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仕事を辞めたい私たち

「仕事を、やめさせてください。」
そんなことを言ったら、家族はどんな反応をするだろうか。

2年前の6月に、今の仕事を始めた。
一度も、楽しいと思ったことはない。
別に嫌な人がいるわけじゃない。みんな優しかった。
待遇が気に入らないわけじゃない。
好きに休ませてくれたし、残業だってあればちゃんと申請させてくれた。
むしろ、職場環境としては最高。


ただ


なんだろう、自分の心が死んでいくのがわかる。
楽しくない、やりがいも感じられないことに時間をそそいでいく日々。
あれ、私って、なんのために生きてるんだっけ。
追い詰められてるわけでも、嫌がらせをされているわけでもないのに
そう思う。


学生の期間が長かったからかな。
結局、7年くらい大学生をしていた。
遊び呆けていたわけじゃない。
意義を見いだせなくなって、進みたい方向がわからなくて
足踏みしてしまった。

今回も、そういうことかな。
足踏み期間なのかもって思ったから
2年間もやめずにいれた。
厳密には、1年と10ヶ月。


絶対に飛躍してみせるって
私にはできるって
信じて疑わなかった。
というか、そう信じることでしか
やり過ごせない日々。
休日は、友達と遊んだ。
平日は、家で家族と過ごした。
空いた時間に新しい趣味も見つけた。
けど、満たされなかった。
私が犠牲にしなきゃいけない週40時間という時間は
あまりにも長すぎた。


ちょうど一年前、転職活動をした。
全然違う業界にいきたくて、頑張って内定ももらえた。
直属の上司に打ち明けた。
「本当にやりたいなら応援するけど、きっと今と同じ壁にぶつかるだけだと思うよ」
母にも、同じことを言われた。
認めたくなかったけど、現状からの「逃げ」が少し混ざっていたから
結局納得してしまった。
「もう少し続けてみるか」
そこから今に至る。

あそこで転職しておけばよかったな、とは全然思わない。
ここまで続けてこなかったら、わからなかったことがいっぱいあった。
この仕事はこうやって成り立っているのか、って
少しばかりだけど実感できた。
言われるだけで理解できてなかった事柄が
線でつながった瞬間だってあった。

だから、やめたいわけじゃない。
全然やめたくない、本当は。
でも、心が悲鳴をあげた。
休日なのに、涙が止まらなくなった。
そういえば、前にも同じことが起きたな。
職場のトイレで涙が止まらなくなって、
隣の席の先輩が様子見に来てくれて
話を聞いてくれて。
あのときはなんとか繋ぎ止められたけど、
今回はだめだったなぁ。


仕事をやめるって、本当に嫌だ。
アルバイトでさえあんましちゃんとやめれた記憶がない。
毎日顔を合わせていた人たちに、
個人的な理由でさよならを突きつけるのは辛い。
しかも、きっとわかってもらえない。
どんなに丁寧に説明したって、
人間関係も職場環境も良好って、じゃあなんで辞めるの?
って、絶対なるよね。
私だって、言われる側だったら、なるかもしれない。

ずるいけど、
それじゃあ仕方ないねって、
みんなから思ってもらえるような
あわよくば後押ししてもらえるような正当な理由がほしい。
味方になってくれると思える人間関係を
この2年で構築できなかったのも悔しい。

結局は、悔しいに尽きるかもしれない。
せっかく今まで頑張ってきたのに
何にも繋がらなかった。
いつかは絶対
あの時があったから
って思えるようになるだろうけど
今は思えないから
絶望。

弱い自分を認めて
ふがいない自分も認めて
負けを宣言しているようですごく嫌だ。
でも、これ以上自分を殺して生きていたくない。
これも事実。
辞めても地獄
辞めなくても地獄
どっちもしんどいんだったら
少しでも希望がある方に進んだらいいか。
こんなにちゃんと自分の人生に向き合ったのって
初めてかもしれない。


今までお世話になった人たちに
何もお返しできないまま辞めるのは本当に心苦しいけど
これから先の人生で
お返しできるように真摯に生きていけばいいかな。
そう思えるようになったってことは
心が少し元気になった証拠かな。

みなさんは、心のバロメーターってありますか?
悲しいニュース番組を見たときに、どこまで被害者に感情移入するかで
その日の元気度がわかるって言ってた人がいたけど
私は、小説とか映画とか、
ほんとは大好きなはずのものが全く入ってこなくなったときに
いよいよやばいと判断できました。
土日にどんなに太陽を浴びせても
その他の大半の時間日陰に置いておいたら
枯れてしまう植物のようです。

仕事をやめる やめない問題って
結構深刻だし、今の時代多くの社会人が考えることだと思います。
シンプルに、お金を稼がないと生きていけない。
だから嫌いな仕事もやるしかなくて頑張る。
その結果今がある人って、多いのかもしれない。
その点でいうと、私は多分贅沢で
何不自由ない暮らしをさせてくれた親がいたから
飢えに鈍感で
それが今の私のメンタルの弱さに通じているのだとしたら
裕福の弊害とも言えるわけで
でもさ、どうしたって、これが私なんだよ。
金銭的とか、環境とか、誰から見ても可哀想な人たちって
同情してもらえて
かたや私のように恵まれた人の日々の不幸って
誰からもわかってもらえなくて


でもさ


貧乏な人が不幸とは限らないし
裕福な人が幸せとも限らない
私は私だけの不幸を主張したい
誰からもわかってもらえなくても
こういうことで苦しむ人がいることをただここに記したい。


みんながそれぞれの不幸とか、
戦っている相手とか、
逆に愛したい相手とかを
そのまま宣言できる世界が、
多様性を尊重できるってことなんじゃないかな。

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