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哲学者のことば(ニーチェ、シオラン、エピクテトス、フーコー、カベル、吉田兼好)

よく「哲学は自己啓発とは違う」と言われます。

自己啓発と哲学は、「現状(今ある自分/今ある環境/今ある世界)に対して疑いの目を向け、〈別の真理〉を探求する」というおおもとの目的意識は近いものがありますが、前者がシンプルで力強い答え(例:「個人の内面の変容」、「Inner Selfの解放」)を提示することに力点を置くのに対し、後者はあくまで探求それ自体の過程(論理、概念分析、述語連関)に力点を置く点が、違いかなと思います。

換言すると、自己啓発派の人にとって哲学は「迂遠で回りくどく、人間の真の苦しみに寄り添えていない」のが不満であり、逆に哲学派の人にとって自己啓発は「断定的で結論が浅く、現代における宗教の代替だから、哲学と一緒にしてほしくない」のでしょう。

ただ、哲学者のことば(名言)に啓発される経験は割と一般的だと思います。もちろんそのことばを盲目的に信仰するのではないのですが、一つの道しるべや示唆として。

僕が印象に残っている哲学者のことばを紹介します。


1.ニーチェ

いまは、わたしはひとりで行く。弟子たちよ。あなたがたもいまは別れてひとりで行きなさい!それがわたしの希望だ。

まことに私はあなたがたに勧める。私から離れて、このツァラトゥストラのおもかげを振り払いなさい。もっといいことは、ツァラトゥストラを恥辱に思うことだ!

多分、彼はあなたがたを欺いたのだろう。

『ツァラトゥストラはかく語りき(上)』岩波文庫 131項

先生と決別し、自分の足で歩くことができるようになって初めて、先生の目的は完遂されるということ。教育の逆説が端的に示されています。

同じようなことばは、『英文解釈教室』で伊藤和夫先生も言っていたことを思い出しました(こちらは意識的な決別ではなく、無意識的な忘却ですが)。

本書の説く思考法が諸君の無意識の世界に完全に沈み、諸君が本書のことを忘れ去ることができたとき、「直読直解」の理想は達成されたのであり、本書は諸君のための役割を果たし終えたこととなるのであろう。

『英文解釈教室』あとがき


2.シオラン

しかるべき理由があるにせよないにせよ、精神の衰弱に落ちた時そこから抜け出す一番確かなやり方は、一冊の辞書を、それもなるべくなら、ろくに心得のないような外国語の辞書を手に持ち、これから先絶対に使うことはあるまいという言葉ばかり注意深く選んで、あの言葉この言葉とその辞書を引きまくることだ。

『生誕の災厄』出口訳 84-85項

外的な有用性(他者とのコミュニケーション)のためではなく、内的な生命性(精神の衰弱からの脱却)のために行われる外国語学習が存在するということを示唆することばです。

確かに母国語とは別の思考に浸るのは「健康に良い」気がします(程度問題ですが)。


3.エピクテトス

何かに愛着をいだくとき、すなわち決して奪われないものではなく、水差しやガラスのコップといったものに愛着を抱くときは、それがたとえ壊れても取り乱す必要はないと忘れないことである。

人間に対しても同じだ。自分自身の子供や兄弟や友人にキスをするときは…死すべきものを愛していること、愛しても自分自身のものではないことを失念してはならない。

彼らへの愛は一時的に与えられただけであり。永遠に手に入れたわけでも、ずっと手元に置いておけるわけでもない。
一年のうちの決まった時期だけに収穫できるイチジクやブドウを冬に求めるのが愚かなことであるように、自分に与えられていない時に息子や友人を慕うのは愚かなことであり、冬にイチジクを求めるのと同じだと知るべきだ。

『語録』

ストーカーに聞かせたい言葉だ。。。


4.フーコー

果たして自分はいつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか?いつもの見方とは異なる見方で知覚する事ができるか、そのことを知る問題が熟視や思索をし続けるために不可欠である。

そのような機会が人生には生じるのだ。自分自身とのこのような戯れは舞台裏に隠されてさえいればいい、とか、結果が出てしまえばおのずから消え去る準備作業のせいぜい一部分なのだ、とかいずれ言い出す人もあるに違いない。

しかし、哲学ー哲学の活動、という意味でのーが、思索の思索自体への批判作業でないのであれば、今日哲学とは一体なんであろう。自分が既に知っていることを正当化する代わりに、別の方法で思索することが、いかにどこまで可能であるかを知ろうとする企てに哲学が存立していないとすれば、哲学とは何であろう?

『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』序文

自分自身からの離脱を可能にしてくれること、それが哲学のレゾンデートルであることを示すこの文章は自己啓発の文脈でも利用可能だと思います。


5.カベル

アウグスティヌス、ルター、ルソー、ソローらによって提起される問いを前にするとき、私たちは子どもである。そうした問いにどのようにして取り組んだらよいのか、何を根拠に置くことができるのかが分からないのである。

ここにおいて、哲学は大人の教育となる。それはまるで、人生の初期の段階において正常な身体はその強さと高さの限界に達するという、避けられないことに必ず誤って解釈される自然の事実に対して、正しい視点を求めなければならないと言うかのようである。それに、子ども的なものを捨てなければならないからと言って、どうして私たちは、成長の期待や子供時代の記憶まで捨てなければならないと考えるのであろうか。

教育に於ける、真剣な意思疎通に於ける不安は、私自身が教育に必要とするものである。そして、大人にとってこれは自然な成長ではなく、変化である。回心は私たちの自然の反応の向きを変えることであり、ゆえにそれは再生として象徴される。

『理性の主張』

大人の教育としての哲学は、単なる量的な成長としてではなく、質的な自己変容としてである。それは、「回心」「再生」といった自己啓発とも親和性のあるタームを用いて語られる。


6.吉田兼好

狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。 偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。

『徒然草』

題意は、、、、

ネタとして狂人の真似をして大通りを走ったとしたら、それはすなわちもはやベタに狂人である。
ネタとして悪人の真似をして人を殺したら、それはすなわちもはやベタに悪人である。
同様に嘘だと思っていても一応賢を学んだとしたら、もはやそれは賢なのだ。

ぐらい。

「形から入ることの重要性」あるいは「アイロニカルな没入の効果」に言及している??


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