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都市生活者の系譜 ―佐野元春私論(7) 言葉とビートの相克

エレクトリック・ガーデン

アルバム「VISITORS」で、佐野がそれまでの語彙に従来とは異質な文学性、抽象性を持ちこみ、結果としてその表現の領域を押し広げたことは第5回で既に見た。それは佐野がニューヨークという国際都市、無国籍都市の緊張感、スピード感の中で、日常の中からリアルに立ち上がってくる意識の奔流を、「歌の言葉」に翻訳している暇がなかったことによるものだと分析した。換言すれば、それは、リアルなイメージの断片を「歌詞」に翻訳することによってそこに必然的に生じるギャップやロスのようなものがそうしたリアルなイメージを致命的に損なってしまうことを佐野が敏感に感じ取り、むしろイメージを原石のままたたきつけることによってニューヨークという街の空気をより正確に切り取ることができると判断したということである。
こうして拡張された語彙は、その後の佐野の活動の領域そのものを押し広げた。その最も顕著な表れが1985年に発売されたカセット・ブック「ELECTRIC GARDEN」である。
これはハードカバー・パッケージの中に、大小二冊の本と、一本のカセット・テープが格納された、いわばメディア・ミックス的な作品である。隣り合わせに製本された二冊の本には、佐野の詩、ショート・ストーリー、インタビュー、写真、そして日米の気鋭のアーティストのアート・ワークが収められており、ファン・ブック、アート・ブックとしても価値が高い。
もうひとつのオブジェクト、カセット・テープには、本の方に収録された詩の中から選ばれた7編の作品を、佐野がバック・トラックに乗せて朗読するポエトリー・リーディングが収められている。ここではアルバム「VISITORS」よりさらにむき出しの「詩の言葉」を、ビートとの相互作用によってより的確に、効果的に伝えるという方法論が試みられている。決してすべての作品においてビートと言葉が100パーセントかみ合っているという訳ではないが、『Dovanna』や『N.Y.C.1983』といった作品では、言葉の持つイメージがバック・トラックの質感や情感によって増幅され、あるいは変調されて、単なる詩の朗読では得ることのできない独特の喚起力を獲得している。

ポエトリー・リーディングの喚起力

注意しなければならないのは、こうしたポエトリー・リーディングの持つ喚起力が、歌詞と曲のマッチし、メロディに乗せて歌われる「歌」のそれとは違った種類のものであるということだ。歌の中では歌詞はメロディに制約される。その制約を前提とした歌詞とメロディの調和や相克の中にこそ歌としての表現の可能性は存在する訳だが、ポエトリー・リーディングではその言葉はより自律的、直接的であり、そこにおける喚起力は、歌におけるよりも多くそうした言葉の自律性、直接性に依拠している。その意味ではポエトリー・リーディングはラップのライムにより近いが、ライムにして既にビートとの相性を勘案した韻律が意識されていることを考え合わせれば、ポエトリー・リーディングはそれよりもさらに自由な、言葉そのものに本来内在する音韻の特性を起点にしたビートとのカップリングの試みであるということができる。ポエトリー・リーディングは、言葉とビートのマッチングよりもミスマッチ、周到な計算よりもハプニングの偶然性を重要なモメントとする表現であると言えるかもしれない。
こうしたポエトリー・リーディングの特性は、佐野がビート・ジェネレーションの強い影響を受けていることを思い起こさせる。言葉の力、言葉のスピードというものを考えるとき、ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズといったビートニクたちが言葉を「路上」に引きずり出し、僕たちの日常性の地平にそれをたたきつけたことを忘れる訳には行かないが、ポエトリー・リーディングという手法もまた彼らが得意とした表現方法のひとつだった。佐野元春は、言葉の内発性を重視したこのポエトリー・リーディングという表現方法を、バック・トラックとの融合を媒介にして再び路上に引きずり出したのだと言えるかもしれない。
こうした手法はメイン・ストリームの音楽活動にも繰り返しフィードバックされている。後述することになるがアルバム「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」ではいくつかの楽曲でポエトリー・リーディングが効果的に使われているし、アルバム「Fruits」のラストを飾る『フルーツ-夏が来るまでには』も穏やかに語られる。ファンに人気の高い『水の中のグラジオラス』ではアウトロにのせて語られるポエトリーが重要な効果を生んでいる。言葉を生のままビートにぶつけるというやり方が、佐野の音楽の間口を拡張するとともにそこで喚起されるべきものの奥行きをも押し広げていることは明らかだろう。
もっとも、だからといってポエトリー・リーディングが佐野の音楽表現の中心になっていった訳では決してない。先にも述べたとおり、これらはあくまでサイド・プロジェクトであり、オリジナル・アルバムでは佐野は「歌」を歌い続けている。僕は、ポップな音楽表現より難解な実験の方がより「芸術的」であり佐野の表現活動の重要性はむしろポエトリー・リーディングにあるという考え方に与しない。僕にとって佐野はあくまでポップ・スターであり、孤独で寄る辺のない都市の子供たちにサバイバルのためのビートを与えることこそが佐野のなすべきことだと思うからだ。そのビートは単純でなければならないし明快に響かなければならない。あらゆる痛みや悲しみをたたえてさえ、それはハッピーに鳴らされなければならない。
ポエトリー・リーディングの重要性は常にそうした佐野のメイン・ストリームの「歌」との関連の中でこそ語られるべきだと僕は思う。メイン・チャンネルとサブ・チャンネルを自在に往来し、周縁からの実験的な方法論を取り込むことによってメイン・ストリームの表現の活性化を図ること。その意味でポエトリー・リーディングというサイド・プロジェクトは疑いもなく重要だ。
この豊かな伏流水は、その後も「エレクトリック・ガーデン#2」、デビッド・アムラム他とのジョイント・ライブ「Beat-titude」、手塚治虫トリビュート『僕は愚かな人類の子供だった』などを経て、これらのポエトリー・リーディングを集大成した編集版CD「Spoken Words」、鎌倉で2001年に行われたライブ「In Motion」などに結実して行く。これらの活動についてはまた別に触れることになるだろう。


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