんのっ」
 鈴代翔子は足を振って、勢いをつけ、ベンチから飛び上がり、地面に着地した。つま先が地面に食い込み土を掘った。
 「大学に行かせてくれるらしいから、勉強中」
 「ふーん、その後は? 」
 「その後? 」
 翔子は真顔で言った。
 「そりゃそうでしょ。大学入学したら死ぬの? 」
 裕太はしばし沈黙した。前屈みになり、ベンチが軋んだ。
 「いや、わからん」
 翔子は、あはは、と笑って
 「真面目に考えすぎ。みんなそこまで考えてないよ」
 「じゃあ生きるわ」
 「ばんざい」
 翔子はくるりと一回転した。肩まできれいに切り揃えられた髪が、風に遊ばれて乱れた。この町にここまで綺麗に切ってくれる床屋なんてあったのか、と裕太は思った。翔子の目元が夕日に照らされ、オレンジ色の肌は活発な彼女をよく表していた。翔子は眩しい、と言って目を覆うようにして腕を顔の前に掲げ、バス停のベンチの屋根の下に再び戻った。
 「翔子は」
 「私は、そうね」
 翔子はうーんと首を捻る。口元を締め、真剣に考えているようだけど、なかなか口を開かない。
 「自分は考えていないのか」
 「悩んでるのよ。逆になんでそんなにすぐ答えれるの」
 「生きるか死ぬか答えただけ」
 翔子はふーんと鼻を鳴らした。
 「二択であんなに迷ってたんだ」
 「迷ってたんじゃなくて、死ぬなんて思わなかったから。ずっと生きるもんだと思ってたし」
 「永遠に? 」
 「永遠じゃないけど。死ぬまで生きると思ってたんだよ」
 「当たり前じゃない」
 「そうだな」
 翔子はロダンのようなポーズをとって考える。いちいち大袈裟だな、と思った。
 「哲学ね。死ぬまで生きると思ってた。深いわ」
 「からかってんだろ」
 「大真面目よ。私も今、死ぬまで生きると思ってたから。もしかしたら違うのかも」
 「違う、って。死んだらもうそこで終わり、後は生きられない」
 「生きながら死ぬこともあるかもよ」
 「どうやって」
 「そうね、たとえば、忘れられるとか」
 「忘れられる? 」
 「私の名前は? 」
 「翔子」
 「フルネームで」
 「鈴代翔子」
 「もし、私の名前を忘れてしまったら、もう呼べないじゃない」
 「そうだな」
 「名前だけじゃなくて、髪の色とか、背の高さとか、声とかも忘れたら、どう」
 裕太は腕を組み考える。翔子のことを忘れたら。
 頭の中に翔子を思い浮かべ、目を閉じた。
 まず、目が消えた。翔子の顔からアーモンドのような、クリクリした目が消えた。
次に、鼻が点になった。二つの穴と筋は一つの黒い点に集約され、記号になった。そして顔のパーツが段々と簡略化されていき、細い線画になっていく。輪郭はどんぐりのシルエットのようになった。髪はまだ残っている。首から上を後回しにして、次は胴体に注意を向けた。丸みを帯びた線を辿っていく。
 風が吹いた。日に照らされて熟れた土埃のむわっとした匂いに、軽やかな甘い匂いが重なった。彼女の匂いだった。その匂いに何故か懐かしさを覚えた。このまま彼女の姿を消したかったが、匂いが想像上の彼女にまとわりつき、離さない。彼女の姿がはっきりと現れていく。
 翔子は目を瞑って険しい顔をする裕太を急かすことなく、黙ったまま、暗くなるあたりの風景を眺めていた。彼女のその姿は静かな風のようだった。
 彼女を忘れることができず、甘い匂いに喘いでいる裕太は、ふと思った。想像上の彼女は、なんの匂いも放たない彼女は、そもそも翔子ではないじゃないか。隣に座る彼女が、本物の翔子であって、自分の頭の中から翔子のことが抜け落ちても、彼女は隣に座っている。偽物の彼女がどうなろうが、本物の彼女には関係ない話じゃないか。
 裕太は確かめるように横を向いて、彼女を見た。彼女は大きな目を輝かせて見つめ返した。自分の全てを肯定された気がした。その目から溢れる涙を見てみたいと思った。彼女は凪だった。
 彼女の目を見つめているうちに、次第に裕太の胸に怒りが募っていた。彼女は想像上の自分がいなくなることが死だと言った。なんて無責任で、独りよがりな言葉なのだと思った。他人が勝手に自分の死を決定づけるなんて。怒りを覚えた。
 「どう、忘れられた? 」
 微笑んだ彼女の目尻に皺がよる。いくら粉を付けたくっても消せそうにないほど濃く、地割れのような線だった。
 裕太は目線を一度逸らし、彼女の背後にある夕日に沈む町を見て、彼女に戻した。率直に、ずっと一緒にいたいと思った。
 「無理だった」
 「そっか、残念」
 彼女の口調は軽かった。
 「忘れようと思って忘れられるもんじゃないだろ」
 「それもそうね」
  翔子はがっかりした様子で、演技のように肩を落とし、ももに膝をついて、手で頬を支えた。
 「私もいつか忘れられるんだわ」
 唇をとんがらせて、さらりと言った。深刻さは全くなかった。だからこれを言っても、彼女の言葉を本気にしていると思われそうで、嫌だった。しかし、口を開いた。
 「忘れるのが死ぬことじゃないと思う」
 辺りから音が消えたように思えた。翔子の息を吸う音が聞こえた。
 「じゃあどうやったら死ぬの」
 「見えなくなったら」
 翔子は大きな目を見開いて、きょとんとした。しばし考えた後、目をぎゅっとつぶった。
 「じゃあ、今裕太は死んでるの? 」
 「うん」
 「嘘でしょ、声がするし」
 「気のせいかもしれない」
 「気のせいって、今喋ってるのに」
 翔子は腕を伸ばし水平に降った。ガン、と腕が脇腹に当たる。
 「痛い」
 「痛いって言った。死んでるわけない」
 違う、と反論して、やめた。確かに死んでいる人間が痛い、と言うとは思えなかった。しかし、どうにか忘れたら死ぬ、という彼女の考えを否定したかったから、何か言おうと思った。続く言葉が見つからず、項垂れる。
 しばらくして隣を見る。翔子は、降る雨粒を全て受け止めるように、口を開けて上を向いていた。腕はだらんと伸ばし、みっともない格好で。あぁ、とかうぅん、とか喘ぎ声が口から漏れていた。彼女は彼女なりに考えているようだった。
 日が沈む中で、屋根についた光のつかない蛍光灯は、二人を追い出そうとしているように見えた。ベンチの囲いの影が伸びて、道を跨いで田んぼにかかる。スズメと影が稲を取り合う。雲が出てきて、あたりを覆っていく。影が薄暗い地面に消えていく。
 「いなくなったら」
 裕太の発する言葉に骨も肉もなかった。彼の心がむき出しになって、出た。
 「いなくなったら死ぬ」
 翔子は黙っていた。裕太は沈黙を返すように言葉を続けた。
 「その人のことを忘れても、目の前にいたらその人は生きてる。覚えていても、そこにいなかったら死んでる」
 「引越したら死んじゃうの?」
 「いや、いるって感覚があれば生きてる。たとえ引っ越しても、あぁそこにいるんだって思えれば生きてるんだ」
 「実感ってこと。なんか曖昧」
 「まぁ、確かに。でも生きるとか死ぬとかってそんなもんなんじゃない」
 「そうかも」
 翔子は手をベンチについて、足をふらつかせた。彼女の足が押し出した空気がズボンの溝を通って足首を触った。少し暖かかった。
 「だから年賀状出すんだね。ここにいるよって言うために」
 「そこまで考えてなかったけど、そうかな」
 「いいね」
 翔子は黙った。裕太も黙った。
 沈黙する二人の座る囲いの中に風が流れ込んできた。肌寒い、夜の始まりを告げる風だった。言葉が口から離れていくにつれて、それが正解なのか自信がなくなっていく。両手の指を絡めて、手のひらの熱を閉じ込める。頸に汗をかく。
 「でもそれって裕太の考えだよね」
 突然、翔子が言った。体に緊張が走った。
 「うん」
 「じゃあ、私がさ、死とは思い込みである、って言ってもいいわけだよね」
 何が言いたいのかわからなかったが、とりあえず裕太は首肯した。翔子の考えを否定する理由もなかった。彼女はじっと、裕太の目を見つめ、笑った。
 「私たち死なないね」
 翔子は立ち上がり、お尻を叩いて、立ち上がった。昼間の残火が彼女の髪に差し込み、茜色の線を描いた。風がスカートを靡かせる。裕太はその背を、ただ見つめていた。
 立ち上がり、彼女の隣に立つ。そろそろ帰ろうか、と彼女に話しかけようと隣を見ると、彼女は口を半開きにして、空を見上げていた。見惚れているような、覚えろげな記憶を掘り返そうとしているような、そんな表情だった。
 「どうした」
 「あれ」
 翔子は空を指差した。茜色に染まる雲の下に、何か、雨ではない何かが散らばっていた。彼らの目にはその姿形がはっきりと見えていたが、常識と経験からそれを口にするのが憚られた。やがて、翔子がその垣根を飛び越え、
 「傘だ」
と呟いた。赤子の第一声を聞いたような、そんな感動があった。
 翔子はただ立っていた。逃げることも、騒ぐこともせずに、バスの時刻表とともに立っていた。裕太は彼女の横で、鏡のように、全く同じようにして立っていた。不安はなかった。


     ***

 インクに沈む立花町の上空、傘の群れの中に、一人の男がいた。
 男は傘の柄を握る右手に力を込め、日が沈み影に落ちた地上を見渡していた。田舎だからか光もなく、とっくに地面は見えなくなっていた。男は傘を持って飛んでいる現状を受け入れられず、足をばたつかせたが、どこにも固い地面はなかった。男は早々に諦めた。
 時々傘を持つ手を左手に変えて、右腕を脱力し、ぷらぷらと降った。太陽の熱が溶け、冷たくなった空気を指で混ぜる。夜の空気は柔らかい。指の腹が僅かに凹んだ。
 すでに降る傘はまばらになり、視界が開けてきた。遥か遠くまで、雲は断続的に空を這っていたが、傘はこの辺りにしか降っていなかった。手に持った傘は、ふわりふわりと浮かんでいく。
 突然、自分は一人なのだと孤独感に襲われた。男は右手で暗闇に包まれた体を弄る。スーツに皺ができ、更に深い闇ができる。シャツがズボンから出て、花びらのように広がり、隙間から冷たい風が身体中を触った。
 ついに傘の先端が分厚い雲に触れた。
 男は全身を脱力して、上空へと彼を導く傘に従った。彼自身は全く望んでいないことだが、従うより他に選択肢はなかった。傘は一定の速さで雲の中へ進んでいく。視界はモヤに覆われ、足のつま先が見えなくなった。男は祈るように目を瞑った。
 瞼の上から光が差し込んできて、男は恐る恐る目を開けると、彼は雲の上に立っていた。男は驚き、よろけて手をついた。落ち葉が重なった地面のような、柔らかさの裏にしっかりとした地盤が感じられた。
 いつのまにか、手に持っていた傘は消え、手のひらにかいた汗が蒸発していく。太陽の代わりに月が照らし、男はあたりを見て思わず息を呑んだ。紺色の空に埋め尽くされた星が、宝石のように煌めいている。
 男は絶景を堪能しながら、目的もなく彷徨った。とりあえず前進しておきたかった。当てもなく歩くに連れて、だんだんと景色に慣れていき、消え掛かっていた孤独感が再び膨らんでいった。
 男は孤独だった。空に張り付いた月に見つかるのを恐れるように、体を縮こませた。満天の星と純白の雲に囲まれ、ここに一人の人間がいることが異常であるように思えた。彼は今すぐにでもここから出たかったが、地上に帰る方法は全くわからなかった。
 だから、前方に黒いシルエットが浮かび上がり、それが人であるとわかった時、男は激しく高揚した。自分以外にも人がいたことが本当に嬉しかった。影に歩み寄っているうちに、輪郭と凹凸がはっきりし出して、丸みを帯びた輪郭とスカート、ブレザーが見えた時、それが女子学生であることがわかった。
 「え」
 表情が見えるまで近づいた時、彼女は目を花びらのようにふわぁっと開いて言葉を発した。どこか呆気に取られているかのような、戸惑っているような様子だった。男は彼女を知っている気がした。
 「君は、ずっとここにいるのか」
 彼女はこちらをじっと見つめて、腕を前に組みながら右足を一歩後方に退けた。男は慌てて、降ってきた傘をつかんだらここまで飛ばされてしまったのだ、と経緯を話した。彼女は何も言葉を話さなかった。少し震えているようにも見えた。
 「人だ、と思って嬉しくて」
 話が終わると、彼女は腕の緊張を緩めて腰の横に下ろしたが、二人の距離は縮まらなかった。彼女の男を見る目は、どこか祈りを込めているように見えた。
 「君も傘につかまってきたのか」
 彼女はこくんと頷いた。男はため息をついて腰を下ろし、手を雲についた。彼女も傘に連れてこられたなら、ここから出る術もわかっていないだろう。人を見つけて色めき立ったが、結局自体は好転しなかった。
 落胆し、言葉が途切れた時、爪の伸びる音が聞こえるほどの、あたりの異様な静けさに気づいた。自分たちが死んでいるように思えた。ここは天国なのではないか、と思った。
 傘が降った?街が沈んだ?傘に飛ばされて雲の上に立っている?バカみたいだ。常識が男の全てを覆いつくした。私は死んでいる。それは確信に代わった。体から一気に力が抜けて、大きくため息をついた。私は死んだのだ。
 彼女は腰を下ろさず、じぃっと食い入るように男を見ていた。視線に気づいて男は彼女の方に目をやった。彼女は口をパクパク開きながら、何か言いたげな様子で、目は真っ直ぐ男を見ていた。彼女も死んでいるのか、と哀れみを感じた。
 目があった二人は、どちらも逸らしたりはしなかった。男の胸の内に不快感はなかったし、違和感もなかった。男は彼女が自分を見つめることを当然だと思っているかのように、彼女の視線を受け入れた。
 「あ、あの」
 半開きになった彼女の口から、音が発せられた。彼女はう...わぁ...と言葉にならない音を発して、狭い眼窩の中で彼女の黒目が泳いでいる。男は次の言葉を静かに待った。
 「・・・裕太?」 
 初めて、彼女の言葉に意味が乗った。その瞬間、彼の胸の奥から日が昇るように、全身が熱くなり、指の先から湯気が出てきた。記憶の端が見えた。見つめる彼女に夕陽が差し込んで見えた。
 ズブっ、と足が地面に、雲に沈んでいく。雲が突然、男を支えることをやめた。一瞬のうちに腰まで浸かった。
 「裕太!」
 彼女は男の手を取った。二度目の名前を呼ぶ声は、確信に満ちていた。男は彼女の手を掴み、沈んでいく体に抵抗しようと足をばたつかせたが、無駄だった。男に寄り添うように、彼女も雲の中に沈んでいった。
 「裕太、覚えてない?翔子。鈴代翔子」
 男は目の前の人間を見つめた。点が分裂し、アーモンドのような黒い目と、鋭い花に分かれる。輪郭が彼女の頬をなぞり、甘い匂いが鼻を差した。肩まで短く切り揃えられた髪が風に揺れ、反射した月明かりが鈍く光った。もう少し、もう少しだった。
 鈴代は男の目を焦がすほどに見つめた。黒い煙が雲を覆いつくしてしまいそうだった。彼女は体を男の方に引き寄せ、とんと胸に顔を埋めた。男は彼女の頭を腕で包んだ。そうしなければならないように思えた。
 男に彼女の熱が伝わってきた。一定のリズムを打つ、本能に刻まれた、心地良い熱が男の臓器の内側に届いた。彼女は生きていると思った。
 「翔子」
 彼の吐く息は、彼女の熱と同じ温度だった。 
 ついに二人は雲を抜け出した。今宵、雲を抜け出す影は二つではなく、それは夜空を埋め尽くす星の数よりも多かった。それが近づいた時、地上の夜ふかしたちは空を見上げ、空を覆い尽くすそれに感嘆した。
 その日、立花町に傘が降った。

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