最強の作文攻略法

文を作ると書いて「作文」という。
小学生、中学生、そして高校生に至るまで、全ての子供達の共通の敵を一つ設定するなら、「作文」を挙げることができるだろう。
それほどまでに作文が嫌いな子供は多いように思う。

では作文は何をするのか?
その文字の表す通り「文を作る」のである。
言ってしまえばただのそれだけ、しかしそれを言ったらサッカーだって「球を蹴り飛ばしながら追いかけるだけ」である。
「たったそれだけ」に隠された物事の本質は計り知れないほど深い。

作文とは

作文ができないとはどういうことを指すのだろうか?
我々はみな多かれ少なかれ作文をしている。
人に語りかけるとき、誰かに返事をするとき、何かを口頭発表するとき、つまり人が自らの口を使って発話行為をする時に発せられる言葉の束は、文字に起こしたなら「文章」となる。
作文が出来ないということは、作文行為の不可能を意味しない。
その言葉の意味するところは「作文行為の不出来」である。

このように、言葉には「字面が表す意味とは異なる意味を表す」機能もある。
このような分野は語用論と呼ばれ、言語学の範疇に含まれるが、ここでは議論しない。大事なのは、「書いたこと、言ったこと以上の意味を言葉に含めることが可能である」ということである。

例えば、あなたが「コーヒーいる?」と誰かに問うたとしよう。
その時に、「コーヒー、スキじゃないんだよね」と言われたら、あなたはどうするだろうか?

これはもちろん、「コーヒーを出さない」だろう。
なぜかといえば、相手が「コーヒーはいらない」という意志を表示したからである。
しかし、この時に相手は「自分はコーヒーはスキではない」という情報しか提示していないのである。
「スキではない」と「いらない」の間には普通認識のギャップがあるが、ここを難なく埋めるのが、人間に備わる言葉の認知能力である。
雑に言い換えてしまえば「空気を読む」ともいう。

例えばこの時に「コーヒーはいらないよ」と答えた場合を想定しよう。
その時、あなたには「彼(彼女)はコーヒーがスキではない」という道のほかに「彼(彼女)はコーヒーの気分ではない」という選択肢が浮かぶだろう。
どちらも結果として起こる出来事(コーヒーを出さない)は同じだが、しかし、物事の意義は全く変わってくる。

後者の解釈をした場合、「彼(彼女)はコーヒーがスキ、もしくは普通なのだが、いまに限ってはコーヒーを飲むという気分ではなかったのだろう」ということになる。すなわち、彼(彼女)がコーヒーが嫌いであるという情報が伏せられたまま過ごすことになるのである。
この意味で、この場合の発話行為は、「コーヒーはいるか?」という問に100%まっすぐに答えてはいるものの、結果として相手に与えられる情報量は「コーヒーが嫌い」よりも少なくなってしまっていることが分かるだろう。

とはいえこの時に求められているのは「質問に対する回答」であって、それにふさわしくない回答をすると、相手を困惑させてしまう。
例えばこの時に「僕はよくブラジルからコーヒーを個人輸入しているんだ」と答えたとしよう。
コーヒーの本場であるブラジルからコーヒーを、しかも日常的に個人輸入しているとなれば、彼(彼女)は相当なコーヒーマニアで、資産にもある程度の余裕があるということまで伺えるかもしれない。

しかし、これは「コーヒー飲む?」という問に対して全く答えられていない。
この問に対して上記の返答を返されても、「高級コーヒーを日常的に個人輸入してしまうくらいに僕はコーヒーが大好きなんだ。当然コーヒーはいただくよ」という意味を読み取ることは相当難しいだろう。
あくまで問いに対する返答として成り立つ範囲で返答を構成しなければ、これもまたディスコミュニケーションとなってしまう。

このように、一つ文章を作ると言っても、どれだけの意味を込めることができるのか、そして読み手にどれだけ適切に意味を伝えることができるのかという2つの技術を磨かなければならない。
そして、作文というのはこの作文行為を無数に繰り返し、全体として意味の通った一貫した文章体を作り上げる行為なのであるから、その難易度たるや想像を絶するものがあるだろう。

なので、大抵の人はまずうまく作文が出来ない。
これはもう仕方がない。最初からできる方が天才なのである。失礼な言い方をするのであれば、できるやつがおかしい。
私自身、作文が壊滅的に下手で下手で仕方がなかった。

本当か?と思われそうなので、今日はその証拠として、私が小学校高学年の頃の読書感想文を持ってきた。
ここに転記する。
全文、原文ママである。顔から火が出るほど恥ずかしい。
とはいえ、ここからでもまだギリギリマシな文が書けるようになるという実例としてある程度の意義はあるように思う。

ちなみに、ダサいダサい言い訳をさせてもらうと、これを書いたのは下町生まれ下町育ちのアホな小学校高学年のガキだ。
何の文化的な下地もなかった。ナチュラルに差別しているような表現が多々出てくるため、直そうかとも思ったのだが、当時の自分のアホさを知ってほしいと思ったため、敢えてこのままにしておく。
念の為書き添えると、私は差別主義者ではない。本当に。

タイトル:五体不満足を読んで

 僕は五体不満足を読みました。
 あらすじは、作者の乙武洋匡さんの先天性四肢切断。この病気によって手足がない状態で生まれてきます。手足がないというハンデをもちながら、たくましく成長してゆくというものです。
 僕はこの本を読み、たとえ手足がなくても人並みのことはできることを知りました。
 日本の障害者の捉え方は「かわいそう」です。でも同じ障害者でもアメリカの人はおしゃれをしている「カッコいい障害者」です。この2つの障害者の違っている点は、「おしゃれ」です。作者の乙武さんは1度(原文ママ、以下ママ)サンフランシスコへ旅行しました。その時オペラを見に行きました。すると、「これでもか!」というほどおしゃれな障害者なのです。それに、日本では障害者を見ると同情して、ジロジロと見てしまいがちです。でもアメリカでは、あまり視線がこないようです。それはなぜでしょうか?それは日本と違い、アメリカでは、障害者の存在がそれだけ日常化している証なのです。僕はそんな様子が日本にもあったら良いなと思いました。
 さて、作者はかなりの目立ちたがり屋だといいます。普通の障害者の人は人目を気にしています。なので、あまり視線が気にならず、車椅子のための設備も整っている、アメリカのようなところはまさに「天国」といえるでしょう。ですが作者の乙武さんは、ジロジロと見られることはないというのにいささか不満らしいのです。
 でも、その目立ちたがり精神でいろいろなことをしています。例えば文化委員をまとめ上げる、「文化実行委員」に立候補しました。
 僕も目立ちたがり屋なので、「文化実行委員」のような役割があれば入りたいなと思いました。
 そして、乙武さんとは気があいそうなので、1度(ママ)で良いからあってみたいと思いました。
 僕は作者の名前の由来もすごいなと思いました。作者の名付け親は父らしく、あまり細い(ママ)ことにも気にしないらしいのですが、このときは画数なども気にしたらしいです。「洋匡」とゆう(ママ)名前の意味は「太平洋のような広い心で、世の中を匡す。」という意味があり、「匡」とゆう(ママ)字は行動力のある王とゆう(ママ)意味もあるそうです。僕の名前の由来は、「天高く、かけめぐるような人」とゆう(ママ)願いをこめた名前だそうです。
 僕は「五体不満足」を読んで、たとえ障害者だとしても、周囲の環境さえ良ければもうその人は障害者ではなくなるということがわかりました。
 なので僕は、これからの日本はもっと「バリアフリー」を実行していかないとだめだと思いました。
 そして、障害者を思いやる心が必要だと思いました。

かなりヤバい文章である。
今の自分がこれを真面目に書いたなら、各方面に謝罪して回らなければならない。
さて、それでは、一体この文章(?)の何が悪くてこうなってしまったのか、それを考えながら、「最強の作文攻略法」を考えていきたいと思う。

駄目な作文

上の駄文は一体なぜ駄文なのであろうか。
いくつか問題点をピックアップしてみた。

・主述が一致していない。
・前文の内容を受けて適切な文章を繋ぐことが出来ていない。
・話題に一貫性がない(文章を通して何が言いたいのかがわからない)。
・書きたいことを書き散らしている。

この程度かと思う。
総合して言えば、「文章の目的が無いままに、文法的にメチャクチャな文章を書いているから」おかしい作文になってしまったのだと言えるだろう。

まず「主述が一致していない」について。
これは上の文中で言うのであれば、第2段落1文目の「あらすじは、作者の乙武洋匡さんの先天性四肢切断。」という文である。

一般に主部と述部は意味的に近いものが来てしかるべきである。
例えば、「彼は〜」と書き出したのならば「中学生です。」とか「テニス部員です。」とか「一流スイマーです。」とか、そういった肩書だったり、もしくは「優しいです。」「面白いです」「背が高いです」のような特徴を表す語が後に来ることが多いだろう。

ここに、「(彼は)ハンガーです。」とか「(彼は)苫小牧です。」とかを続けることは少ない。
ここから読み取れる情報が現実にありえない(譲歩するなら『限りなく現実的でない』)からである。
つまり、「〇〇は△△です。」といったような文章を作りたいのであれば、普通「△△」というものは「〇〇」について、何か新しい情報を示すものでなくてはいけないのである。

同じように考えると、「あらすじは〜」ときたならば、後ろに続くのは「桃から生まれた青年が鬼退治をしにいくというものです。」だとか「竹から生まれた女の子が月に帰るというものです。」みたいに、主部の内容、性格、特性、属性などを説明するような述部が来なくてはいけなくなる。
なのに、私は「あらすじは〜」と書き出して「作者の乙武洋匡さんの先天性四肢切断。」というように結んでいる。
これは全くおかしいのも当然である。

なお、幼少期の私をフォローしておくと、この段落全体で読むならば
「あらすじは、作者の乙武洋匡さんの先天性四肢切断。この病気によって手足がない状態で生まれてきます。手足がないというハンデをもちながら、たくましく成長してゆくというものです。」
となっており、この段落全体を一文にまとめることが出来たならば文章としてまともになるだろう。
「〜先天性四肢切断、この病気によって〜」と句点を読点にすれば、少々無理があるものの、まだ自然な文章になると思われる。

ただし、そもそも「一文一文が成立した上で束ねていく」というのが文章を構成するということの基本であるから、「あらすじは、作者の乙武洋匡さんの先天性四肢切断。」なんてめちゃくちゃな書き出しをしている時点で無期懲役クラスの大罪である。
大いに反省してほしい。

残りの3つ(前文の内容を受けて適切な文章を繋ぐことが出来ていない。話題に一貫性がない。書きたいことを書き散らしている。)は一手に扱ってしまおう。これらは根本的には同じことを言っている。

そもそも人はなぜ文章を書くのか?
それは「何かを伝えたいから」である。何か相手に伝えたいこと、文章にするのであるから、空間的、時間的に離れた相手に何かを伝えたいことがあるから、それを伝達するための手段として、文字媒体による伝達を行うのである。

では、その伝えたい「なにか」を伝えるのに、一体何文字必要なのだろうか?
これは人によって異なるだろうが、何千文字も必要になることは少ないだろう。
noteでエッセイストをしている岸田奈美さんは自らのことを「100字で済むことを2000字で伝える作家」というように評している。
大抵の物事は無駄を削ぎ落としに落とせば100字程度もあれば要旨は伝わるのだ。

極論言うと文章なんてものはいらない。
しかし、要旨だけですべてが伝わるわけではない。
私のこの文章だって、一言で言いたいならば「文全体の構成を考えながら、一文一文をうまく書こうね」で伝わる。
でもこれだけでは分からない人もたくさん出てくる。岸田さんのエッセイだって、一言に潰してしまうことは可能だろう、でもそれはふっくらと焼き上がった美味しそうなホットケーキを無残にもプレスしてしまうような鬼畜の所業であって、それで失う者はあまりにも大きい。

文章の作成とは、自分の言いたいことをうまく料理してやることである。
材料そのままでは美味しさが伝わらない時に、その一つ一つに手間を掛けて調理してやって、「ほら、こうすると美味しいでしょ?」というように相手に真髄を伝えてやることが大事なのである。
逆に言えば、適切な材料と適切な調理手順がなければ適切な調理ができず、料理は完成しない。

例えば、上の読書感想文モドキについて言うのであれば、きっと当時の私が「文章の前半部分で」言いたかったことは「先天的に四肢を失っていながら、幼少期から様々なことで頑張り、活躍してきた乙武さんはスゴイ!見習いたい!」といったあたりのことだろう。
しかし結論は「障害者を思いやる心が必要だ!日本もバリアフリー化を進めろ!」となっている。
はじめと終わりで言いたいこと、言っていることが全く異なるのである。

残念ながら手元に五体不満足がないため確認はできないのだが、五体不満足が「日本も障害者のバリアフリー化を進めろ!」といった内容であった場合には、その調理方法が、「どんな障害を持っていようが、努力次第で道は切り開ける」という内容であった場合には、完成した料理像がそれぞれ間違っていることになる。

これはカレーの材料を用意しつつラーメンと同じ調理をしてハンバーグを作るようなもので、つまりまったくもって何も完成しないことになる。
"不味い"作文ともいえるだろう。

"不味い"作文

不味い作文になってしまう理由は唯一つ、適切な目標設定ができておらず、好き勝手に調理を進めたからである。
料理を日常的にする人なら分かってもらえると思うが、その日の夕飯の献立は調理手順で決めるわけではない。
冷蔵庫の中にある材料から献立を決める、もしくは食べたいものを選んでから、それを作るのに必要な材料をスーパーに買いに行くのである。

文章を書くときも同じで、「読み取った物事の中から書けそうな内容を考える」もしくは「書きたいことを考えて、読み取った物事の中から目標に寄せられるものだけを取捨選択する」ことによって構成することができるのである。

だから、"うまい"作文を作りたいのであれば、まずはこのどちらかを選択しよう。
すなわち、「読んだことから言いたいことを決める」のか、「言いたいことから読んだ内容を選んでいく」のかの二択である。
これをすれば、最低でも趣旨の一貫した作文をすることが可能になるだろう。
大事なのは、最終的にどこにたどり着くのか?それを言うために必要な材料は何なのか?その材料をどう使えば結論にたどり着けるのか?ということであって、これ以外の作文テクニックはすべて些末なものである。

このように作文というものはセンスではなくシステマティックに詰めていくことが可能な「技術」である。
ジョジョで言えば、「スタンド」ではなく「波紋」や「鉄球」であり、ダイの大冒険で言えば「勇者ダイ」ではなく「大魔道士ポップ」である。
訓練次第でどのような状況からでもある程度の文章を構成することができるようになる。

ではどのように訓練を積むのか?
これは簡単で、日々短い文章でいいから、文章を構成することである。
しかし、いくら文章を構成してもこれは見られなければ意味がない。
作文と料理との異なるところは、自分で書いた作文はどうにも上手いもののように見えてしまって、自分では味見ができないことである。
当然味見がなければいくら料理をしても上手くなろうはずもない。

だから、味見をするときには、自分ではなく誰か他人に任せよう。
恥ずかしいかもしれないが、誰か自分以外の人間に文章を毎日読んでもらうとよい。
文章の内容はなんでもよい、人に見せても恥ずかしくないような内容で今日あったことについての記述を書いたり、本や音楽、ゲームなどについて感想をしたため、読んでもらうのもよいだろう。

そして、読んでもらった文章について、必ず感想を聞こう。
その感想の中で、「じゃあ、僕が一番言いたかったことってなんだと思う?」と呼んでくれた人に質問してみよう。
それが、自分の言いたかったことと一致していれば合格、遠ければ不合格である。

最初のなれないうちは100字程度の短い文章を、なれてきたら200~300字と増やしていき、最終的には1,000字程度でまとまった文が構成できるようになれば一人前である。
そんなの簡単だよ、と思われそうだが、これは意外と難しい。
100字程度でも、自分の言いたいことを100%伝えるのは大変難しいのである。
なお、文字数を縮約する技術も大事になるが、はじめのうちは100字も埋まらないだろうから、今はこれについては考えないことにする。

これを読んでいる人は恐らく中高生であろうが、それ以降になっても文章を構成するという機会はドンドン増えてくる。
文章の技術によって知力を推し量られてしまうような場合さえある。
とにかく練習を積めば誰でもうまくなることができるのであるから、ドンドン練習を積んでほしいと思う。


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