長屋に鳴る鬼 明治幻想奇譚 第七話 鬼の中身
俺と土御門はチリンと涼しい風鈴に釣られて夜鷹蕎麦の屋台で蕎麦を啜っていた。
時刻は未だ暁七つで、夜明けにはまだ間がある。つまりさっきの一番鶏は土御門の声真似らしい。なんだかヤバそうな気配があったから鶏を真似てみたそうな。
「外にいたなら入って来ればいいだろう。薄情な」
「駄目ですよ。私はそれに嫌われているようで、出てこなくなるんですよ。山菱君に頼む前に何日か泊まり込んでみたんですが、うんともすんとも言いませんでした」
「ふうん?」
「せっかく山菱君に釣られて出てきてるのに私が入って引っ込んでしまえば意味がない」
その表情は、さも残念そうだ。嘘というわけではないらしい。
「俺のその、化け物を集める体質ってやつか?」
ええその通り、と土御門は箸を止めて、本当に自覚がないんですねぇ、と俺を不思議そうに眺める。
自覚。そんなもんは特にねぇよ。化け物なんざ見たこたねぇ。まあ、運は悪いような気はするがな。博打ではいつも負けてばかりだ。
「それで何か見えたんです?」
「鬼だよ、鬼」
「へぇ、鬼。どうして鬼が」
「どうして? なんでいるかなんてしらねぇよ。なんで鬼が」
そこまで言ってふと気づく。
鬼といえば地獄の獄卒、あるいは普通は人里離れた山にいるもんじゃぁねぇのかな。こんな人だらけの長屋に鬼が出るなんて、そんな話はとんと聞かねぇ。
それにあの鬼はあんなところで何をしていたんだ? 鬼というものは人を取って食うものだろう? 結界が俺を守って近寄れねぇなら、とっとと別の奴を襲いにいきゃあいいじゃねえか。
考えれば考えるほど、よくわからねぇ。
なんで鬼が長屋に?
「それでこれからどうしましょうか」
「どうしましょうかってお前」
「そうですねぇ。山菱君、それは本当に『鬼』でしたか?」
「……本当に?」
「たとえば角や牙はありました?」
そういえば角はあったかな。よくわからない。
俺はなんとなく鬼のように思ったが、正直なところ、本当に鬼かと問われても断言はできない。俺は鬼なんぞこれまで見たことがないからな。どんな特徴を兼ね備えていれば鬼と言えるんだ?
「鬼って何だ?」
「さて、鬼は鬼でしょう。もともとは陰とか隠が転じて鬼になったとかが定説で、はっきりとしないもの、よくわからぬものというのではないでしょうか」
「なんだそれは。さっぱりわからねぇじゃねえか」
「そうですねぇ、さっぱりわからないのです。鬼って本当に何なんでしょうね。人を襲うこともあれば人を助けることもある。神様のように祀られているものも、人から転じて鬼となるものもいる」
それは、そうだな。
鬼はだいたい悪いやつだが、中にはいい鬼の話も聞く。鬼神という言葉もあるし、能の鉄輪では丑の刻参りをした女が鬼神となるのだ。
「山菱君はどうしてそれを鬼と思ったのでしょう」
「そらぁ、でかくて、それから」
「居留区に行けば大きな姿の外国の方はたくさんおられます」
「は?」
「そうですねぇ、例えば三才図会という明の百科事典では、長人というものが載っています。東方のどこかの島に住んでいてその身の丈は9~12メートルもあるそうですよ?」
9メートルだと? そんなものはいるはずがない。いるはずがない、のだろうか。けれども俺は東京に引っ越してきて居留区を見るまでは2メートルの人間がいるなんて思いもしていなかった。この日の本の人間としてはでかいはずの俺より、さらに30センチも高いのだ。
すると土御門は愉快そうにころころと笑う。
「山菱君は顔がいかついのに、信じやすいのですねぇ。そんなに大きな人間がいるわけないじゃないですか」
「おい、ちょっと待て」
「それじゃぁまるで見上入道や高坊主、つまり妖ですよ」
「妖……? 今は鬼の話をしてたんじゃないのか?」
「鬼は異人だという説もあるのです」
何がなんだかよくわからなくなってきた。
妖怪、鬼、異人?
居留区の辺りで普通に異人は歩いている。そもそもあれらの異人は妖怪なのか?
そんな、馬鹿な?
「まぁ、あの居留区や銀座あたりにたくさんいる異人はきちんと人ですよ。私たちと、そりゃぁ色や形は少し違うかもしれないですが、同じものを食べることができますし、意思疎通が可能です」
「お前は今、何の話をしてるんだ」
「もちろん、鬼の話ですよ。鬼というのはね、結局よくわからないものなのです。理解の出来ない人たち。それ自体が、まあ多少姿は異なっているかもしれませんが。理解できれば恐らく鬼ではなくなるのです」
鬼、理解ができないもの。
理解ができれば鬼ではなくなる。
土御門がいうには鬼の初出は日本書紀の欽明天皇5年らしい。その12月、佐渡ヶ島に粛慎人人が渡来したとあるそうだ。
越の国から報告があった
佐渡ヶ島の北の御名部海岸に粛慎人がおり
船に乗ってとどまっている
春夏に魚を取り、食べて暮らしている
その島の人は人ではあらず
鬼魅と言われあえてこれに近づかない
「それは普通に、人じゃねぇのか」
「そうですよね。この後に近くの村が略奪されるのですが、粛慎人の仕業だろうということになります。その結果、粛慎人は生活の厳しいところに追いやられて約半数が亡くなります」
「そりゃぁ、なんつうか、気の毒だな」
「でもまぁ、最近もこの国全体で似たようなことがありましたよね」
土御門が何気ないように述べる御一新は、俺の生活というものを根本から変えたのだ。そしてこの日の本の多くの人間の生活をも。
「人というものはよくわからないものは排除しようとするのです。あるいは、この日の本という国は少し妙なところがある。古来より奇妙を取り込んで積極的にそれを自らのものとするのです。取り込んでしまえばそれはもう恐ろしい鬼ではなく、人。それではいつまでもわからないものは何だと思いますか?」
いつまでもわからないもの?
そんなものはいくらでもあるだろう。だが、例えば、そうだ。そもそも俺が長屋でみた鬼。あれが何だか俺にはわからない。土御門が言うようによくわからないものこそが鬼だというのであれば、俺があの長屋でみたものは正しく鬼、なのだろう、か。
「では、それは宿題です。1つアドバイスを差し上げましょう。そうですね、私は最初この家にいるのは妖、妖怪だと思っていました。何故なら山菱君の話では、聞こえる音は全て建物の敷地内。怪異は家の内側にしか発生していないのです。私も外から見ている範囲では、物理的な異常は感じませんでした」
「妖怪だと建物の内側にしか発生しないものなのか?」
「いいえ。妖怪というものは大体においてその種別によって、存在をそうアレカシと自ら規定しているのです。首が長いからろくろっ首、ではなく、ろくろっ首だから首が長い。人を襲う老女だから鬼婆なのではなく、鬼婆だから老女であって人を襲うのです」
「わからん」
「それでね、私が感じたこの妖怪は家鳴。家をざわめかせる妖怪です。それで次は家のどこが一番振動しているか、探してみて下さい」
ふとざわつきに目を上げると、空は薄っすらと白み、夜が駆逐されていくところだった。
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