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雑誌『現代思想』についての読書メモ

人文社会学系の割と有名な月刊誌に『現代思想』というものがあります。

現代日本においてアクチュアルな「テーマ」について、様々な人が独自の視点から考察した論考が集められた雑誌なのですが、「エッセイというほど緩くはないが、学術論文というほどかっちりしていない」論考が掲載されることが多く、程よく知的好奇心を満たしてくれるので、興味のあるテーマの月は購読しています。

月ごとにテーマが設定され、直近のテーマはというと、
・8月号:裁判官とは何か
・7月号:〈計算〉の世界
・6月号:無知学/アグノトロジーとは何か
なので、文系・理系・実学・虚学問わず、意識的にいろいろなテーマを選択しているようです。

僕は、現実世界での具体的な課題(「ウクライナ危機」とか「憲法改正」とか)にはあまり興味がなく、また理科系の話題については単純についていけないことが多いので、購読するテーマは「文系×虚学」であることが多いです。今保有しているのは、以下の13冊でした。

本棚を買うお金がないのでかごに入れて保管

何冊か面白かったテーマの本について内容紹介とコメントを載せておきます。気になるテーマの本があれば、青土社のホームページから購入できるみたいなので、どうぞ。


1.『現代思想2021年5月号 「陰謀論」の時代』

トランプ支持の陰謀論者であるQアノンの過激派によって、アメリカ議会議事堂襲撃事件が起こったのが2021年。コロナウイルスやそのワクチンに関する陰謀論も世間に蔓延しており、「陰謀」の社会的な影響力が強まる中、今一度「陰謀論」について(ただバカにするのではなくて)腰を据えて考えなければいけない、ということで企画されたのだろう。

特に
・「『石化する快楽』としての『陰謀論』 林郁夫『オウムと私』を手がかりに」(橋迫瑞穂)
・「革命理論としての陰謀論 陰謀論的スピリチュアリティにおける太田竜の問題系」(栗田英彦)
という2本の論文が面白かった。

反体制組織としてのオウムや極左が、体制批判のために〈あえて〉陰謀論を利用し、組織を作り上げていく様が興味深かった。

ただそうした陰謀論は、集団の構成員を騙すのが目的で拵えられたというよりは、世界の新秩序設立を目論む反社会的集団にとっての避けられない運命としてなのだと思う。つまり以下の通りである。

様々な分野が専門分化し、複雑化した現代社会は、一人の人間には「理解=掌握comprehendすることがもはや不可能な〈混沌とした世界〉」となっている。
大多数の人間はだから理解を放棄し、ただあるがままに世界を受け入れているが、それが耐えられない人間もいる(それが「反体制派」である。)
そうした人間が〈混沌とした世界〉に何らかの説明をつけようとすれば、おのずと陰謀論という帰結になって当然だ。なぜならば、本来理解しえないものを理解しようとしているのだから無理が出てくるのだ(「日本シャンバラ化計画」や「共産主義革命」の無理筋さ)。
ただ、美しく言えば、「何としても世界を自分自身の元に取り戻そうとする意志」こそが陰謀論なのだろうとは思う(下記の記事も参照)。

僕には陰謀論者の陰謀を批判することはできても、その志を否定することはできない。


2.『現代思想 2021年2月号 精神医療の最前線—コロナ時代の心のゆくえ』

コロナ禍が日常化し、非日常的な祝祭感がなくなりつつあったころである。

破滅的な黙示録というよりは、恒常的な生活水準の低下のプロセスこそがコロナ禍であるということが明らかになり、気分が滅入る人が増えていたのだろう。僕自身もコロナが腐った日常(人生)を破壊してくれるのではないかという期待が見事に裏切られ、日常(人生)が今まで以上に腐っていく様になすすべなかった。

コロナ禍が日常に与える影響についての論者間の差異は興味深かった。
これは精神科・臨床心理士といった精神医療に従事するものと、哲学者・思索者との認識の差異であるといえる。

前者はそれを少なく見積もり(少なくあるべきだと考え)、後者はそれを多く見積もる(多くあるべきだと考える)傾向があるようだ。それは今までの日常をどのように捉えるのかの相違だろう。

例えば、「コロナ禍の精神科外来と『日常』」(松本卓也)では、コロナ禍によって「何かが大きく変わることはない」ようだという著者の直観と、にもかかわらず(だからこそ)日常を維持するということ、つまり「世界に存在する諸事物の新しい指示連関を作り上げる」ことが重要で困難な仕事であることが主張されていた。対して「停止で紡ぎだされる夢が停止を惹き起こすために」(小泉義之)では、コロナ禍における外出自粛の傾向によって、「不要不急の医療が停止し」社会の医療化という日常状態が破壊されるという夢が実現するのではないかという期待の存在が示唆されていた。


3.『現代思想 2021年4月号 教育の分岐点—共通テスト・一斉休校・35人学級』

僕は教育学部出身なので今でも教育にはそれなりに興味があるのだが、特に昨今の教育改革(改悪?)には注目している。英語にspeakingの試験が導入されたり、プログラミングが義務化されたりと、いろいろやっているが、結局は政策立案者の「青年だったあのころの自分を救いたい」という自己愛、つまり「青春コンプレックス」によって駆動されている気がするのは穿った見方すぎなのか。

ただそうした利己的青春コンプレックスに駆動された改革を否定しながら、しかしそれを単に否定(否認)するのではなく喪に服すことが必要なのだとも思うのだ。

特に以下二つの論考が面白かった。

①「新型コロナウイルス感染拡大と非正規移民の子どもの社会的排除」(稲葉奈々子)
非正規移民(在留資格が無く仮放免の状態の移民)の子どもたちは、自分たちが社会的に排除され「むき出しの生(ゾーエー)」の状態であることを段階的に知らされる。それは親世代が初めからそのことを完全に知らされているのと違う点である。成長するにつれて自由が抑制される(社会的包摂から排除される)という経験は子どもたちにとって厳しいものだが、逆に、「社会的・政治的な生(ビオス)」を一時的にも(子ども時代に)経験していることによって、排除の状態を所与のものとは考えず改変可能なものと考えられうるという希望に注目することもできるようだ。

②「『ライフプラン教育』と日本における『性と生殖をめぐる教育』」(斉藤正美)
僕は男子校出身で大学もリベラルな校風だったので、ライフプラン教育を受けた記憶がなくその存在も知らなかったのだが、こんなおぞましいヘテロセクシズムが存在したとは…、という感じである。ただ、元々こうした思想や情報の伝達(教育)は非正規の活動として、「先輩から後輩へ」もしくは「集団的な知」として(ある種の集団界隈に)存在しただろうから、それが制度化され正規のカリキュラムに組み込まれたということだろうとも思われる。それは、ジェンダー研究やゲーム研究が大学の正統的学問に組み込まれるようになったという事態と同じことだろう。


4.『現代思想 2021年9月号 〈恋愛〉の現在-変わりゆく親密さのかたち』

ちょうどこのころ失恋していたので、身に染みる論考が多かった。やっぱり文系の学問は自分の体験に言葉を与えてくれるのが一番いいところ。

①「センチメンタル無反省」という面白い言葉を知った(清田隆之の「もう誰かと恋愛することはないと思うけれど」論文で登場した。清田隆之は恋愛相談専門ユニットの桃山商事の代表らしい。)

センチメンタル無反省とは、ある種の男性に特徴的な恋愛に対する(失恋に対する)態度であり、「失恋の現実的な原因(相手の感情や状況)に目を向けることなく、自分勝手に感傷的な気分に浸る」といったものである。僕は多分にその傾向があるので、気を付けないといけない(けれど、相手のことに気を配れるほど精神の余裕がないのが、失恋という体験なのではないだろうか?これは僕の「初心さ」故なのだろうか?)。

②「ゴースティング試論 CMC空間の恋愛をめぐる一考察」(中森弘樹)も面白い。ゴースティングとは、「オンライン上のやり取りで親密な(性的)関係になっていた他者から、理由を告げることなく連絡を絶たれ、以後接触不可能になる」という事態である。ある意味で、失踪(missing person)に類似する現象だが、違いもあることが示されていた。

つまり、後期近代において、恋愛は市場の原理に従い、個々人が持つスペックの「売り買い」の様相を呈することになる。ゴースティング(失恋)は、好意を抱いていた相手から自分が選ばれない(自分との関係性に見切りをつけられる)という体験であり、自尊心への打撃もあるということである。


③韓国の恋愛事情について書かれた、「「家父長制ボイコット」としての非恋愛 韓国社会の変化と若者の恋愛」(柳采延)も勉強になった。非恋愛・脱恋愛が韓国では流行っているらしい。「不談恋愛、不談結婚」を掲げる、中国人寝そべり族も勘案すると、東アジアは空前の恋愛離れが進んでいるのかもしれないなと思った。


④恋愛といえばとかく「する/される」の次元で語られることが多いが、むしろ「見る/見られる」の次元に注目することで見えてくるものもある(「アセクシャル/アロマンティックな多重見当識=複数的指向 仲谷鳰『やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から」、「恋愛を「みせる」こと 恋愛リアリティショーにおけるカップル主義のゆくえ」)。
⇒見ていることしかできなかった人が疑似的に失恋すること(相手が他者と恋愛成就すること)をBSS(「ボクのほうが先に好きだったのに…」)という概念で表すこともできるらしい。心理的NTRとも言えようか。

また一方で、「見る」ことを「する」ことに対して二次的なものと考えることは対人性愛中心主義でありアセクシャルやフィクトセクシャルといった多様な性の形を抑圧する態度であるとも批判できる。「性愛に対する欲望」が「性愛をしたいという欲望」に還元されるのではなく「性的表現の愛好」などにも開かれている必要がある。


5.『現代思想 2021年11月号 ルッキズムを考える』

①「感情知と感情資本 アンガーマネージメントの社会学」という論文が勉強になった。

ルッキズムとは単なる容貌の問題と言うよりは、「他者からどのように見られるのか(どのように意味付与されるのか)」の問題であり、雰囲気や感情表出(怒りのコントロール)といった点も含まれる。そうした点を不変の所与としてではなく、スキル・スペックとして可変的に捉えるのは、感情が交換可能なものとして市場原理に晒されているということなのだろう。現代は生活のすべてが市場原理の影響化にある…(「ゴースティング試論 CMC空間の恋愛をめぐる一考察」参照)。

例えば、6秒ルール〔怒りのピークは6秒、その間は行動に移さない〕、職場の心理的安全性の確保(フィアレスな組織)〔意見が違ってもそれを受け止めて自由闊達な議論ができるチーム〕


②ルッキズムとジェンダーをめぐる問題系において前提となっているのは以下のこと。
(1)「見る主体としての男性、見られる対象としての女性」という伝統的な構図があるということ。
(2)しかし90年代頃から男性も見られる対象となってきたということ(「男…〔も〕女の眼差しを受ける客体化された存在」(p.118)になり、自らの身体イメージに気を遣う必要が出てきた)。
(3)そこには自らの身体イメージを交換可能な資本(スペック)として捉え、それを基に競争を行うという、「容貌の世界の新自由主義的な市場化」がある(容貌は商品となった→故の男性脱毛の隆盛)。


6.『現代思想 2022年9月号 メタバース』

①「メタバースとヴァーチャル社会」(大黒岳彦)という論文が勉強になった。

メタバースには3つの相異なる系譜があり、(1)VRからの系譜、(2)SNSからの系譜、(3)ブロックチェーンの系譜、がある。三者はメタバースに対する力点が異なり、例えば(1)はメタバースを物理現実の汚染から逃れたユートピアとして規定するが、(3)はメタバースを物理現実の経済と同期しそれと相互作用するものとして考える。つまり「(物理)現実に対するあるべき距離感」が両者は異なる。

②ユートピア(別の場所)を生きることがメタバースを生きることならば、ユークロノス(別の時間〔過去〕)を生きることは何になるのだろう。あるはずだった過去・現在・未来を生きることは。

メタバース(オンラインゲームやSNS)といった空間的なものであれば他者との交流は、「別の仕方」ではあるが可能である。しかし別の時間に同時に存在することは現時点では可能ではない。仮想的な過去として(空間化された過去として)作り上げるのが現実的だが、果たして?そしてその際、人格を持たないAIが他者代わりに人間らしい行動をとってくれればそれでよい。この世界は他者がいないとできないことが多すぎる上に、他者は自分にとって偶然的でありすぎる。

③『ブロックチェーン』(岡嶋裕史、BLUEBACKS、2019)を読んで知ったのだが、ブロックチェーンの主な特徴は(1)非中央集権的(サーバ/クライアント型ではない)(2)分散型データベース(特権的なサーバがデータベースを専有しているわけではない)(3)書き込み専用(訂正困難)、の3点らしい。換言するとブロックチェーンは自律的なシステムであり、誰かが(開発者ですら)強権で操作することが出来ない。開発者や特定の管理者が超越論的な立場にいるのではなく、すべてのエージェンシーがブロックチェーンシステムの中に内在している。「神は世界を創造したが、その後の世界の展開には関与しない」と考えた理神論的な世界観に近いような気がする。


7.『現代思想 2022年12月号 就職氷河期世代/ロスジェネの現在』

僕は最近、「年をとる」(aging)ということについて考えなければいけない、ライフサイクル上の時期に突入しております。いろいろあって長かった青年期が象徴的に終焉したことで、これから「大人」(壮年)としてどのように生きるべきなのかについて考えなければならないということです。

正直、クォーターライフクライシスを患っているのでしょう。先輩のロスジェネの人の人生に学ばせていただきたい。

90年代ロスジェネ受難史をどうとらえるか」(中西新太郎)が勉強になった。ロスジェネの「ロスト(喪失)の経験」はこの世代特有のものではなく、現代日本における普遍的な問題の一つの極限であると本論文は提起する。つまり、新自由主義が全面化した時代において起こった、「〈生-生活〉の基盤剥奪」という事態の最初の遭遇者がロスジェネ世代というわけである。後の世代にとって「〈生-生活〉の基盤剥奪」は前提条件ではあり、失う前に喪失しているという違いがあるにせよ、この一点を共通項として世代間で連帯することが可能なのかもしれない。


8.『現代思想 2023年6月号 無知学/アグノトロジーとは何か』

こちらに詳細を書きました。


9.まとめ

まとめてて分かりましたが、僕はやっぱり、木澤佐登志に影響を受けてますね。『現代思想』にも時折寄稿してくれて、面白いです。お勧めです。











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