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2024.07.31 故郷

自然災害や紛争が起きたら、あなたは故郷を離れるだろうか?

今年の元日に起きた能登半島地震。
自宅から近い学校や公民館などの一次避難所から、市や県を超えて避難することを二次避難という。能登地震の場合、金沢市にあるホテルなどが二次避難所として設置された。だが、被災者全体の18%しか避難をしなかったという(NHK:2024、
「石川 2次避難が進まない 移動できない被災者の事情とは」)。

なぜ避難しないのだろうか。
私は常々疑問を抱いていた。中には移動“できない”人もいたが、自らその選択肢を排除する人がいたのも事実だ。

これは、ウクライナにおいても同じことが言える。
私たちが支援しているウクライナ東部や南部の前線地域の住宅では、爆弾が家を貫通し、壁に穴が空いている。窓が粉々に割れている。真夜中に、警報アラームと同時に爆撃を繰り返す。スーパーは閉まり、食料が底を尽きないよう食べる量を調整せざるを得ない。泣いて怯えながらも、なぜ人々は、その地で生活をし続けるのだろうか。
移動しないことを責めているわけではない。ただ、どんなに想像し心を寄せようとしても、私には理解ができないのだ。

私には故郷と呼べるものがない。言い換えれば、「故郷」が複数ある。
生まれて半年で出生地から移動し、28年の人生の中で11回引っ越しをしてきた。おかげで、「地元」「出身」と呼べる地はない。成人式の時も、行き先がなかった。
遊牧民族のような生活をしてきたため、良くも悪くも移動に抵抗がないのだ。

この日、私は1人の女性をインタビューしていた。
ウクライナ側のプロジェクト・マネージャーで、私の相棒とも言える存在のアネチカ(仮)。2週間に一度オンライン会議で顔を合わせ、メールのやり取りは毎日行っている。だが、遠隔事業だとどうしても彼女の人となりを知る機会はない。一度腹を割って話をしたいと時間を頂戴した。

カールがかかった長いブロンドヘアに、いつものマイク付きヘッドフォン。
低くも高くもない、落ち着いた声。

おしゃべりが好きな彼女は、一聞くと十で返す。
「今自宅?」と聞いただけなのに、気がつけば自ら紛争の話を始めた。

「侵攻が始まって、砲撃が怖くて、自宅のドニプロから西部にあるリヴィウに避難したの。娘と夫と猫を連れて。どれくらい避難生活が続くのか分からない中、とりあえず逃げた。リヴィウでは、支援団体から物資がもらえて、生活を凌いでいた。本当に大きな箱で、赤ちゃん用品とかも入っていたわ。

運よく、当時働いていた民間企業で、私は在宅勤務が許された。だから、リヴィウから仕事して収入を得られ続けた。代わりに夫は家事をしたわ。夏が近づいて、ようやく頭の整理がついた頃、状況は改善していないけど、そろそろドニプロに戻ろうかと夫と話をするようになった。ただ、決意した次の日には攻撃されるのを繰り返した。だから、ようやく戻れたのは11月24日だった。

帰郷した日、84時間の停電があったの。断水も続いていたし、スーパーも何もかも閉まっていた。だけど、私は嬉しかったの。ドニプロに戻って、家族や友人、近所の人に再会できただけで、心から喜んだわ。」

彼女はそういいながら、笑みが溢れた。

「他の人からしたら、大した街ではないと思う。だけど、ドニプロ川があって、公園があって、道があって…。私にはとても美しい街なの。
小さい娘がいるから一概に言えないけど、私はもう2度とこの地を離れない。」

そう言い切ったアネチカの声は、いつにも増して強かった。
どんなに過酷な環境下でも、精神的に“home”と感じる場所に身を置くこと自体が、彼女にとっての幸せなのかもしれないと思った。

自然災害大国の日本。決して遠い国の話でも、他人事でもない。
我々一人一人に問われていると思う。

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