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[小説] ホームセンター、キャロル

 手元のPHSで#90と押す。ピンポーンと広い店内に放送が響き渡る。
 「連絡です。35835番通路、交流の位相のずれについて、フォローお願いします」
 そして終了ボタンを押すと、間髪入れずにピンポーンと鳴って
 「そこで待ってろ」
と低く唸る猛獣のような声がした。
 「少々お待ちください」
と隣に立つお客さんに頭をさげる。もっと勉強しておけば良かった、と後悔する。
 ドタドタと太く重量のある足音がこちらに迫ってくる。手前の角を曲がって、こちらの通路にやってくる店長の姿が見えた。
 店長は眉間に寄った皺をすぐに直して、満面の笑みで
 「どうされましたでしょうか」
と甲高い猫撫で声で言う。
 私は失礼します、と頭を下げて業務に戻ろうかと思ったが、店長の後ろを通り過ぎた際、足を強く踏まれた。
 痛っと叫び声をあげそうになったが、ちらりとこちらを見る店長の険しい顔を見て、唇をギュッと噛み、声を抑えてその場に立ち止まった。
 「ありがとうございましたー」
 「ありがとうございました」
 しばらくその場に立っていた。店長が頭を下げたのを見て、あぁ終わったのだ、と自分も頭を下げた。
 「覚えてねぇなら、見ておかなきゃいけないだろ」
 店長の顔がすぐそこまで迫ってきた。これが最近cmによく出る女優だったら、私は世界で一番の幸せ者だった。
 「いつになったら覚える?お客様に迷惑だろうが」
 辞めたい。
 今すぐにでもバイトを辞めたい。私にホームセンターのバイトなど無理だったのだ。
 覚えることは富士山よりも山積みになって、一日かけても回りきれないほどに店内は広い。そろそろ二ヶ月が経つけど、いまだに業務を覚えれない。
 「あ、フケくん。これちょっと手伝って欲しいんだけど」
 キャロルさんがパタパタとこちらに駆け寄ってきた。
 店長はチッと舌打ちして踵を返し、キャロルさんと入れ替えでどこかに行ってしまった。
 「店長怖かったね、大丈夫?」
 「大丈夫です。早く仕事覚えないと」
 「大丈夫だよ。私、ここがオープンしてからいるけどまだまだ覚えていないことたくさんあるもん」
 キャロルさんが、私がこのバイトを辞めない理由の全てだった。
 私はすぐにでもキャロルさんと付き合いたかった。キャロルさんに話しかけられれば心が躍った。長い黒髪に、緑のズボンと白いシャツ。私じゃ到底着こなせないようなオシャレな服。それに、この前判明したのだけど、キャロルさんは小説が好きだ。
 私も小説が好きだからそれで少し盛り上がった。彼女はSFが好きらしく、よく読んでいるらしい。彼女に勧められた小説は早速買って読んだ。けど、あまり分からなかった。
 「じゃあ、頑張ってね」
 キャロルさんは店長に詰められる自分を見かねて助けに来てくれたらしい。
 情けない。
 自分が情けない。もっと業務を覚えていれば、店長に詰められることもなかったし、キャロルさんに不様なさまを見せることはなかった。
 キャロルさんは彼氏はいるのだろうか。
 目の前の棚の一番下の引き出しを開ける。そこに詰められた商品を取り出して、棚に整列させていく。
 彼氏がいないとして、私が告白すれば何て言うのだろうか。まだ連絡先も知らないし、何を話せばいいか分からないけど、付き合って手を繋いだりできるのだろうか。
 なんて、思った。

**数十年後**

 私は今から国会に火をつける。
 振り返れば私の人生には薄気味悪い憂鬱さと明日への恐怖しかなかった。
 生涯誰とも付き合うことはできず、友達も大人になって減ってしまい、過剰な自意識から行動に繋げることもできず、顔は不細工なままで、肩に積もるフケに皆が顔を顰めた。
 シュボッ。
 マッチをする。国会には警備員がいるだろうから、時間との勝負。
 ジ、ジ、ジジジジジジジジジジジジジジジジ。
 白いよれたシャツにマッチの火を擦り付け、点火した。自分の身に火を包んでそのまま国会に体当たりをする。警備員も火だるまを止めることはできるまい。
 「アハハハハッハハハハハハハハハハ!!!」
 思わず笑みが溢れた。これで、これで終わるのだ!あらゆる苦難と憂いからやっと解放されるのだ!
 「フケくん?」
 耳の奥に懐かしい声がした。ホームセンターのバイトを辞めてから私は女性と話したことがなかったから、それがキャロルだと気づくのに時間は要らなかった。
 「...燃えてる」
 キャロルは数十年越しでも、輪郭が消えて火に身を包んでいても、私のことがわかるのか。
 「大丈夫?どうしたの?」
 私は涙を流した。早くこの火を鎮火させたかった。顔を、キャロルに顔を見せたかった。キャロルの顔を見たかった。
 「フケくん?ねぇ、フケくん?」
 膝をつく。バランスを崩して地面に横たわる。息ができない。皮膚がバリバリと収縮していって筋肉と骨が折れ曲がる。あらゆる感覚に釘を丁寧に打っていくような、そんな感覚。
 「フケくん。ずっと心配してたんだよ。何してるんだろって。フケくん、フケくん!」
 私は灰になった。彼女の声はもう、聞こえない。

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