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『恐竜ガーティ』論 アニメーションの他者性

0.従来の『恐竜ガーティ』評価

『恐竜ガーティ』(1914)はアニメーション映画黎明期におけるアメリカの作品であり、アニメーション映画の先駆的な仕事をしたウィンザー・マッケイの代表的な作品である。
例えばアニメーション研究者であるポール・ウェルズは『恐竜ガーティ』について、マッケイがガーティのアニメーションと対話し、最終的にマッケイがガーティの背中に乗って映画の中に入っていくことを説明しつつ、以下のように評価している。

マッケイは、ガーティが彼の実況に対応しているような錯覚を持続させ、その行動を同期させることで映画を終了させた。そして、彼自身がステージから出て行く間、ガーティがマッケイを持ち上げるように見えるようにした。マッケイは映画に入り込むかのような様子を見せた。それはこのメディア初期におけるアニメーションと実写映画の間の継続的な対話の一例となる。まるで初期のアニメーターたちは、映画上で「現実」を表現する限界を常に露呈し、映画の形式と特にアニメーションの形式において「幻想」の領域を主張したかのようだ。…(中略)
これは初期の作品に対してあまりにも大げさな主張に思えるかもしれないが…(中略)それらはすべて真の動きの原理によって特徴付けられており、その結果、生物自体への信じる力だけでなく、メディアの能力も高まっている。マッケイのアニメーション映画は、明らかに技術的および芸術的なレベルでアニメーションの発展を表しており、コミックストリップの形式のコードと慣習を自覚的に利用し、明らかに超現実的な要素を現実世界の条件と巧みに結びつけている。

ポール・ウェルズ『Understanding Animation』(1998)P16/拙訳

ウェルズ自身が「大袈裟な評価に思えるかもしれないが」と注釈をつけるほどマッケイのアニメーションを評価していることについて、筆者は深く共感する。たしかにそれほどまでに『恐竜ガーティ』は感動的な作品である。

しかし、筆者は結論のレベルにおいてはウェルズに深く共感しつつも、その高い評価の前提としてウェルズによる『恐竜ガーティ』の分析には、不十分、不適切な部分があると考える。それは、「ガーティ」というキャラクターについて、「擬人化(anthropomorphism)」という言葉を用いて以下のように評価している点である。

マッケイがアニメーション形式に最も重要な貢献をしたのは、彼が「恐竜ガーティ」(1914)の創造を通して、キャラクターアニメーションを発展させたことだ。遊び心のある恐竜ガーティは、映画の中でマンモスを湖に投げ込む様子を喜び、明らかに態度を示している。この擬人化(生物に人間の態度、能力、質を与えること)は、後にウォルト・ディズニーの作品に影響を与え…

ポール・ウェルズ『Understanding Animation』(1988)P15/拙訳

ポール・ウェルズはこのように、マッケイの作り出した「恐竜ガーティ」は擬人化(anthropomorphism)であり、人間では無い恐竜を人間のように表現したと理解している。たしかに「ガーティ」は『ジュラシック・パーク』に登場するティラノサウルスのようなリアリズム的な恐竜の表現ではないかもしれない。ネズミを「ミッキーマウス」として作り上げるディズニーキャラクターのような擬人化表現に思えるかもしれない。しかし、「ガーティ」からほとばしるこの感動的な生命力は本当に擬人化によるものだろうか。筆者は「ガーティ」に対して、ミッキーマウスの持つ愛くるしいキャラクター性とは全く異なる、それ自体の持つ生々しい生きる力のようなものを感じる。

本論では、『恐竜ガーティ』においてマッケイはウェルズの言うような擬人化だけでは片づけられない複雑な表現を達成しているという論を主張していく。そしてそれを前提として考えたとき、ウェルズも評価しているアニメーション、実写映画、上演の横断的表現によって何が起きているのかを考える。それが『恐竜ガーティ』がなぜここまで感動的なのか、を考えることである。

本論の構成としては以下のような形をとる。

1.   調教師と動物
『恐竜ガーティ』の内容面について、「調教師と動物」という関係性で捉えて分析する
2アニメーターとアニメーション
『恐竜ガーティ』の形式面について、1で分析した「調教師と動物」という内容が「アニメーターとアニメーション」という表現形式上の関係性の問題と交わることについて考察する
3 ウィンザー・マッケイとガーティ
『恐竜ガーティ』において、ウィンザー・マッケイとガーティの関係を考える

1.調教師と動物

『恐竜ガーティ』は、調教師と動物の物語である。「ガーティ」には二つのヴァージョンが存在すると知られている。最初のヴァージョンでマッケイは、スクリーン上に投影されるガーティという名前の恐竜のアニメーションと共にヴォードヴィルの舞台上に出演した。
残念ながらその上演そのものは映像として残っていないが、後にウォルト・ディズニーが1955年に制作した再現映像があるので以下に紹介する。
(ウォルト・ディズニーは12歳のときに『恐竜ガーティ』を見て衝撃を受けたという)

このように、『恐竜ガーティ』は舞台上に現実に存在するマッケイ自身が調教師として振舞い、アニメーションの恐竜ガーティに指示を出して芸を演じさせるという演劇的な見世物だったのだ。
そして、現存する映画のヴァージョンも、実写映画の中でマッケイ自身がアニメーションのガーティと対話するような形式になっている。

ところで、実際の調教師ー動物の関係性で演じられるショーにおいて、観客が楽しんでいるものはなんだろうか。例として猿回しを考えてみよう。

調教師が猿にお辞儀をするよう指示を出す。猿はまるで人間のようにお辞儀をする。そこに観客は目の前の動物の芸に知性を見出し、感心する。しかし、一方で猿回しの猿が調教師の言うことを聞かない場面も観客はまた楽しむ。さっきまで賢く調教師の指示に従っていた猿が、気まぐれで座り込んで猿そのものに戻ってしまう。賢く見えてもやっぱりこいつは猿なのだな、そう思い観客は笑う。猿が人間に従って芸を演じているように見える一方で、今にも野性の動物に戻ってしまうかもしれないようにも見えるその緊張感に満ちている。調教師の方に目を向ければ、巧みに猿を飼いならして操る芸の巧みさと、もう一方で猿の気まぐれに振り回されてまるで主従が反転してしまったかのようなおかしさとの間を行ったり来たりする。

このようにして、舞台に立つ動物を調教師が制御できたり制御できなかったりするその揺らぎ、両者の関係性のあいまいさを楽しむのが、調教師と動物のショーの楽しみ方と言えるだろう。調教師と動物が演じるショーとは、知性と野性の間の宙吊り感覚なのだ。

『恐竜ガーティ』においてもその構造が丁寧に再現される。

”Come out Gertie, and make a pretty bow”とマッケイに呼ばれたガーティが画面の奥からのしのしとやってくる(知性)

しかし、やってきたガーティはそこに生えていた木を丸のみしたかと思うとその場でのそのそと足踏みを繰り返す(野性)

そんなガーティを見てマッケイは、”Aw, stop that!!”と指示し、ガーティは従う(知性)

さらに、”Be, a good girl and bow to the audience.”という指示にもガーティは従い、三方向に二度ずつお辞儀をする(知性)

続いて右足をあげるように指示されたガーティは何度か足踏みした後、見事右足をあげて見せる。(知性)

しかし、今度は左足をあげるように指示されたガーティは巨大な海蛇に気を取られたり、右足をあげてしまったりして指示を守ることができない。(野性)

こんな風にして、ガーティはマッケイの指示に従って芸を見せる知性と、マッケイの指示を守れず動物的に動いてしまう野性の間を行ったり来たりする。片方の足をあげるよう指示されたガーティがのそのそとその場で足踏みする時間は、ガーティが次の瞬間知性に転ぶのか、野性に転ぶのか不安定な状態にあることを楽しむ宙づり感覚に満ちている。

そのような知性と野性の狭間にあるガーティは、ウェルズの言うような単純な「擬人化」と言えるだろうか。「擬人化」とは例えば「猿」を「知性を持っている」かのように見せよう/見ようとすることだろう。しかし、実際の猿回しに登場する猿は擬人化されたものであるように見えて、本性としては野性を備え、常に人間的な意味での知性からの逸脱を予感させる不安定な存在として舞台に立っている。

ガーティもそれと同じである。ガーティを「擬人化」しようと指示を出すマッケイに対して、それに応えたり応えなかったりするガーティは、擬人化されつつ、そこから逸脱しつつあるサスペンスフルな存在である。ガーティは単に擬人化された無害な恐竜ではなく、知性と野性の間を行ったり来たりする「動物」なのだ。

だからこそガーティには、ミッキーマウスのような擬人化されきったキャラクターが決して持ち得ない生々しい生命力に満ちているのである。

2. アニメーターとアニメーション

前節で『恐竜ガーティ』が調教師と動物の関係性の表現であることを根拠に「ガーティ」が擬人化にとどまらない生々しい生命力に満ちたキャラクターであることを述べた。今節ではそれを前提にし、アニメーションとしてのガーティとそれを作り出したアニメーターとしてのウィンザー・マッケイの関係性について考えていきたい。

『恐竜ガーティ』では、調教師と動物の関係が、アニメーターであるマッケイとアニメーションであるガーティによって再現される。では、調教師-動物の関係が、アニメーター-アニメーションの関係で再現されるとはどういうことなのだろうか。

一見、その二つの関係性はあまり重ならないように思える。アニメーターとはアニメーションを作る人であり、調教師は動物を調教する人である。前節で見たように調教師は動物を制御できたりできなかったりする。しかし、アニメーターはそうではないように思える。アニメーターが作ったようにアニメーションは動くからだ。

例えばアニメーター・マッケイにとってガーティに左足を上げさせることは容易なはずだ。そのようにアニメーションを作れば良いからだ。しかし、マッケイはガーティが時に指示通り足を上げ、時に指示を破ってしまうようにアニメーションを作った。そして、舞台上や映画の中で自ら調教師役を演じ、ガーティに指示を出し、それに従ったり従わなかったりするガーティを観客に見せた。ガーティが指示通りに足を上げられないのはマッケイがそのようにアニメーションを作ったからであり、本物の調教師-動物の関係のようにガーティに野性が現れたからではない。

ガーティが指示を聞けず、マッケイ-ガーティの関係がまるで本物の調教師-動物の関係に思えるのは、身も蓋も無いことを言ってしまえば、全てはマッケイの孤独な自作自演なのだ。

しかし、このマッケイの孤独な自作自演にこそ『恐竜ガーティ』の感動がある。マッケイはアニメーターとしてガーティというアニメーションを生み出した。それは原理的には制御-被制御の関係性のはずであった。しかし、マッケイはアニメーションに動物の持つ知性と野性の揺らぎを表現させた。マッケイ自身の身体と、自ら作りだしたアニメーションの身体を使って、調教師-動物の関係性を演じた。それによってアニメーター-アニメーションの関係性は、単なる制御-被制御の支配関係から解き放たれ、調教師-動物、人間-動物、自己-他者の関係性に到達しているのである。

ウィンザー・マッケイにとってアニメーションは、アニメーターの思い通りに制御できるものではなく、原理的には制御した通りにしか動かないはずの仕掛けで、いかにして生命の制御不可能性を表現し、それを楽しむかという試みだと言える。マッケイはガーティがマッケイの指示を無視して勝手に動いていることをこそ、喜んでいるのだ。

3. ウィンザー・マッケイと恐竜ガーティ

さて、このような筆者の論に対して以下のような反論が考えられるだろう。

マッケイがアニメーションという機械を通して、アニメーターの指示を無視するキャラクターを作り上げようとしていることは認められるとして、それは「指示を無視する」という指示に従っているだけなのではないか。つまり、ガーティはマッケイの操り人形の域を出ておらず、マッケイの「作品」ではあり得てもマッケイにとっての「他者」ではあり得ないのではないか、といったような反論である。

筆者はその反論は的を射ていないと主張する。根拠はアニメーションの自律性である。

アニメーションを「観る」ことができるのはどのタイミングだろうか?それは上映のときである。

『恐竜ガーティ』は手描きアニメーションであり、ガーティを動かすためにマッケイは何千枚もの絵を手描きしている。(その様子は例えばLittle Nemo (1911) aka Winsor McCay, the Famous Cartoonist of the N.Y. Herald and His Moving Comicsでも見ることができる)
しかしマッケイが描いたそれらの絵はあくまでも静止画である。ガーティがアニメーションとして、動き出すには映写機の回転運動の力を借りる必要がある。つまり、ガーティの動きは映画というメディア自体の自律性に支えられているのだ。ガーティを動かしている動力源は、アニメーターであるマッケイではなく、映写機という機械である。ガーティの運動エネルギーの源は、物理的な意味でマッケイとは全く無関係に存在しているのだ。

その意味において、マッケイはアニメーションを作るという行為の中ではガーティに会うことはできない。マッケイが絵を描いている間、ガーティはまだ1コマ1コマの静止した断面でしかない。それはガーティの部品ではあり得てもガーティそのものではない。マッケイがガーティに会うことができるのは、自分が描いた絵を映写機の回転によってアニメーション映画として上映し、それを見たその瞬間である。自分が描いた何千枚もの絵が、1つの運動として有機的に繋がり、巨大なスクリーンに光として浮かび上がる。マッケイは、そこでガーティと出会ったのである。

これを他者の発見と呼ばずして何と呼ぶだろうか。マッケイにとってガーティは、本質的に自分の制御の及ばない存在、自分の力ではない何かで動く自律的な他者なのだ。

それはマッケイが最終的に作品として観客に何を見せたかにも表れている。マッケイはただアニメーションを見せるのではなく、これまで見てきた通りマッケイ自身とガーティが対話する様を見せた。その表現を今の視点で見れば、アニメーション、実写映画、上演芸術の枠組みを超えた表現に思えるだろう。しかしそもそもそれらの枠組みが未分化だった時代、マッケイが自身の美的発見を素直に表現したと考えるのが自然ではないだろうか。

マッケイはガーティと並び立った。
それによってマッケイが観客に見せたのは、調教師と動物の関係であり、アニメーターとアニメーションの関係であり、マッケイと恐竜ガーティの関係である。両者が、互いに自律して存在し、関わること、それこそがマッケイの表現である。動物を、アニメーションを、恐竜ガーティを他者として発見すること、それが『恐竜ガーティ』の感動の正体である。

4. おわりに

【animation】の語源は、ラテン語で「霊魂」や「魂」を意味する【anima(アニマ)】である。アニメーションとは、静止画に「魂」を与えて動かすという意味から名づけられたのだ。
この意味において『恐竜ガーティ』に覚える感動は、アニメーションにおける根源的な感動と言えるだろう。何千枚もの静止画が、映写機の回転と光によってスクリーンに投影されて動く恐竜、ガーティとして現れるとき、そこに我々はガーティの「魂」を見出すのだ。
動くことそのもの、運動それ自体に生命を発見する感性である。

【参考文献】
ポール・ウェルズ『Understanding Animation』
David L Nathan,Donald Crafton 「The Making and Re-making of Winsor McCay’s Gertie (1914)」(http://database.jsas.net/mapping/items/ar0012013002/
「ディズニー・ハリウッドスタジオの恐竜ガーティについて」
https://florlando2881.com/disneys-hollywood-studios-gertie-the-dinosaur/

【参考作品】
ウィンザー・マッケイ
『ニューヨーク・ヘラルド紙の有名漫画家ウィンザー・マッケイと彼の動く漫画』(1912)
『恐竜ガーティ』(1914)

テオ・ヤンセン
『ストランドビースト』

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