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相手を想うこと、カタチにすること【白血病】

 今回は治療の記録ではなく、闘病の中でのひとつの出会いについて記事を書こうと思う。直接的な治療の話ではないが、確実に自分の心が救われている話になる。

▶身にまとうモノによる影響

 自分はこの約2年半、最初の入院を除いて、病院で貸与される『病院着』を着ていない。

 理由は単純、『病は気から』が怖いからだ。この服を身につけると、(実際に既に病気にはなっているのだが)本当に病気になった気になってしまう。なので、最初の入院から帰った後、できる限り地元PRができるTシャツを買ったり譲ってもらったりして、それを着て治療に臨んでいる。


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 おかげさまでいずれのTシャツもかなりクタクタのヨレヨレになっている。この2年半ヘビーローテーションで着続けているから当然と言えばその通りだ。
 だけど、このTシャツのおかげで救われることは少なくない。初見の看護師さんには「何このTシャツ!?」というインパクトで話のきっかけになるし「変なTシャツ着てるやつ」という認識で覚えてもらえるのも早い。
 リハビリで病棟内を歩けばすぐに看護師さんに気づいてもらえるし、最近入手した『最高Tシャツ』に至っては着る度に、「最高」と口からこぼれる方もいる。それだけで自分の周辺にちょっとした笑いというか柔らかい雰囲気が生まれる。

▶届いたメッセージ

 そんな自分のもとに、今年の夏、ひとりの大学生からメッセージが届いた。まったく面識のない方であり、どうやら服飾に関する勉強をされている大学生のようだった。
 内容をかいつまんで説明すると「大学の卒業制作に際して、入院患者に寄り添ったもの、患者さんの心を楽しませられるようなものを作りたい。そのテーマで制作するにあたり、白血病で長期の入院を経験された自分の意見を聞かせてもらいたい」といったものだった。

▷怪しいメッセージ?

 メッセージを読んだ直後は、興味半分、疑い半分だったことを覚えている。正直新しい何かの勧誘メッセージかなとも思った笑
 妻に、このよくわからない大学生に協力してみてもいいか聞いてみた。「いいじゃん面白そう」ふたつ返事である。やはり我が妻、面白そうなことに目がない。いま振り返ると妻自身も裁縫や服飾の分野に興味がある分、普段よりも前のめりだったのかなと思える。

 妻もそんな具合だし、自分自身もモノづくりをする人たちの内面に触れることができる珍しい機会になるかもと興味を持っていた。最悪怪しい人ならSNSだしブロックしてしまえばいいや。くらいの感覚。メッセージを頂いた翌朝にはOKの返事をお返しした。ただし、この時期は移植半年頃、病院を退院してから多少時間が経っている旨も合わせてお伝えした。

 そこからの対応は早く、また丁寧だった。恐らく質問事項はあらかじめ複数人に問うために準備をしていたのだろうが、その文章の前後にこちらへの配慮がうかがえる内容であり、この時点で怪しさというよりはかなり真面目な方だなと感じたことを覚えている。
 自分が同い年の大学生であったならば、同じような配慮をこらした文章は書けないし、そもそも見ず知らずの人にこういった連絡もできないなと。その点この相手方は真剣にこちらの話を聞こうとしているなと感じることができた。

▷質疑応答で『治療』と『ファッション』を振り返る

 頂いた最初の質問は大体以下の通り。

  1. コロナ禍での入院中、面会等で家族に会うこともできない中でその不安や寂しさに負けない支えは何だったのか?

  2. 病院で貸与される一般的な病院着に対してどのような印象だったか?

  3. 入院中にもファッションにより気分を明るくしたりすることはできると思うか?

  4. 入院中にあったらいいな、必要だと思った服類はなにかあったのか?

 質問1はまあこのご時世ではありきたりな質問だったが、2~4は当時の自分はあまり考えたことはなかった。

 自分は元来、ファッションというやつに疎い。自分のスタイルや雰囲気に合わせて服を選んだり、「今持っている服とこう合わせられるな」とかを考えるのが非常に苦手だ。だから夏は大体Tシャツにデニム、冬は着ぶくれするほどとりあえず持ってる服を着こむ。靴なんか一足買ったスニーカーがぶっ壊れるまで履く。壊れたら同じスニーカーを買う。たぶん私服を着る機会が増えた大学生くらいからそんな感じで過ごしている。唯一治療の影響で禿げてしまったので帽子を買う頻度が増えたかな?という感じだ。
 そんな自分でも、この入院を通して、身につけるモノによって気持ちや状況が変わることがあるんだなと身を以て学ぶことができた。
 前述のように自分のファッション感?を振り返ったのもこの質問があってからだと思う。質問2,3については前述のような回答を返した。

 質問4は少し思うところがあった。治療中は基本的に身体が拡張される。腕部や首元から伸びる点滴管(ルート)及びそれを支える各種機材である。一般的な衣類はその拡張を考慮してはいない。例えば腕に点滴を取っていれば長袖を着ることが非常に面倒になる。ゆったりとした服であればまだしも、インナーシャツのようなものは着ることすら難しいし、状況によってはルートを折り曲げて適切な点滴を妨げたり、最悪の場合身体に刺さっている部分を動かし、液漏れなどの事故につながりかねない。夏はさして問題ない。問題は冬場だ。空調が整えられている病院内であっても、寒い時はある。そういった時に暖を取るのに上着が着にくく、苛立った思いがあった。それを解消できるカーディガンのような、さっと羽織れるようなものがあるといいなと思った記憶があったのでその旨を返した。

▷モノを渡す、受け取るということ

 質問4について追加で聞かれた。「そういったものを身近な人が作り、手渡してくることをどう思うか?はたまた、そういった行為は渡す側の自己満足にしかならないと思うか?」
 これは回答に窮した。実際に入院中に「これを渡されてもなぁ…」というモノを受け取った経験があったからだ。そして、自分は悲しいことに、モノを渡されることの少ない人生を歩んできた。逆に何かを渡すのであれば、相手が望むものを確認してからでないと送るようなこともなかった。
 そして、戦地や地震の被災地へ千羽鶴を送ったりすることについて、『もっと有用な、心置きなく消耗できるようなものを送るべきなのでは?』という考えでもあるからだ。
 ただし、渡す側が受け取る側を思い、モノを選び、渡してくれているということもわかる程度には人の気持ちもわかるし、その『自分のことを思って』という部分が、実際に孤独な治療の心の支えになったと思うことも少なくなかった。

 片方に断定するよりも、両方の考え方があると思う旨を答えた。それが実際に自分が思った内容だし、その考え方はその当事者間の人間関係にも影響するだろうから、多少煮え切らない曖昧な表現でも、それが1番自分の心情に近いと思えた。

 上記のような形で答えた際に、「どうして卒業制作をそのようなテーマにしたのか」ということをこちらから聞いてみた。単純な好奇心である。自分は恐らく、自分が病気になっていなければ、自分の身内でもない人が闘病を続けていたとしても、そこに寄り添って何かをしようとは思わなかったと思う。

 この人は、自身が幼い頃、近しい人が白血病で闘病を行っていたことがあり、その時に相手にどのように寄り添い、支えれることができるのかわからなかったそうだ。だからこそあえて、今回の卒業制作ではそのテーマを取り扱いたいと思ったそうだ。

 果たして自分が同じ過去を経験したとして、その過去の悩みに再び相対しようと思えるかと言えば、答えは否だ。自分は、『喉元過ぎれば熱さを忘れる』タイプだ。下手をするとそんな思いをしたことすら忘れ(ようとす)るかもしれない。
 だからこそ、このSNS上で知り合って数日の、顔も知らない大学生に対しては、努めて真摯に、正直に思うことを伝えることが自分にできる最良の行動だと思えた。こうやって何かの縁が生まれたことも、とても嬉しく思えた。

▶具体的なデザインについて

 そこからは、自分が回答にあげたカーディガンを題材?として、どういう部分がどうなっているといいのか?というような具体的なデザイン案について質問を受けた。

 これも正直答えるのに時間がかかった。
 というのも、ファッションに疎すぎて、具体的な名称などがわからず、何と説明すればいいのか、全然わからなかった。自身のファッションに対する知識のなさを少し恨んだ。とはいえ、伝えたいことがないわけではない。なので、ネット上のカーディガンの写真を元に、ここはこうあってほしいとか、自身の点滴の写真を送って、相手方ができるだけ具体的なイメージができるよう情報を伝えた。

 その時の自分の頑張りを忘れないよう、話したデータは残してある。写真だけでなく、ずいぶんな長文を合わせて送って、何とか伝われ!という念を添えた。

▷現在は制作途中

 そのやり取りからしばらくして、相手方からデザインのイメージと、実際に制作途中のカーディガンの画像が送られてきた。
 正直想像以上のものだった。自分の拙すぎる説明をしっかり汲み上げてくれていたうえで、病院外でも違和感なく着れるようなデザインに落とし込んでくれていた。
 改めてイメージを具現化できるモノづくりをされる方のすごさを目の当たりにした。自分にはとてもできそうにない。


 本当はその写真も記事に載せたいところだが、まだまだ制作途中であるうえ、卒業制作のための一点モノなので、そこから個人を特定されてしまう可能性を考慮し、この記事への掲載は行わない
 でも本当は、できれば同じ闘病中の方、経験者の方にも見てもらいたい。きっとかゆいところに手が届く仕様になっているなと納得してもらえると思う。


▶病気になったことによる出会いと経験

 今は11月下旬、自分はこういった学部の卒業までの過程は知らないが、恐らく2月くらいまでには実際のモノを完成させ、発表会?のようなものの中で評価を受けていくことになるんじゃないかと思う。
 できれば、完成した作品を見てみたい。そして、一緒に総評を聞きたいくらいだ。
 実際には自分の意見を好き勝手伝えただけだが、モノづくりの一端に触れることのワクワク感を味わうことができた。病気になる前も水産業に関わる部署におり、生産者さんの現場をうかがうこともあったが、それとはまた別の領域の、育てるのではなく、『ゼロからイチを生み出す』という行程に立ち会ったのは初めてかもしれない。

 そしてその作品には、自分を含めた、闘病中の方の心を少しでも軽く、明るくしたいというこの方の想いが詰まっている。そのような心構えで何かに取り組む人がいるという事実が、現実的な医療以外にも、多くの側面で自分達を支えようとしてくれている存在がいることを認識でき、確かに心の支えの1本となっている。この作品がどんな評価を受け、結末を迎えるのかを見届けるのも、自分が生き残りたいと思う理由のひとつになった。

 過去の記事で「白血病になったことは幸福とは言えない。だけど、それによって得たものもある」と記した気がする。この出会いと経験はまさにそれだ。この立場になってから初めて見聞きした世界だ。ほかの人には中々経験できないことなのだろうと思う。
 きっとこれからも、この立場になったが故の経験を積む機会は多いと思う。2度目の移植治療もそのひとつだ。出来ればまずは、この恐らく最大の大きな経験を、乗り越えたいと思う。

最後までお読みいただき、
ありがとうございました!