長屋に鳴る鬼 明治幻想奇譚 第八話 井戸端の噂
家鳴。それは俺も聞いたことがある。鳴屋とも言う。
だがこれは土御門がいうところでは、家を鳴らせるか屋敷を鳴らせるかの違いらしい。そして家鳴とは家や道具から原因もなく音がして揺れる現象、だ。
しかし家というものはそもそも軋むものである。これが異人の暮らすどしりとした石の家であれば異なるのかも知れぬが、木というものは水分を含んで膨らみ抜けて縮み、その際に収縮してパキリと音が出るものだ。そして強風が吹けば家だって揺れはするだろう。
『妖怪』の家鳴は小さな小鬼の姿をしている。それが大勢で寄ってたかって家を鳴らす。そのようなイメエジだ。けれどもそのイメエジは近年のもので、安永5年に刊行された鳥山石燕の画図百鬼夜行で出来たもの。それ以前は普通の鬼のような姿で描かれていた、らしい。
「石燕以前の家鳴は、大きく描かれるものが多かったのです。鍾馗のように、ね」
鍾馗といえば疱瘡除けや学業成就に有名だが、その姿はまさに鬼。嘉永6年刊行の狂歌百鬼夜行でも、家鳴の姿はそのように描かれているらしい。
ともあれ俺が昨夜見たあの巨大な鬼、のようなものも家鳴の姿、なのだろうか。
そう思った5日目は、夕刻には長屋の木戸をくぐった。
未だ明るい時分、長屋の井戸には何人かの人だかりができていた。七輪を持ち出して夕餉用の煮炊きをしているらしい。その中で見知った顔がある。
「あぁ、お前さん、一昨日はすまなかったねぇ。あの後、みんな少しばかり引っ越しちゃったって聞いてさぁ。あたしゃ驚いちゃったよう」
「先日の。私もあの後大家さんから聞いたんです。それで私は引っ越したばかりで申し訳ねぇってことで、誰もいなくなった間に異常がないか確認してくれって大家さんに頼まれまして」
「へぇ」
一昨日の朝に話をした住人と土御門と打ち合わせた文言を口に出すと怪訝な顔をされた。
「ねぇお前さん。あんたこの長屋の噂知ってて入ってきたんだよね、なにせあの部屋に住んでるわけだしさぁ」
「え、この兄さんあの部屋に住んでるの?」
「あ、はい。その、丁度真ん中の部屋に」
急にざわつく井戸端。
「ねぇねぇお兄さん、本当に『出る』のかい? あの部屋」
「ねぇ、お小夜ちゃん。昨日の夜、この井戸のところでそりゃぁもう綺麗な鬼を見たっていう話をしてたよねぇ」
それは多分土御門のことなんだろうな、と思いつつ、話は俺を放ってどんどんと進む。どうやらこのお小夜ちゃんというのは霊感というものがあるらしく、前々からこの俺が間借りしてる長屋に異変があると感じていたらしい。まあ、昨日の夜の鬼とやらは幽霊ではなく生きてる人間なわけだが、でも土御門は生きてる人間の感じはしねぇな。よくわからねえもの、鬼。
まさか。あの優男が?
「それで幽霊は出るんですかっ?」
「ええとその、幽霊っつか、夜になるとなんだか家が揺れます」
お小夜ちゃんは、期待半分、期待外れ半分を顔に浮かべた。
「家が? そういやお前さん、地震があったかとも言っていたねぇ。へぇ、寝ぼけてたわけじゃないんだ」
「ええ、まぁ、本当に揺れたと感じたんです」
「お小夜ちゃん、あんた感じたかい?」
「いえ、揺れまでは。でも前の前に住んでた人と仲良かったんで、色々聞いたんですぅ」
よくよく聞いてみると、以前は左官の夫婦が住んでいたらしい。それで道具やらが夜中にガタガタと揺れだすようになり、そのうちに部屋全体が揺れだして気味が悪くなって引っ越したそうな。
その時、他の部屋ではその揺れを感じていなかったようだ。けれども揺れを感じるのは、必ずしも俺が今泊まっている部屋だけではないらしい。隣の部屋も以前は同じように揺れを感じる夫婦が住んでいて、その夫婦はずっと揺れを感じるだけだった。しばらく住んだ後に他に移っていったらしい。
そうすると何か妙だ。
他の住人は音や揺れまでしか認識していないのか。それじゃあ俺が見たあの鬼のような存在は何なのだ。
家鳴?
いや、それよりも気になったこと。昨夜話かけた奥方は年の功30ほど、お小夜ちゃんは20歳すぎくらいに見える。
「お二人は銀座大火より前からここに住んでらっしゃるんです?」
「お小夜は結婚して日本橋の方から越してきたけど、私ゃずっとここだねぇ」
「大火の前後で居留区の子どもがいなくなったそうなのですが、それについて何かご存知ありませんか」
釣瓶が落ちるがごとく日が陰り、急に冷たい風が吹いた。
「お熊さん、それって」
「これ、お小夜」
二人は困惑したかのように顔を見合わせた。何かを隠しているというよりは、どうしたものだか判断がつかないような顔。
「10歳くらいの子どもなんですが、行方がわかれば探すように頼まれていまして。もう5年も前になるのですが」
少しの沈黙の後、お熊がようやく口を開く。
「ううん、私も焼け出されたんだよぉ。あっという間に火が広がってね、私以外の家族は今もどこにいるんだかわかんないんだよ」
「それは……ご愁傷様です」
「いや、今はそれなりに暮らしてっから別にいいんだけどさ。その時にちょっとした噂になったんだよ、その異人の子どもが」
噂。どんな噂なんだろう。
土御門は全く行方が知れないとしか言わなかった。隠しているのか、いや本命は子供探しのはずだ。隠す理由はないだろう。
「そうだねぇ。お兄さんいい人そうだからなぁ。これは秘密ってことになってるんだけどね」
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