よく「哲学は自己啓発とは違う」と言われます。
自己啓発と哲学は、「現状(今ある自分/今ある環境/今ある世界)に対して疑いの目を向け、〈別の真理〉を探求する」というおおもとの目的意識は近いものがありますが、前者がシンプルで力強い答え(例:「個人の内面の変容」、「Inner Selfの解放」)を提示することに力点を置くのに対し、後者はあくまで探求それ自体の過程(論理、概念分析、述語連関)に力点を置く点が、違いかなと思います。
換言すると、自己啓発派の人にとって哲学は「迂遠で回りくどく、人間の真の苦しみに寄り添えていない」のが不満であり、逆に哲学派の人にとって自己啓発は「断定的で結論が浅く、現代における宗教の代替だから、哲学と一緒にしてほしくない」のでしょう。
ただ、哲学者のことば(名言)に啓発される経験は割と一般的だと思います。もちろんそのことばを盲目的に信仰するのではないのですが、一つの道しるべや示唆として。
僕が印象に残っている哲学者のことばを紹介します。
1.ニーチェ
先生と決別し、自分の足で歩くことができるようになって初めて、先生の目的は完遂されるということ。教育の逆説が端的に示されています。
同じようなことばは、『英文解釈教室』で伊藤和夫先生も言っていたことを思い出しました(こちらは意識的な決別ではなく、無意識的な忘却ですが)。
2.シオラン
外的な有用性(他者とのコミュニケーション)のためではなく、内的な生命性(精神の衰弱からの脱却)のために行われる外国語学習が存在するということを示唆することばです。
確かに母国語とは別の思考に浸るのは「健康に良い」気がします(程度問題ですが)。
3.エピクテトス
ストーカーに聞かせたい言葉だ。。。
4.フーコー
自分自身からの離脱を可能にしてくれること、それが哲学のレゾンデートルであることを示すこの文章は自己啓発の文脈でも利用可能だと思います。
5.カベル
大人の教育としての哲学は、単なる量的な成長としてではなく、質的な自己変容としてである。それは、「回心」「再生」といった自己啓発とも親和性のあるタームを用いて語られる。
6.吉田兼好
題意は、、、、
ネタとして狂人の真似をして大通りを走ったとしたら、それはすなわちもはやベタに狂人である。
ネタとして悪人の真似をして人を殺したら、それはすなわちもはやベタに悪人である。
同様に嘘だと思っていても一応賢を学んだとしたら、もはやそれは賢なのだ。
ぐらい。
「形から入ることの重要性」あるいは「アイロニカルな没入の効果」に言及している??