佐倉智美著書感想②/4「ただ単にそれだけ」と言えるのは、強者の証拠である。

佐倉智美 著『性同一性障害の社会学』について
読んだ感想などを語っていく。
第二回です。

(前回は
こちら 「誰もがなりたい自分になる」は、誰もがなりたい自分になれる世界を作らない。


この書籍では、

・トランスジェンダーは「こうなりたい自分」を希求しているだけだ。

という主張を持つ、MtFトランスジェンダー当事者の著者が
持論を展開している。

(ところで、
トランスヘイター・差別者・TERFと呼ばれる私達が、
「性自認とやらを他人に強要するならもはやそれは【性他認】だ」
と批判すると、
「そんな言葉はない。わざわざ妙な造語を作って。差別だぞ」
などと怒られてきたが、
「当事者」の書いた本書で「性他認」という言葉が複数回登場するので、
みなさんも今後安心して使っていけばいいと思う。)


 さて全体を通じて、

「社会が男女を区別することで、性同一性障害、トランスジェンダーという状態が起こる」
というのが佐倉氏の主張である、と私は解釈した。

>あくまでもこうありたい自分、そうなりたい自分を希求しているだけ
>トランスジェンダーにかぎらず、すべての人がそう

>しかしなりたい自分になった後の状態が、現行のジェンダー秩序・ジェンダー体制のもとでは、強制的に「男」か「女」かに分類されてしまう

>性別とは自認するものではなく、社会の中で他者によって判断されるもの

>ようするに性自認ではなく【性他認】なのである。

佐倉智美 『性同一性障害の社会学』


更にはこうも言っている。

>トランスジェンダーは社会的な現象

佐倉智美 『性同一性障害の社会学』

だと。
そして、

>無人島でひとりサバイバル生活をするのであれば、性別・性差・性自認は意味のないものとなる

>公衆トイレが男女別になっているから人は男か女かのいずれかになる

佐倉智美 『性同一性障害の社会学』

たしかに、
男女という区分があるからこそ越境したとみなすことができるのだし、
「あちら側」を希求もできる。

でも、上記で説明十分な理屈でしょ、と済ませてしまえるところにこそ、
やはり性別とは、「ただ単に」生殖器の作りだけではなく、
どこまでも無視できない違いであるなあ
と思わせられるのである。

無人島で私がひとりサバイバルせねばならないとする。
周りに誰がいようといまいと、この身体は変わらない。
私の身体は何十年も月イチ1週間、内臓が炎症を起こし出血を続ける。
免疫や体力や力も
この身体の可能範囲を超えることは決してない。
社会的扱いや評価とちがって、
身体は相対によって規定されるものではない。
行けるエリア、得られる食料、耐えられる日数……
肉食獣に襲われたり、謎の病気にかかったり、
そこから回復することについても、
ほかの島やほかの生存者を探して果敢にチャレンジしてみる場合にしても、

同じ年齢の同じ健康度の、
もう一方の身体タイプが同じ環境に放置された場合と、
私の身体タイプとでは、
同じ状況・結果になるとは思われない。

それは「ただ単に」個人差だけの問題だろうか?
いや、
1000人の男・1000人の女
でひとりひとりサバイバル実験をしたとしても、
結果が偏るのは明白である。

文明の便利ツールに囲まれて生きている日常では
ある程度「差異を均す」ことができていても
極限状況では通常以上に身体の違いが
あらゆる面で、無情な結果として返ってくるはずだ。

「性別」が「ひとりなら意味のないもの」と言えるのは、
「無人島にひとりきりなら、脚があってもなくても、目が見えても見えなくても、その違いに意味はない」
と言っているのと同じだ。

著者にとって「性別」は「他者からの容姿の評価」程度の問題でしかない
のではないだろうか。

災害時に女性専用スペースや生理用品を求めると、
「こんな非常時に、なにを言ってるんだ!」と
怒り出す男性というのが聞かれるが、
無人島サバイバルのたとえを見て、まさにこういう思考なのだろうなと思った。

「災害対策会議や意見決定の場に、男性しか居ないと、
女性はどんなに困ることになるか。
どれだけ経験や感覚が異なっているか」
を説明するのにも、
この書籍は優秀かもしれない。


 次に公衆トイレは、最初から男女別だったわけではない。
日本だって、殆どが男女別になったのはほんのつい最近である。
(……し、また共同や、女性専用なしに戻りつつある……ということで、渋谷区行政や、日本財団TOKYO TOILETなどに批判が集まっている)


佐倉氏の年齢なら実体験として、男女共同トイレ時代をご存じだと思うが。

トイレは例え話だとしても、
男女別でないと女性が最も困る場のひとつであるトイレを
軽々に持ち出せる感覚をお持ちだ、ということはわかる。

最初に
「男(ペニスあり)・女(ペニスなし)」
なる看板が無意味にかけられたあとで、
「どっちに入るか決めないとならないのか」
「じゃあ私はペニスがあるから、男だな」
「私はないから女か」
と分かれていったと言うのだろうか。

それにより「男」は「女」を自分とは異なる属性を持つものとして、
はじめて認識することができるようになり
そして、性的指向の対象とするようになり
さらに、支配欲、暴力のターゲットと定めることにもなった
……とでも言うのだろうか。

太古、動物の頃から雌雄の違いは厳然とあった。

そして、
その一方の属性が腕力でも機能でも俄然 有利で、

それだけでなく
動物から人間になって以降も、腕力差・機能差だけにとどまらず、
トイレ、風呂、
さらには
映画館、電車内、プリクラコーナー、カラオケ、宿泊施設の廊下、などなど
実に多種多様にさまざまな場所で、
有利な一方が、
もう一方の不利性に付け込んで卑劣な加害を数え切れないほど行ってきた結果、

「人目が届きにくく、
無防備になり、
不利なターゲットが集まることが知れており、
有利な加害者が攻撃性や支配性を誘発され、
よって加害が多くなる場については、

身体の違いで分けるしかねーな。人道的にも、コスパ的にも、集客的にも」

となったのである。

(本当には、女性専用車両のように被害属性のほうが不便に隔離されているような現状は理不尽ではある。夜道歩くな、と制限されるべきなのは、女性ではないはず。という話は今は置いておきます)

もしも、もっと科学が発達して、
そして男性の多くが「まともな男性」として性犯罪を撲滅することに全力を注いで
たとえば「害をなす前に察知し、対象人物を捕縛する」機能なんかができれば、
というかそもそも「女や子供に性加害をしてやろう」という男を撲滅することに全力を注げば、
男女別の場はかなり減らせると思う。

でも、それでも極限まで減らせるだけで、完全になくなりはしないだろう。
身体の機能までまったく同じになり、男女の区別が身体上からなくならない限り。
(そう、すると「越境したい」という願望自体が成立しなくなるのだ。やっと)

つまり、男女というのは
無根拠に社会が共有している創作ファンタジーではなく、
身体の違いという事実である。
それ以上でもそれ以下でもない。

身体が違う限り、
「あっち側がいいな。僕は本当はあっちだったはず」
は理論上なくならないし、
「男女別トイレなどの、社会的な区別をやめれば問題がなくなる」
というものでは全くない。

佐倉氏もそれはわかっているようだ、と思う描写と
わかっていなさそうな描写が交互に現れて混乱する、
本書はそんな書籍だ。
たとえば

>血液型は純然たる身体にかかわるタイプの一種
>それ以上でもそれ以下でもない
>身体の性別、ないし生物学・解剖学的な性差とされるものも、本来は同様であって然るべき

佐倉智美 『性同一性障害の社会学』

これなんかは、私の主張と変わりない。
性別は身体の違いであり、それ以上でも以下でもない、
という言い回しはまさに私もさきほども使ったし、たびたびツイートもしてきた。
つまり佐倉氏のこの発言だけを見ると、まるで「トランスヘイター、ターフ」の主張と同じに見える。
ただし、佐倉氏は下記のように続ける。

>オチンチンの有無というのは、ただ単にそれだけのこと

佐倉智美 『性同一性障害の社会学』

…………。

「ただ単にそれだけのこと」と思える人はいいよなあ、と思いませんか。
私は思う。
そのただ単なるソレによって、いったいどれだけの女性女児が加害されてきただろう。

ただ単に、腕力骨格筋力心肺が強く、
ただ単に、性欲や支配欲が強く、
ただ単に、おチンチンが付いている。
「ただ単にそれだけ」の違いなんだよね。
「ただ単にそれだけ」の違いを持つ、あなたがたにとってはね。

昔よく煽りとして貼られていた、
「おまえがそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」
という漫画の一コマが思い出された。

続きます

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