[小説] 夏の少女

 気がつくと駅のホームに立っていた。右手に暖かい感触がして見ると、白いワンピースを着た、5歳ぐらいの女の子の手を引いていた。

 駅の周りは日差しを反射して輝く田んぼが広がっていて、遠くには小粒の家も見える。なぜだか懐かしさと、気持ち悪さを覚えた。

 感情の正体を探っていると女の子が手を引いて改札の方へ歩き始めた。

 誰もいない、切符を入れる木箱と褪せた木のベンチだけが置かれた改札に、恐怖にも似た嫌悪感を覚えて女の子の手を強く引っ張った。

 女の子は悲鳴も泣き言も言わずに、振り返って私の顔をじっと見つめる。彼女の顔はどこかで見た気がするのだが、思い出せなかった。

 私は早くここから抜け出したかった。ここで降りてはいけない気がしていた。

 ホームに置かれたベンチに女の子と一緒に座る。タイミングを見計らったかのように、一両編成の小さな電車がやってきた。目の前で停車して開かれたドアは、私のために開かれたように思えた。立ち上がるとベンチはギシッと、椅子としての役割を果たせないことを嘆くかのように悲鳴を上げた。

 二人で車内に入る。ジリリ、とベルが鳴ってドアが閉まった。

 車体が身を守るための城のように思える。ホームで立っていた時の不安感がいくばくか和らいだ。

 「次で降りようね」

 隣に座る少女が突如、口を開いた。私は肩をこわばらせて身構える。少女はそれっきり何も言わなかった。

 私はふと、その声に違和感を持った。果たして彼女の声はこんな風だったか。

 彼女と会ったことがある気がするし、ない気がする。不確かな記憶に声の違和感が絡まって不快感が増幅された。

 目を閉じて情報を遮断する。ゴウンゴウンとトンネルに入る音がした。目を閉じているからか、聴覚がやけに研ぎ澄まされている。耳の奥で音が何度も反射して外に漏れ出る。

 音が消えて、光が車内に差し込んだ。電車はトンネルを抜けた。窓の外には相変わらずの田園風景が流れる。繰り返されるその景色に段々と飽きてきて、瞼が重くなる。二度三度、頭を上下に揺らし、私は眠りについた。

 ぐいぐいと右手を引っ張られる感触がして起きると、少女が「着いたよ」と言ってドアを指差す。私は慌てて立ち上がり、口元に垂れる粘りっこい涎を空いている左手で拭ってズボンに擦り付けた。

 ホームに降りて空気を吸い込みながら頭を回す。手を引く少女に導かれるままに改札に向かった。

 ふとその景色に既視感を覚えた。誰もいない改札、褪せた木のベンチと切符を入れる木箱が置かれている。私は少女の腕を引いて足を止めた。少女はやはり何も言わずにじっと立っている。ベルがなり電車が出発した。電車が視界から消えて、目の前に田んぼと、奥に住宅も見えた。 

 くじの番号を確かめるように何度も景色をなぞる。ぐるっと体を一回転させて周囲を見渡した。ついに疑念は確信に変わった。

 私は先ほど出発したはずの駅に戻っていた。 

 少女は太陽が東から昇り西へ沈むごとく、それが当然であるかのように毅然として立っている。

 少女に何か話しかけようとして、やめた。私はベンチに腰を下ろすことなく縁のぎりぎりのところで待った。一粒の違和感も見逃したくなかった。

 縁に立ってから2時間ほどが経過した。山の頂上あたりにあった太陽も、今は真上に座って頭上を照らしている。水を飲んでいないからか足元がふらつき始めた。あたりを見渡しても自販機は見当たらなかった。

 ふと気になって「喉渇いた?」と少女に聞いてみるも、「渇いてない」と日差しの当たる目を細めることなく言った。

 少女を見つめていると電車がきた。記憶の中にある、前回乗った電車と全く同じ形をしていた。唯一違うのは、電車の座席の上に一本のペットボトルが置かれていることだった。

 私は足早に座席に向かい、座って、ふたを開けて渇いた喉に流し込んだ。

 飢えた体は水を勢いよく吸収していく。身体中を水分が駆け巡り満たされる。

 半分に減った水を少女に手渡した。少女は目の前に出された水を見つめていたが、握っていた手を話して両手で受け取り、飲んだ。放たれた手のひらから熱が逃げ、シワに溜まった汗が日の光に溶けていった。

 少女は少し残して両腕を伸ばし水を手渡すと、すぐにまた手を握った。小さな手の温もりが心地よかった。

 電車がトンネルに入った。私は眠らないようにと立ち上がり、全身に血を巡らせた。

 電車の進む方向を見たくて運転席を覗こうとしたが、座っている少女を見て、やめた。座っている彼女を再び立ち上がらせるのは可哀想だと思った。

 パッと視界が開ける。トンネルを抜けるのには思いのほか時間がかからなかった。私は窓の外を注意深く観察した。

 相変わらずの田園風景が広がっている。奥には住宅が散らばっていて、上には青い空が張り付いている。同じような景色を何度も見たせいか、連続する記号にしか見えなくなった。

 電車が減速し始めた。体が緊張でこわばる。 

 ゆったりと流れる景色は私を焦らしているようで、今すぐにでも走り出したい衝動に駆られた。

 一瞬、外の景色が記憶と重なった。

 額に浮き出た汗が頬をなぞる。

 まさか、と呟いた頃には電車は完全に止まっていた。開かれたドアに私は呆然とする。もしかしたらこのまま乗っていれば別の場所へ連れていってくれるのではないか、と思ったけれどドアは一向に閉まる気配がない。

 私は諦めてホームに足を踏み入れて、そのまま改札を出た。日は反対の山の頂上に昇っていた。


 駅舎を出て坂を登る。田園の反対側に改札があって、山の麓に位置していた。急な坂に住宅が山とくっつくように建っている。何一つ特徴のない、写しのような家々に辟易した。

 改札を出てから少女は一つの意思を持って私の手を引っ張った。生まれたばかりの赤子のように、私は抵抗せず少女に引っ張られるままに進んでいった。

 何度か折り返して坂を登っていくと、あたりを見渡せる場所に着いた。一面の緑の下に一本の茶色い線が引いてある。上に散らばる住宅は雲のようで、田んぼに植えられた稲は家々が降らせた雨のようだった。

 突如、私の記憶の蓋が開けられる。

 そうだ。ここにかつて私の家があった。小学校に入る前に私はここに住んでいた。なぜ今まで忘れていたのだろうか。

 朽ちた草木と混ざり合った土の匂いが鼻の奥から湧き出る。記憶の中で太陽の真下で畦道を駆ける私の横にもう一つの影が見えた。白いワンピースに麦わら帽をかぶっている。顔が帽子のつばに隠れて見えない。私は顔を見ようとかがみ込んだ。

 突如、少女は私の腕をこれまでで一番強く引っ張った。開きかけていた記憶の蓋が再び閉じる。抵抗しようとするも少女の力は凄まじく、指が腕の奥までめりこんでいた。

 「痛い痛い!」

 悲鳴を上げるも少女は一切振り返ることなく坂道を登っていく。手首が少女の手のひらの形に変形し歪んだ。骨の軋む音が聞こえる。私は思い切り腕を振り回し、なんとか少女の手のひらから腕を解放させた。

 少女の目線は坂道にいるせいで見下ろす形になっている。氷のように冷たい視線だった。彼女の感情が表に出たのは初めてだった。

 「どこへ行くの」

 私はこのとき思い出しかけた過去を再び手放していた。

 少女は踵を返して道を進んだ。私は振り返り、崖の下の駅を見つめる。電車が来たとしても私はここから出ることはできない。

 ぎゅっと目を瞑る。汗が目皺に溜まる。

 開いてできた一重から溢れる汗が目に入った。

 目を手のひらで擦る。私は決心した。小さくなった少女の背を駆け足で追った。

 少女が立ち止まったのは赤く小さな鳥居のある石階段の前だった。

 バチバチと脳の中で何かが連結し一本の線になるのを感じた。田んぼを見下ろした時のことを思い出す。私はここの神社にも来たことがある。そしておそらく、ここが少女の来たかったところだろうと。

 少女は一礼もせずに階段を上がる。私は石階段の先に微かに見える社を見ながら彼女の跡を追った。

 長く続く階段に膝をやられながら、登り切った頃には膝は震え耳の裏で、汗が滝のように流れていた。

 少女は鈴を鳴らし賽銭箱の前でお参りの手順を踏む。呼吸を落ち着かせて私も少女に倣った。これといって願いたいこともなかったので、とりあえず家族の健康をお願いした。

 少女は私が拝み終わるのを待っていたらしく、社の裏手の林に足を踏み入れた。

 皿のように平坦な道を進んでいるのだが、なぜか汗が止まらない。恐怖が心に巣食っていたが、きっとここから逃げ出すことはできない、と感覚でわかっていた。

 社から8mほど離れた林の中で、少女は立ち止まった。木の根元にしゃがみ込み、落ち葉を脇によけて土を掘り始めた。

 私はじっと見守った。少女の白い肌が土色に染められていく。

 数分ほど経った時、土の中から黒い糸のようなものが見えた。少女はその周りの土を丁寧にどかしていく。静かな林の中で心臓の音が響く。

 土の中に埋まっていたのは、その少女だった。白いワンピースを着た少女が土の中に埋まっていた。瓜二つの二つの顔を見比べる。鏡合わせのようにそっくりだった。 

 突然、土の中の少女が目を見開いた。私は一歩たじろぐ。

 段々と顔つきが変わる。成長している、と大きく目を開いて理解しようと頭に血をめぐらせた。

 根元の木はみるみるやせ細り、朽ちていく。対照的に少女の体は丸みを帯びて、膨らんでいく。

 木が粉となり土に帰った時、少女は大人になって土の中から出て立ち上がった。

 それは私だった。 

 そして私は理解した。これは私の走馬灯だ。

 

 軋む目を開き、錆びた眼球を動かしてあたりを見渡す。

 誰もいない空虚な部屋を一望してから、ゆっくりと目を閉じた。




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