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0 学校とパノプティコン 序説

#0  教育のパノプティコン化


 教員になってから、この文章を書いている2022年8月現在で5ヶ月が経ちました。教員として新たに身に付けたスキルは、膨大な量の紙の書類の整理方法とか、心配性の保護者を安心させる話し方とか、(一体なんの意味があるのか不明な)忌々しい起案文書の書き方とか色々ありますが、「意に染まぬ生徒の〈監視〉の仕事を黙々とこなすこと」が、教員にとってもっとも重要なスキルであると確信しています。 ここで〈監視〉という言葉を使ったので、この記事での用語法に若干の説明をしておきたいと思います。私が山括弧を付けて、〈監視〉という言葉を用いるときは、国語辞書的な意味での「監視」とは分けて用いています。すなわち、〈監視〉という言葉には、社会学的な意味が込められています。フランスの哲学者・社会学者のフーコーが『監獄の誕生』で論じたような意味での監視です。
 学校における〈監視〉は、様々な形で行われます。例えば校門や
昇降口での立ち番(座り番)――私の勤務校ではコロナ対策のためと称して、検温当番となっています――、授業中に抜け出したり騒いだりする生徒が居ないかどうか見るための校内巡回、清掃分担区での監督といった、直接的な監視がもっともイメージしやすいでしょうか。
 その他にも、学校において〈監視〉は様々な美名を与えられてそこここに根付いています。思いつくだけ列挙すると、「見守り」、「巡回」、「監督」、「評価」、「面談」など……。
 教育と〈監視〉は不可分一体である、というのが私の考えです。教育と〈監視〉はコインの裏表でさえなく、まったくの同一線上にあります。このことは、〈監視〉の持つ主要な目的である「規律の内面化」と、教育の目的と目標をかんがみれば、明らかです。

【教育基本法】
第1条(教育の目的)
 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

  1. 第2条(教育の目標)

  2.  教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するように行われるものとする。

  3. 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

  4. 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。

  5. 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

  6. 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。

  7. 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

教育は、なかんずく学校教育は、いま挙げた教育基本法第1条の目的と、目的を果たすべく第2条に掲げられた目標を達成するべく行われることになっています。逆に言えば、目的と目標の達成に関係しない事柄は全て夾雑物であり、教員がそれを行うことは無意味であるばかりか、時に有害でさえあります。すなわち、〈監視〉の弊害です。
 「人格の完成を目指」すことも、「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期」すことも、教育を通じて人の内面を矯正したり、規律を身に付けさせたりすることと同断です。つまり、〈監視〉を全く行わない教育というのは原理的に存在しません。したがって、〈監視〉が行われることそれ自体については、私は特に問題としません。〈監視〉をすべて否定することは、すなわち教育を否定することであり、いささか極端な言い方をすれば人間を生まれながらの野生児のままに留めておくことだからです。このような処遇が望ましくないことは、改めて論じるまでもないでしょう。
 私が問題とするのは、〈監視〉の目的と方法です。私の問題意識はこうです。
教育(=〈監視〉)の本義から外れ、〈監視〉が自己目的化していないか?
学校が学齢期の子どもたちを効率よく〈監視〉するための場――一望監視装置を備えた監獄(パノプティコン)――になっていないか?
教育(=〈監視〉)が国家にとって有意の人材を育てるためだけに行われているのではないか?

##0.1 問いと仮説


 上記の疑問を解決するべく、私は以下の通り問いと仮説を設定しました。
【問い】
学校はなぜ、いつから、どのようにパノプティコン化したのか?

【仮説】
学校は、新自由主義のもとで、教育の目標を達成しようとする過程でパノプティコン化した。

この仮説を立証するために、大別して3つのテーマについて論じることにしました。
(1)どういった根拠で、学校が「パノプティコン化している」と言うのか?
(2)教員はなぜ一望監視システムの担い手になってしまうのか?
(3)後期近代の「排除」と「包摂」の論理は、学校のパノプティコン化にどのような影響を及ぼしたのか?

我ながら大言壮語というか、テーマを広く設定しすぎたことは否めません。おそらく数年単位で時間がかかると思いますが、お付き合いいただければと思います。

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