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[小説] 嘘つき小倉くん

 「下らないね、そんなの」
 小倉くんはサイダーの缶を開けて一気に喉に流し込んだ。小倉くんはいつも「炭酸が好きなんて子供じゃあるまいし」と馬鹿にしていたのだけど、今日はとても美味しそうに飲んでいる。
 「大学生とは学生であるけどその前に成人した大人なんだ。自分たちで責任を持つ彼らが部活やサークルに勤しんで彼らよりはるかに教養のある教授を馬鹿にして数年後に社会にでることを考えずに享楽に耽るのはとても恥ずべきことなんだ」
 小倉くんは寝癖のついた荒れ放題の黒髪をくしゃくしゃと手でかき混ぜてフケを散らした。平日の昼間の公園には人が一人もいなかった。小倉くんと僕は一緒に大学の講義をサボっていた。
 小倉くんはベンチの隣にあるカゴにサイダーの缶を投げ入れた。もう飲み終わったんだ、とその早さに目を見張った。カランカランとカゴの底で缶が音を立てた。小倉くんはその音を聞いて何故か得意げだった。
 「僕は世の中を変えたい」
 小倉くんはベンチの背もたれに張り付くように背をつけて、太陽の眩しく光る空を見上げた。僕は夏の晴れた空なんて眩しくて見上げられないから、小倉くんを心の底から感心した。それは小倉くんに対して感心できる唯一のことだった。
 「SNSでは素性の知らない第三者たちが醜く争っている。引きこもりは増えて世界のどこかで戦争が起きている。誰もが幸せを望む傍誰もが不幸になっている。こんな世界でいいはずがない」
 喋っているうちに話の抽象度が増していって、果てには「科学をゼロから再構築しなければならない」と言い出した。木陰ではあるものの夏の日差しが激しく照り付けているというのに小倉くんは何故か涼しげだった。しかし、彼の緑色のシャツの脇の部分はじっとりと湿っていた。
 小倉くんは大学一回生の時に同じクラスでそれから話すようになったが、そこまで頻繁に会わないし、会っても彼の話を一方的に聞くだけで対話をあまりしなかった。だから彼の話したいことしか聞いていないし、彼の話さない彼自身のことは全く知らなかった。
 「自販機へ行こう」
 小倉くんは徐に立ち上がり公園の隅の自販機へ向かった。僕は暑くて木陰で休んでいたかったからベンチに座っていた。
 数歩ほど歩いて小倉くんは振り返った。
 「自販機へ行くんだ」
 僕は立ち上がって小倉くんの後についていった。小倉くんは「コーラを飲もう」と機嫌が良さそうに言った。小倉くんは迷わず500mlのコーラのボタンを押した。コーラが取り出し口に落ちる音がやけにうるさかった。二人でベンチに戻って、座った。
 アハハハハと楽しげな声が聞こえた。
 見ると公園に接した道で四人組の学生が談笑しながら歩いていた。四人で一つの集合体であるかのように、皆でアハハと笑いながら公園の横を通り過ぎていった。
 「下らないね」
 小倉くんはコーラをすでに飲み干したようだった。ヒックと肩をゆすって足を組み、足のつま先をせわしなく前後に動かしていた。
 「ほんとにくだらない」
 小倉くんはカゴにペットボトルを投げ入れた。ヘコッヘコッとなんとも情けない音がした。
 ふと疑問が湧いて小倉くんに、いつも何してるの、と聞いた。
 ただ純粋に、疑問に思っただけだった。
 すると小倉くんは僕の方に顔を向けて、今にも泣き出しそうな顔をした。僕は少しのけぞった。サンタクロースがいるのだと未だに信じているような純真さがあった。
 僕は何だかとても悪いことをしたような気がした。そして、ごめん、と呟いた。自分でも何に謝っているかわからなかった。一人の子供の将来を潰してしまったような、そんな気がした。
 小倉くんは背中を丸めて俯いて、手をグーにして膝に置き、静かにしくしく泣き始めた。
 綺麗な曲線を描く幅狭の背中は大人の男の肉体的な強さを全く感じさせなかった。小倉くんの日陰で休んでいた蟻が雨が降ってきたのかと慌てて動き出した。
 僕はごめんね、と言って小倉くんの背中をさすった。小倉くんの体は微動だにしなかった。動いているのは涙のみで、夜露に濡れた葉から雫が滴るように泣いた。
 ごめんね、と僕はもう一度呟いた。
 全く訳が分からなかった。
 「ぼ」
 小倉くんの体が揺れた。
 「ぼ、くは、ほんっと、に、しゃ、しゃかい、をかえ、かえ、かえた、っく、て」
 一匹の蟻が小倉くんの足元から這い登ってきたから、僕はそれをぱっぱと手で払った。前から風が吹いて巻き上げられた砂が降りかかった。軽く咳をした。
 「で、でででも、ぼ、ぼく、は、なん、にも、できな、できない、から、あた、まも、よ、よよよくな、いん、し」
 僕らの通っている学校は名の知れた国立大学だったから、卒業すれば何らかの役に立てるはずだ、と言った。やけに説明的に言った。彼は聡明なはずだから感情に訴えるよりも理論的に伝えたほうがいいと思った。
 「ち、ちが」
 小倉くんの鼻から粘っこい液体が出てきた。僕はそれを憎み、彼に対して理想像を持っていることに気づいた。小倉くんはこうであるべき、という理想像。傲慢で、人を見下していて、言動が一致しなくて、痛快な。
 「ほ、nんっと、ぅうは」
 小倉くんは喉を締め上げられたかのように声が震えていた。何かに怯えているような声だった。
 「な、なにもしたくないんだ」
 突然、ダムが崩壊したかのように一気に捲し立てた。
 「ぼくは頑張れない。自分のことしか考えられない。講義も面白くない。数学も物理も面白くない。ただYouTubeを見て小説を読んで、映画を見ていたい。いや、小説も映画も娯楽の中だったら教養よりになるかなと思って見ているだけなんだ。人の役に立ちたいのは本当だ。社会をよりよくしたいと思っているのも本当だ。でもそれは一過性の感情で朝起きれば消え去っている。YouTubeとかSNSをただ見ているだけで時間が過ぎて自己嫌悪が始まるけどそれを望んでいる自分にも気づいて、脱却しないことを選択している自分が怖くて、このままでいることが怖くて。怖いけどそれと同じくらいこのままがいいと思っている。僕は何かを作る人に憧れているけど僕が本当にやりたいことは創作じゃなくて消費なんだ。ごめん、お母さん、お父さん、ここまで育ててきてくれたのに。一人暮らしもさせてくれて生活費も食費も出してくれて気にかけて毎月電話してくれて。僕は勉強頑張っているよ、と嘘ついて、戦っているふりをして改善されない毎日を嘘で塗り固めた。ごめん、ごめんなさい」
 小倉くんは嘘つきだ。
 多分、本当はそんなことを思っていない。
 ただ今があるだけでその感情も一過性のものだ。
 彼の世界に彼自身はいない。
 彼の世界は他の世界の隙間にある相対的なものだ。
 小倉くんは嘘つきだ。 
 小倉くんは炭酸が好きだ。


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