[小説] 金魚と夏祭り

 私のポケットの中には金魚がいる。
 それは小学校四年の夏休みのこと。近所の仲の良い子たちと一緒に、学校裏の公園で行われた夏祭りに行った。
 夕方、日が傾き、空を這う雲に茜色が差し込み始めた頃に集合し、公園に向かう。いつもなら公園から家に帰っている時間だったから、非日常感の高揚と背徳感で、脈が太鼓のように跳ね、体に変に力が入った。友人たちもどこか落ち着きがなく、男子は途中にある坂道を突然走り出し、女子は誰も冗談を言っていないのに脈絡なく笑った。
 その日は、遊具が一切置いていない、箱状の公衆トイレとグラウンドだけの無味の公園が、色とりどりの屋台と、押し寄せた住民で賑わっていた。ついに目的地に到達した時には、舞い上がった男子の一人が入口に向かって突進し、付近にいたおじさんにぶつかってしょっぴかれていた。
 しかし、小学生男子達の溢れるエネルギーは、そんなことで収縮しなかった。むしろ、炭と油の匂いが入り混じったフランクフルト、焼きそばの匂い、射的に並べられた魅惑の商品、綺麗に着飾った気になるあの子、ポケットの八百円、訪れる子供達だけの夜、その全てが彼らを刺激した。彼らの熱は祭りの雰囲気に当てられて、プールいっぱいの水を一瞬で沸かすほどに高まった。
 真ん中に置かれた紅白の布を被せた櫓の上部から、橙色に光る煌びやかな電飾が紐に連なって、そばの屋台の屋根まで伸びている。毎年のことながら、私はそれに見入った。
 櫓はただの見せ物ではなく、あくまで人がそこにいて完成する、人の存在する一つの場であった。私は櫓が、姿形は違えど、一人の人間のように思えた。
 一緒に来ていた、冬でも日に焼けているカンちゃんは、その電飾を触ろうとして何度もジャンプしている。他の男子もそれに倣って、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
 全く惜しくないのに、決勝戦で敗れたような、もう少しで栄誉を掴めたという顔をして、着地をし、くっそぉと言いながら悔しがる。そのいじっぱりが何とも可愛く、私はカンちゃんにずっと届かないでほしいと思った。
 男子四人、女子三人で行ったのだけど、歩き回っているうちに同じクラス、学校の子、別の学校だけど同じ水泳教室の子、など知り合いが増えていって、日が半分沈み、あたりが深い青い色に包まれた時には、何かの行事のような大所帯になっていた。
 みんな各々喋りたい人を捕まえて、公園の端っこの、芝の部分で屯した。私はせっかく祭りに来ているから堪能したい、と言って屋台の方に足を向けると、カンちゃんが俺も、と言ってついてきてくれた。
 風が吹く。サイダー日和、とは言えない涼しい夕方。カンちゃんの短い黒髪は風が吹いても全く靡かなかった。テレビで見たライオンのタテ髪はもっと揺れていた、と思い出し、パンツ一丁でサバンナに立つカンちゃんを思い浮かべた。思いの外違和感がなく、ふふっと笑った。
 「もうなんか食った?」
 「食べてないよ。もうお腹ぺこぺこ。でも匂い吸ってるだけで、ご飯食べた気がする」
 「わかる」
 フラフラ辺りを回って、無難に焼きそば屋の列に並んだ。バックから財布を取り出し、小銭を確認する。射的をやりたいのと、きゅうりも食べたいから、その分のお金を残さなければならない。
 「結衣は宿題終わった?」
 「もうちょっとだけど、カンちゃんは絶対やってないでしょ」
 「決めつけんなよ」
 「どうなの?」
 少し間が空いた。
 「ちょっと手伝ってほしい」
 「自分でやんなさい」
 カンちゃんは、周りからちゃん付けされることがあまり気に入っていないらしい。この前、親の前ではちゃん付けしてくれるな、とお願いされたのだけど、だれ一人聞いてなかった。お願いを聞かない友人たちに、彼はついに諦め、受け入れていた。
 「去年も出してなかったから、まずいんだよ」
 「二年連続で松木先生のクラスでしょ。絶対目ぇつけられてるよね」
 「あの人怖いんだって」
 「自業自得でしょ」
 狼狽えるカンちゃんの様子を見るのは愉快だった。
 柔らかいプラスチックの容器は、手のひらの凹凸に沿うように弛んで、焼きそばを通して鉄板の熱を私に伝えた。屋台の裏に回って、木の根元に腰を下ろした。輪ゴムで縛り付けられたプラスチックの容器にできた隙間から、白い湯気が出る。冬みたいだった。
 ソースの味がよく効いた焼きそばを食べながら、二人でいろんな話をした後、金魚掬いをすることになった。
 カンちゃんは屋台のおじさんに二百円を払い、網を受け取ると、それをよく睨んで「替えてほしい」と言った。おじさんも私も驚いたのだけど、おじさんは嫌な顔ひとつせず「あいよ」と言って網を交換してくれた。
 カンちゃんはそれを受け取り、満足そうに微笑んで、金魚の腹目掛けて網を差し込んだ。カンちゃんは網を腕ごと動かして、とても上手とは言えなかった。金魚よりも水が欲しいように見えた。
 結局カンちゃんは一匹も取ることができず、口を尖らせて首をガクンと垂らした。屋台おっちゃんがおまけと言って小さい、赤い一匹の金魚をくれた。項垂れるカンちゃんの代わりに私がお礼を言った。
 「これ、あげる」
 カンちゃんはビニル袋を私に差し出した。
 「え、いいよ。カンちゃんがもらったんでしょ」
 「俺んチ、金魚とか飼わないし。水槽ないし」
 「じゃあなんでやったの」
 「やりたかったから」
 ぶっきらぼうに言い放つカンちゃんに、私は戸惑った。うちの家では、弟が捕まえたバッタを飼っているぐらいで、生き物に親しむ家庭では無かった。
 「ほら」
 カンちゃんのピンと張った腕を跳ね返す胆力も無かったから、おずおずと水で膨らんだ袋を受け取る。思いの外重かった。袋に入った一匹の赤い金魚は、水が割れて滲んだ血のようだった。
 「ありがとう」
 「大事に飼えよ」
 金魚を飼ったらすぐに死なせてしまいそうなカンちゃんに言われ、苦笑する。辺りを見ると櫓の方に集まっていく。そろそろ盆踊りが始まるらしかった。どちらから言い出したことでは無かったが、自然と櫓の方へ足が向いた。
 ここから先は、あまり覚えていない。ただ言えるのは、その日、私はカンちゃんにもらった金魚を無くしたこと。そして、その日から私のポケットに金魚が住み着いたことだけだ。



 最近、白いダウンを買った。ネットでなんか良いのないかな、と探していたのだけど、なかなか見つからず、定価の三割引きになっていた、という理由だけで買ってしまった。
 シルエットが少し窮屈で、正直あまり気に入っていない。もう少しダボっと膨らんだものを想像していたのだけど、文句を言っても開封してきてしまったのだからもう遅い。一人暮らしでお金もないから、私はこれを着る他にない。
 しかし、寒さを凌げているのが悔しい。飾りとしての機能と、防寒着としての機能、両方欠けていたなら、私は完全な被害者になれただろう。しかし、悲しいかな、ダウンという壁に守られた私の体は十分に温められていた。手が冷たく悴んでいたのだけど、どんな上着でも同じだろう、と粗探しに躍起になっている自分が悲しくなった。
 最寄駅から大学への通学路には川が流れていて、私はいつも川沿いを歩いている。割と綺麗に舗装されていて、土手の上には桜が植えられ、奥に車道が走っている。そこまで大きな道ではないから、車通りも少なく、水のうねる音が聞こえる。歩いていると、あぁ好きだな、と思う。
 下流から水の流れに逆らって風が吹く。冷たい風にさらされた手を守るように、ポッケに手を突っ込むと、指先に空気よりも確かで、生き物のようにとくんとくんと波打つ、柔らかい水に触れた。右のポケットを除くと、そこには一匹の金魚が泳いでいた。
 金魚は不定期で私のポケットの中に現れる。それは上着のポケットかもしれないし、ズボン、リュック、さらには財布の中にまで現れたことがある。その時は、お金を取り出すことができず、後ろに並ぶ人たちに睨まれた。
 右手の人差し指を伸ばし、水面をなぞってかき混ぜる。くるくる回すと、水の腹に柔らかい水が触れて気持ちがいい。向かい風の冷たさは痛く、水の冷たさは心地が良かった。
 チョン、と指の先に金魚が触れた。その姿形は、あの夏祭りの日から全く変わっておらず、赤い皮膚の光沢は太陽で磨いたように輝いている。いつまでいるのだろうか、と金魚を触ろうと指を水の中に入れると、さっとポケットの奥の方に消えていった。
 金魚が現れるときだけ、ポケットの奥行きは海のように深くなる。以前、どこに底があるのだろうか、と腕を突っ込んだら肘まで入ってしまい、慌てて抜いた。
 あの夏祭りの日、楽しかった、という何とも短絡的な感想だけを家に持ち帰った私は、ベッドに入るまで金魚の存在を忘れていた。薄い掛け布団を腹に敷いて、扇風機の電源を切ったとき、私はカンちゃんからもらった金魚がないことに気づいた。私はそのことを、未だにカンちゃんに伝えていない。
 金魚をくれたカンちゃんは、中学に上がって引っ越してしまった。その時は寂しくておいおい泣いていたのだけど、歳を重ねるごとに出会いが重なり、別れが風化して、ついに今年、年賀状は来なかった。
 しかし、本当は、もっと早く終わっていたのだと思う。年賀状裏の家族写真はいつからか味気ない動物のプリントに変わって、文も年々減っていった。感情の湧かない相手に言葉など綴れまい。私も、ここ数年前から何を書けば良いのか困り、頭を絞って滲んだ汁を薄めて書いた。
 カンちゃんとの交流は無くなったが、金魚は確かに居る。まさかあの時は、カンちゃんよりも金魚の縁の方が長く続くとは思わなかった。
 指に金魚が触れた。私に返事をするように、また水面に現れた。私が死ぬまでそこにいてくれるだろうか。どこかへいってしまっても、私は覚えてられるだろうか。
 手をポケットから出す。風が吹く。濡れた指先に冬の風はよく沁みる。私はもう一度ポケットに手を押し込んだ。綿の感触がした。そこにはもう、金魚はいなかった。




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