スケルトンダブルが終わって
そんなわけでスケルトンダブル、最終回を迎えました。コンドウ先生お疲れ様です!
コミックス最終巻ではファン待望の海回が収録されるとのこと。これでキリのいい5巻完結40話構成、あの人やこの人の水着姿も見れる……かもしれない!!(海月ちゃんの水着をぜひお願いします)
【透明人間の多様性解釈】
Xの方でちょいと最終回感想を書いたのですが
スケルトンダブルはこのように「透明人間」という概念に多くの意味を持たせて、それを読み解くことによってキャラクターに深みを持たせています。
ざっと私が読み解いた部分だけでも
顔も名前も見えない知らない一般大衆という匿名性
↑の匿名性を悪用し、互いに顔も名前も知らないまま行われる見えざる犯罪(闇バイトを行っている人間は犯罪だという自覚が無い可能性が高い)
いてもいなくてもいい人間だという自己肯定感の低さ(ラモンのスタンス)
悪目立ちするくらいなら透明人間みたいに地味で適度に軽んじられる方が生きるうえでは楽(ヨドミのスタンス)
ここに本編では現実で実際的な透明な暴力が存在する。
でもそれはあくまで表立ったモノで、実際の脅威の本質は『それ』ではない。
【匿名的な一般大衆という透明人間】
最終回はここに絞って、否定と肯定が両方されています。
【透明人間でいたかった男と透明人間になりたくなかった女】
最初にして最後の敵であるラモンは「顔も名前も知らない人間なんてどうでも良い」からその場その場の感情に理屈をつけて暴れた。
彼はそもそも自己肯定感が低く、自分の命を軽んじるからこそ他人をたやすく傷つける人間として描かれています。
世界に絶望して諦めているから、もう失うものなど何も無いやけっぱちのポーズを取っている。
ただ実際のところラモンはカマラを内心弟分として親しみを持っていたり、自殺未遂した自分に寄り添ってくれた先輩を大切に思っていたり、そんな当たり前の優しさを持っていて世界や社会に諦めが付けきれていない。
ラモンの行動を読み解くとわかりますが、第一話でヨドミと相対した時に「罪の無い少年を殺して目的の品を強奪する」より確実な手段があったのに殺しもせず諭して退くという甘くて半端な選択を取っています。
他にもギュゲスの会が本格的に虐殺テロを行うことになった時にはカマラと一緒に抜けようと迂遠に誘っていますし、カマラが拒否したら自分だけ逃げています。
無差別虐殺ができるほど覚悟も目的も定まった人間ではないとも言えますし、それだけ他人を殺すのに抵抗感があるまともな感性を持った常識人とも言えます。
ラモンは『自分のやりたいこと』が無いから大切な人のためにしか動けなかった、矮小だけれど、人として大事な部分をちゃんと持っている人間と言えます。
『自分はいなくてもいい人間=透明人間でいい』。だから他人もどうでもいい人間にしか見えず、その中でいつの間にかどうでもいいと思っていた人が失った時に大切な人だったんだと気づいて後悔する、どこにでもいる凡庸な青年。
※※※
このラモンの対比となるスタンスが主人公のヨドミなんですが、もう一人対比となるキャラクターがギュゲスの会の虐殺テロで大暴れしたトキワコ。
彼女はシリアルキラーであるものの「生き物を殺すのは悪いこと」だと自覚して、後から罪悪感を多少感じる程度に吹っ切れていない半端な殺人鬼です。
本人いわく
であって、その狭間にある瞬間こそが好きなのであって『死』は結果でしかない。
中途半端なのは当然と言えます。生きていることと、生きていないものとの境界線に何かを感じ取ってしまったのだから。
だから正確に言うとシリアルキラーでは無い。
彼女がなぜラモンと対比になるのかというと、このように半端ではあるものの自分のエゴを認めて、それを実行する場に居続けて、やり続けて、最期には
と『透明人間=最初っからいてもいなくてもいい人間で、忘れ去られていく人間』であることに全力で抵抗した女性です。
ラモンのように消えてしまいたい、誰にも省みられなくてもいい、とは完全に正反対。
匿名性に埋没したかった男と、匿名性に抗った女。
【透明人間への怒りの矛先は】
これは本作で透明人間という異能を持ったキャラクターが、大なり小なり描かれています。
主人公であるヨドミは「怪死した父親の遺族」で匿名的な大衆によって父の死の尊厳を好奇と娯楽として踏み躙られ、このまま続いていくと思っていた当たり前の日常を失い、淀んだ怒りを滾らせていた少年。しかし中学生時代に典型的昭和脳だが児童を守る職業意識は確りとした教師に救われて「他人だって個々人様々な事情があって生きている」ことをこの年齢で既に知っている、ギリギリの危険人物
ヒロインである鎧畑は新興宗教に嵌った保護者とその環境から世界を憎んでいたけれど、実際にはその保護者を人質に取られたら吹っ切れなかった程度に甘い少女(当時)。そんな彼女を歴戦と復讐の戦士へと変えたのは、何もかもどうでもよくなった時期に読んだ、何もかもどうでもよくなって自殺した人物の凡庸な遺書
自分が社会に必要ではないと絶望して自殺したものの失敗し、寄り添ってくれた先輩のためだけに不器用に生きようとしていたラモンは、先輩を失ってから彼女の足跡を追い、そのためならば平気で他人を殺傷できる危険な青年。だがその危険な行動力と他人を思いやれる心は主人公のヨドミに匹敵する
メインキャラに絞るとこんな感じですが、
敵であるギュゲスの会のメンバーは概ね
「自分を理解してくれなかった、助けが必要だった時に手を差し伸べてくれなかった社会や大衆に対してわだかまりを抱いている」
味方となった対策室のメンバーは概ね
「社会や常識から逸脱していることは自覚しているけれど、それでもエゴのため、職業意識として、個々人それぞれの理由で戦っている。大衆を守るために戦っている人物は少ない」
こんな感じで、誰しもが匿名的な大衆=透明人間に対して良い感情を抱いているわけではない。
対策室のメンバーたちは社会や大衆なんてマクロなものじゃなくて、目の前にある確かなものを守るために戦うことを決めたら、結果的に社会を守る立場にあるだけ、と言えます。
そして本作のラストは「誰しもが匿名的大衆であり、スケルトンとなって匿名的大衆に復讐できる機会が得られる社会」が訪れ、その中で日常に埋没しながら日常を守っていくことで締められています。
そんな中で最終回では少ないながらも対策室のメンバーが増えており、誰しもが他人を傷つける道を選ぶわけではない、とさりげなく描かれています。
決して希望ばかりあるラストではありませんが、だからこそ誰もがヴィランにもヒーローにもなり得る、透明人間であるというオチは本作の中で描かれてきたテーマの落とし所として見事な着地点でした。
【もし、連載が続いていたら?】
本作は「そもそもスケルトンを生み出す貝やL.B.Vとはなんなのか?」という部分は答えを出さず完結しています。
あくまで舞台装置の一つとして始終させました。そこはテーマではないから別に触れなくてもいいのは事実。
ただ、もしもっと連載が続いていたらこれらの設定が開示され、L.B.Vとの戦いやスケルトンを通常人に戻す手段の模索なども行われたかもしれません。
そのうえで、最終回での多々良の台詞や金床スズの台詞などから、ちょっと見えてくるものがあります。
【この世界では太古から透明人間もL.B.Vもいた説】
これは金床さんの仮説です。
神話時代どころか人類以前の時代から『貝』は居た……かもしれない(そのあたりの地層から発掘されるので)。
ともあれ「スケルトンという超能力者」を政府が秘密裏に取り締まり、多くの人間をスケルトン化する技術の研究が始まったのがここ数十年くらいの話であって、それ以前は偶発的か一部で秘匿的にスケルトン化する技術が伝承されていたとしても不思議ではない。
ギリシャ神話ではハデスの冠を被ると透明化し、天狗の隠れ蓑を被ると見えなくなり、ニンジャはいつだってマッポーの世で闇から闇へとブッ殺した!していた。
そういう仮説です。
つまりスケルトンという異能力、あるいは技術は隠されて独占されていたのが人類史である、と。
【隠匿されていた独占技術の暴露と解放】
だとすれば、多々良が起ち上げたギュゲスの会の目的である「全人類スケルトン化計画」とは、今までの人類史で一部の人間が独占していたスケルトンという超能力を、暴き立てて「見えないものを見えるようにする」ことだったとも解釈できてしまいます。
皮肉なことにこれは主人公であるヨドミの目的と一致しており、ヨドミは「自分の父親が死んだ真相、それを秘匿していた政府の意向、全部暴き立てて大衆に裁かれろ」なんて危険な目的で、本作の戦いに身を投じていました。
実際にそれが叶った時、それほど社会は揺るぎもしなかったのですが。
※※※
ともあれ、本作の黒幕であった多々良の目的は仮説に伴った大きな視点で見ると一部の特権人物や階級のみが独占していた技術を全ての人間に与える、そこだけ切り取れば『善』と言えるモノだったりします。
まぁ実際のところ、多々良の設定が開示されたことで彼は世界大戦を目の当たりにしたことで、社会や国、人間の理性なんてものはあっさりと崩壊するのだ、という経験上から人類の善性を信用しておらず、悪意で以て秘匿技術をばら撒くのが目的だったと言えます。
「全人類スケルトン化によってもたらされる恩恵の大きさ」も方便や錦の御旗ではなく、たぶん本気なのでしょうが。
多々良の年齢を考えると、関東大震災で焦土と化した東京が復興し、そして第二次世界大戦の空襲で再び焦土と化したのにまたもや復興した様を目の当たりにしてきたことから「人間なんて生き物は災禍や戦禍からあっさり立ち直れる。むしろ破壊することで以前より良い社会を築き上げられる」なんて信念が見えます。
同時に、戦時下の大本営発表のバカバカしさも知っていたでしょうし。
劇中では詳細を描かれませんでしたが、設定を掘り下げると多々良は隠蔽されたモノを暴き立て、大衆に権利を委ねることに強い執着心を持っているであろうバックボーンが見えてくるんですよね。
※※※
繰り返しますがこれはヨドミも多々良もほとんど同じ目的です。
ただ、大正生まれの多々良と平成生まれのヨドミでは「大衆に権利を委ねる」ことの考え方が全く違います。
多々良は上記のように、大衆が結束して動き出した時のパワーをよく知っています。
一方でSNSが発展した平成っ子のヨドミにとって大衆とは、物陰からひそひそと陰険に尊厳を踏みにじり、同時に彼らも尊厳ある個人であるという認識。
動乱の時代が訪れたならば、確かに多々良の(私の妄想した)持論は正しい。
でも平穏の時代であれば、人間は理性を選べるだけの余裕がちゃんとある。
重ねて書きますが、本作はそのどちらに傾くのかは不明です。
【総じて】
スケルトンダブルは「隠されているもの」とどう向き合うか、がテーマだったと私は受け止めています。
最近気づいたんですが、私の好きな作品は「心」というものに真摯に向き合った作品が多い(記事書いてませんが「SHY」や「HEART GEAR」も好きです)。
「心」は他人には見えないし読めない。隠そうとせずとも、開示しても、それが真実なんて他人にはわからない。常に疑いの余地がある。
この「心」と「隠されているものを解き明かす」ってのがもう上手く嚙み合ったわけですね。
Xでも書いてますが、本当にスケルトンダブルはタイトル通りに色々な意味が多重構造的に隠されて、それを解き明かすのが面白い作品でした。
(たぶん)打ち切りだったのでしょうが、あえて謎は謎のまま、いくらでも解き明かし続けられるラストだったのは、良かったんじゃないでしょうか。
いずれにせよこれだけの作品をデビュー作で世に送り出したコンドウ十画先生の次作を、テンプレではなく本気で期待しています。
水着もな!!!!!!!
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