精神障害者は辛いよ7

精神保健福祉士学校にて
 精神保健福祉士の学校、といっても基本教科書がドサッと送られてきて自分で熟読するだけなのだ。レポートという課題の提出や、通学という夏休みを利用した対面での授業が各年ごとに5日ほど、そして実習として病院、ないしは地域施設に行き実習ノートを書くこと。これが、卒業までの学習内容である。
 当時はまだmixiが全盛期で、その中で二人の同期と連絡を取ることができた。夏のスクーリング授業で初めて顔を合わせるのだが、一人はイケメンで心理士の資格を持つ病院で事務長として実務経験を持つ。もうひとりは女性で地方で医療事務として働いている。東京に来るのにしっかりと観光もしていてスクーリング前には浅草を、スクーリング後にはディズニーランドを楽しむほど行動力のある女性だ。
 思えば精神疾患のある頃から付き合いのある多くの精神保健福祉士はバイタリティーあふれ活動的だった。資格が云々、知識が云々、肩書が云々というのは確かに必要なことなのかもしれないが趣味や余暇をこれでもかと楽しみ、仕事はパワフルにこなし、それ以外にもNPOを立ち上げたり学校の先生をしたりというアグレッシブな行動力。仕事が終わったあとにフットサルを教えるような活動力。ある時、デイケアのスタッフにレポートの相談をしていたら、彼女は東京を超えて神奈川から埼玉の片田舎まで通勤しているとのことだった。精神保健福祉士の資格をとった理由こそ教えてくれなかったもののその取得に至るまでのアグレッシブな行動力には感銘をうけ、学ぶものがあった。
 知識として精神疾患を学ぶのはとても楽しいことだった。統合失調症にも様々なタイプが有ること。シュナイダーの一級妄想やジョハリの窓、糖尿病患者が多い理由(薬の弊害)と1型糖尿病と2型糖尿病の違いとは。また、精神疾患を取りまく歴史はどのようなものか。世界的にはどうか。先進国の統計的な数字はどんなものか。また、世界各地での精神疾患患者を取り巻く医療状況。タブーとされることとなったロボトミー手術とは、そして最新の日本の現状はどのようなものか、などなど数を上げればきりがない。
 レポートは意欲的にだしていたけれど、あまり成績は良くなくせいぜいAかB程度、時にはCであることもあり、Sという全学生にレポートを紹介されるようなことはなかった。レポートに関して言えば正解を学ぶことも確かに重要なのだが、学術的な論文の書き方というのも重要視されていた気もした。当然、それらにはなにか学術書物など様々な添付資料がほどこされ、教科書以外でのさらなる記載がされていたのだった。
 そういえば、当時のスクーリングでネットの情報はデマばかりと口をすっぱく言われたのを覚えている。ユーチューブも出始めで色々な当事者が色々な発信をブログでしていたのだけれど、これには確かにそうかもと思わされるのが現実である。申し訳ないが、例えば家族会などの場面で自分の子供が精神疾患を抱えつらそうだったがある薬を飲み始めてから劇的に回復するようになったという。しかし、それを全員にすすめることは必ずしも正しいことではない。薬には医師の知識も必要であるし、すべての統合失調症患者にその薬があうかどうかはまた別の話なのである。また、とかく差別や偏見が多く、確定されている医学情報すら完璧でないのに精神障害者遺伝説など、話のネタとしては十分なのだが現代医学の乖離とはものすごい大きなデマが多数流布されているのが当時の状況だった。現在も再生数を稼ぐユーチューバーもいるけど、彼が語っていることは学術的に確たる指針があるのかは謎である。3つ以上当てはまったら注意などと言葉巧みに知識を語っているように思えるが、実際のところはどうなのだろう。変な知識を広めて変な患者が増えることは避けるべきだ。まあ、彼は再生数が伸びるのでそこそこの小銭を手にすることができるのだろうけど。

実習
 実習に入ると奇妙なことが起こった。それは埼玉の片田舎で地域活動支援センターという施設での出来事。ここで23日間渡り実習をすることになるのだが、その中にも同期の学生がいた。彼は50過ぎなのだが、なんと放送大学を卒業し、晴れて様々な経緯で知り得た専門学校に入学した同期の仲間だった。彼は病気のことをオープンにしていたが自分としてはクローズドで勉強をしていた。後々面倒くさいような事が起きないために。連絡先を交換したりしたが、実習についてあれこれ相談を受けた。何せ先輩方でなければ同期では誰も実習などに行ったことがない。10月に実習を始めた僕は割と早めに実習がスタートした方で、彼は11月か12月くらいから実習に医療施設に行くと言っていた。緊張や不安が入り混じりる中、様々な感情が交流を加速させていた。
 無論、それだけが実習ではない。毎日実習と称して精神障害者(自分もまあそうなんだけど)と呼ばれる人たちをサポートするために内職を手伝ったり、昼休憩をともにしながら色々な話をしたり、そして彼らが帰ったあと一時間程行われるスーパービジョン。スーパーバイザーと呼ばれる先輩精神保健福祉士から今日一日の気づき。そして、それはどういうもので、どうあるべきなのか、どういう考えで、どうするとよいか、どういった学びが必要であるか、など事細かにディベートがなされた。実習中辛いのはこれらをさらにA4用紙両面に渡りひたすらノートを書くのである。書いたノートは翌日、添削。再度、返されこれが23日に渡り続いていくのである。
 そして、実習の間もレポートなどの勉強は続く。私自身は通信教育なのでまだマシだが、同じ時期に実習が同期になった女性はなんと夜学で実習が終了したあと都内の学校で授業を受け勉強をし、その合間に実習レポートを書き翌日もまた実習先に来るのだった。何たるハードスケジュールで何たるバイタリティー!これには驚いた。自分ではとてもできないと思いながら、やはり精神保健福祉士の行動力は半端ないものであってそうであるべきなのだと痛感させられる出来事だった。夜学は一年間でみっちり通学で行われ、同時に単位取得し卒業後は試験を受験。合格を想定して就職活動まで彼女はしていた。

学業終了とそれぞれの道
 ほどなくして実習は終了。50代の彼は多少、本人の理想論を語りがちなこともあったせいか実習でつまづき最終的には卒業することなく学校を去ることになる…のだが、他方、mixiで知り合ったイケメンは本当にいいのかねと言いながら実習は実務経験があるので免除。彼女の方は地方のこれまた京都というマニアックな場所で厳しい看護師兼精神保健福祉士に厳しく指導されていたとのこと。二年生になり、夏のスクーリングでそれぞれの実習体験が発表され、ほどなくスクーリングも終了。晴れて卒業ということになる。
 しかし、学生に課される問題はこれからのほうが重要だ。就職活動と国家試験。両方突破しなければならないのでかなり厳しい。はっきり言ってしまうと通信で資格を取りに来る人の七割方は仕事をしながら試験を取りに来る人たちだ。ゆえに実習はかされずレポート提出のみで受験資格を得て、本当に受験するか迷うタイプ。僕は仕事が未経験なのでとにかく資格取得して正規雇用を目指す感じ。資格には並々ならぬ勉強をしていた。一年前からワークブックなる参考書があり、その中から試験問題が出題されると言われるその書物を読みふけっていたし、一年生の頃からけあサポ、という受験応援サイトを閲覧していた。一年前の試験の日からどのタイミングで出願し、どのようなペースで試験は進むのか。会場はどこなのか合格速報はどこが一番正確かなど事前にありとあらゆるものを準備していた。
 学校は合格率が高くて有名であったが、卒業後補講という形で試験対策講座が行われる。残念ながら地方の彼女は参加できなかったがここで上げられた事例が実際に本試験で出題されることも多かった。あれはこの講義のあとだったか、最後の模擬試験のあとだっただろうか。イケメンの彼と駅で別れる際、「何が何でも受かろうぜ!」と固く握手をして帰ったのを覚えている。男同士で固く握手など青春してるなあ。昔からそのような青春はしたことがなかったのでよく覚えている。
 試験は2月上旬、通常の大学センター試験の時期に行われた。会場は調べた場所と違い池袋ではなく、東京の競馬場の近くの辺鄙な貸し会議室場。試験勉強はこれでもかとしていたが、実はこの間二回体調を崩し入院をしていた。入院中、試験勉強をしながら不眠症を治す奇妙な学生。患者にしては精神保健福祉士などいないだろうし、そこまで学校に通っているのもレア中のレアだろう。
 それでも、なんとか体調を戻しいざ試験。すべての回答に自分が回答しておいたものをメモり、当日夜にサイトでアップされている予想解答で採点をしながら、自分が合格圏内であることを知ると今度は就職活動。ほどなくして東京のNPO法人に面接をしていただき、自分自身のなかでは半ば内定をもらったと思った状態だった。
 合格発表日。表示時間にホームページを確認すると合格者番号に自分の番号がある。やった!合格した。学校の先生や実習関係者、イケメンの彼や知り合いだった学生などに連絡を取り合い、時には電話で時にはメールでそれぞれの合格や不合格を報告しあっていた。イケメンと僕は合格、社会福祉士と精神保健福祉士をW受験した某君も合格、去年受験していた夜学の彼女も合格してあとに続いた感じだ。
 残念ながら地方の彼女は若干点数が足りず不合格となり、統計的にそのままの三人に一人は落ちる試験と言う形となった。すべての人達と今も連絡をとっているわけではないが彼らは精神保健福祉士として現在現役で活動をしている。
 自分はというと、その東京のNPO法人がいつまでも採用の合否を伝えてこないことから、試験合格の連絡を入れると翌日郵便で不採用の通知が。なんでも、本来一人採用するところを別の人を採用することを決め、ホームページには掲載していないパートタイムという形で僕を雇いたかったのだそうだ。残念なことに試験に合格してしまった上にどう頑張っても予算の確保の目処が立たない。今回は大変申し訳無い。そういった内容だった。反対に本採用を決めた一人が不合格だったら自分が採用になるという内容だっただけに愕然。
 試験は合格したものの、採用試験は不採用。就職活動は続くことになるが色々なところを訪れて経験上、障害を開示しなければなんとかなるぞと手応えもあった。気分も高揚し、なんとかなるぞと少し早い桜を眺めながら季節が移ろいゆくのを感じていた。時は春。これからである。

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