精神障害者は辛いよ4

繰り替えされる入退院と障害者年金受給に至るまで

 バイトについては三か月ほど働き、正社員を促されて離職し正社員につき、体調を崩しては入院をする。これがこの頃のお決まりのパターンだった。医師が固定されていなかったのもよくなかったことだ。鈴木理事長はベテランで人気が高い医師でその分忙しい。そのため、体調がよくなるとほかの医師に主治医を交代することになるのだが、この交代の仕方が半端ではない。
 自分がかかっている病院は主治医を一人に固定させる診療方法を取っている。違う第三者が医師として処方を変えると収拾がつかなくなるというからだ。故に毎回同じ医師に診察をしてもらうのだが、病院では入院患者の治療もあるので外来はせいぜい週二回。毎日診察があるわけでもなければ、体調が悪くなるタイミングが毎回同じでもない。結果的に飛びつきで診察した結果、これは入院が必要だとなり必然的にその時かかった医師が主治医になるというパターンが出来上がり、結果として入退院の回数が増えた。知り合いの医師も増えたもんだ。辞めた医師も多いけど。
 病院で入院する場合の勝手というのはわかっていたし、何を守れとかどうしろというのに対して文句はない。確かに制約は多いけど。当時は携帯電話の持ち込みが禁止だったが、インスタントコーヒーと砂糖、それといくばくかの本さえあれば困ることはない。金はなく、菓子を買う余裕もないので体重は痩せるが。ただ、土日が来るたびに面会者がどっと来るたびに自分には面会者が一人も来なくて寂しいと思うことはあるけど。また連休が続いてコーヒーがなくなると途端に半端なく腹が減り(これはジプレキサという食欲を増進させる薬の副作用による部分も大きいが)大変だった記憶がある。
 バイト→正社員→入院→退院→デイケア→バイト→ということが永遠と続いていた時、時にして30歳頃だっただろうか。デイケアの古参スタッフが「テルさん、障害者年金って知っている?」と言ってきた。この頃、既に精神疾患を罹患して五年程度で障害や年金を受給するには要件として十分すぎる物だった。しかしながとら、本当に月々金がもらえるのか、疑心暗鬼でしかなかった。
 その後、そのスタッフが言うには要件が満たされているから大丈夫なはずだという。そんなわけで医師と話をするのだが、衝撃の事実が待ち受けている。「これ、大学生の頃に精神科を受診したというのが初診だから無理だね。君は二級にはならないだろうし、受給するとしたら生活保護しかないよ。」これが、当時の主治医の言葉。障害者年金というのは、基本書くというならば止めようがないのだが、医師によっては書く医師と書かない医師がいるらしい。医師からしてみればメンドクサイからというのもあるし、暇もないというのもある。また、障害者手帳の二級と三級の違いは何かと言われると難しいものがあるのだ。初診が大学生で20歳前になると受給する年金は基礎年金二級でなければ受給できない。(三級になると一時金でおしまい。二か月で年金約13万という金額はもらえないのだ。)仕事をしている段階でパワハラでそこが初診であれば、共済年金(公務員の年金)でありこの場合は三級でも受給することができる。その上、遡及請求ということで過去五年分の年金分と、過去支払った分の年金額が同時に支払われ、その額は一千万近くになる場合もあると言われた。まさに、天と地ほどの差である。
 デイケアのスタッフは年金が下りるというが病院のソーシャルワーカーがいうには初診が大学生前だと二級でないと出ない、ほぼ無理であると方向転換。念のために医師にも確認したが無理と回答。絶望して待合室でこれからどうしようと呆然と回らない頭を巡らせて考えていた。


 ちなみに当時の経済状況はといえば、お世辞で言っても裕福とは言えず洋服や靴もろくすっぽまともな物が買えたものではない。当時の写真を見ると大学生の頃や公務員の頃と同じ洋服を着回していたし、靴に関しても安くて靴づれを繰り返すような安い靴が二~三足あるのみで金に余裕がない。時計も最終的に行きついたのがジーショックで七千円ほどのもの。働いた分のバイト代で生命保険代の一万近い金額を払わされるのも大変だったしこれに最低限の医療費(自立支援医療)2500円は必ずかかる。それに入院をすればスーパー救急という医療費が認可されたことにより莫大な金額の入院費を請求される羽目になる。家の家計は父親も働いておらず火の車状態でのちに100万ほど隠れて借金をしていたのがあらわになっている。家にも金はないのだ。経済状況がそうだったのでやむなしということだったが、家族丸ごと生活困窮者という状況だった。唯一まともなのが母ですべての生活を回しているのが母。パートタイムでまともな賃金を稼ぎ、生計をやりくりし、家族が家事をせずに遠方に嫁いだ姉を引き合いに出すわけでもなく、全て母。そんな状況なので診察後は本当にどうやって生きていこうか悩まされてた。最終的には母親が払いきった生命保険を解約するまでに困窮するのだが、生活保護という制度はあるけれどそれを受給する為には家をまず売ることを考えなければならないし、だいたい一家で生活保護受給できるのか。俺一人抜けて生活保護っていったってどうやればいいんだ?もう、死ぬしかないのか。本気でKを殺して刑務所に行くかすべてを呪って自分が死ぬかの二択だった。そこで待合室で三時間ほど途方に暮れていたところにデイケアのスタッフがやってきてくれてほどなく、診察室に呼ばれた。
 何のことかと思ったら、再度年金は難しいということの再説明。しかし、先生も筆がすべっちゃうからね、と二級を暗にほのめかす内容だった。デイケアスタッフは「それは不正請求ではないんですか」と切り替えしていたが、現実問題初診日を変えるというのは結構な犯罪らしく、三級を二級に見立てるのはあくまで医師…ということだった。この頃、障害者手帳の申請もしてみたが三級だったので難しいのではないかなあと思っていたが、まあしばらく僕にかかってみるといいよ言われ診察は終了。会計の際にデイケアスタッフにとりあえず理事長先生に言われたとおりするしかないよと言われたが、狐につままれた状態で本当に障害者年金がもらえるのかという気持ちが消えなかった。
 その後、基礎年金を受給する為に市役所に障害者年金請求の用紙を貰いに行くのだが、ここでもすったもんだがあり簡単に用紙をくれる様子ではなかった。住所と氏名を記載させられなんとかもらうことができたが、そこにあるのは医師の記載のほかに自分で記載する申告部分、しかも入院や通院をこれまでの期間をすべて書けというもの。あとから自分史を書くようなものと言われたが、とても骨が折れる作業であった。ちなみに、蛇足であるが平成末期に障害者年金の受給状況で県レベルで承認されているのはおかしいと言われ、東京都と沖縄県の差による同じ申請内容でも格段に受給レベルが違うことが問題視され裁判の結果(確か覚えている限りだが)厚生労働省が動き、全国一律、地域的な部分を考慮しつつ年金の支給に関しては全国一律に精査されることになった。その後からは常に一年更新だった埼玉県の障害者年金の状況が三年間に一度に変わったことを考えると埼玉県の障害者年金(基礎年金)の審査というのは厳しいものだったのだろう。自分の場合は、入院回数が多かったのと医師が下駄をはかせた部分。そしてなにより、このデイケアスタッフの加筆によるものが大きいと思われる。
 その後は順調ではなく、また再度入院を繰り返し、結果信頼できる主治医に出会い、その主治医が障害者年金の用紙を書いてくれるということになって、入院中に過去の入院歴などのデータを入院時に担当になるソーシャルワーカーに聞きながら、初診日の証明も母親と一緒に病院に行ったりしてすべての書類をそろえ市役所へ提出した。その後どうなるかわからないがとりあえずやれることはやった。そうして、全てをやりきった状況で退院となった。本当は家に帰るのは嫌でグループホームという選択肢もこの当時考えられたのだが生活費を考えてもとても無理だし、男性の部屋というのは空きが出にくいという状況だった。故に、退院し再びデイケアに通うという形となった。父親とのいざこざは変わらなかったけど帰る家はそこしかなかった。

年金受給決定通知と散財

 年金の受給決定が下りたのは半年後くらいだった。デイケアスタッフ、医師、母親とともに喜んだが、同時に嫌悪感を示したのは父だった。ただでさえ自分のことを怠け病とのたまい、自分自身もてんかんの発作があるのに一向に自立支援さえ使わない頑固者。これが、自分に金が振り込まれることに大変嫌悪感を催したのだ。家族の恥であるような感覚。自分からしてみてば金を無心しそうな感覚。
 障害者年金が受給できるようになってから、最低限の身だしなみを整えることができる環境はそろった。父親は相変わらず穴の開いた靴でロト6で一発充てることを目指しており、仕事もタクシーの運転手といった感じで粗悪な関係だった。私からしてみれば、父親はいつ事故を起こして損害賠償請求を起こされないかの不安材料でしかなく、父からすればわざわざ大学まで卒業させておいてごくつぶし。自分を楽にさせない道楽息子という感じであった。のちに障害者年金がおりたら100万円耳をそろえて払い自宅から出て行けという話が合ったそうだ。母がうやむやにしたが、この当時借金もばれ、姉は離婚し実家に戻ってきた。今度は姉にたかる父。金を払わない姉という状況がしばし続く。
 年金を受給した直後というのはやっとユニクロで服が買えるというものだった。とりあえず、家にも生活費がいれられるし生命保険なども簡単に支払える状況。そのうえでどうせ年金がおりたのだからとりあえず自由にやってみようというのが自分の中に余裕というものができた。姉が離婚して実家に戻るまではしばしあって障害者雇用のあとでしばし同居の後、再度別居し独立するのだが三人の間は邪険にされてはいたがとりあえず精神障害者スポーツというものをやってみようということになった。

精神障害者スポーツ

 精神障害者スポーツというと主にソフトバレーボールとフットサルが思い浮かばれる。それ以外にもいくつか候補のスポーツがあるのだが国体レベル、もしくは団体が運営しているのはこの二つ程度だ。近年は卓球が見直され、競技人口が増えたおかげで卓球ブームも大きいが、まだ県レベルの障害者スポーツ協会が主催するような状況で県代表の国体スポーツにはなっていない。同時にバドミントンやバスケットなどを行う団体もあるようだが全国レベル、または精神障害者レベルでのルールの統一が図れていない。世界的に見ればパラリンピックというものがあるがあれはあくまで身体障害者の祭典であり、一部知的障害者が出てくるのだが精神障害者は含まれない。ここですら精神障害者は差別されてしまうのだ。
 ソフトバレーボールの場合は埼玉国体時代にできたようで、当時公務員として国体の手伝いに駆り出されていた職員がいたなあというところでやや馴染み深い、女子を必ずコートに一人いれなければならないという男女混合の独自ルールがある。フットサルの場合は基本5人だが女子がいる場合は+1として参加が認められるというルール。ソフトバレーボールの場合女子がいないと試合ができないという状況なのでどこでも女子をスカウトする必要があったり、歴史的に古いので体育祭の延長線上で各地域で大会が行われていたということもありなじみが深い(しかしながら、現在でも地域差はあり空白県もあるのだが)フットサルに関しては精神保健福祉士たちが全国ソーシャルフットボール連盟というものを作り、たびたび国体競技(東京国体のオープン競技など)になったり紆余曲折を経て現在は数か国の間で4年に一回のペースでワールドカップのような催しが行われている。
 なんでそこまで詳しいかというと、自分がフットサルの方にかかわっていたから。そこに至るまでにはいろいろあるけれど、とにかく自分が精神障害者だという自覚が出てきたのと同時に、各方面でアドバイスされるのが精神障害者が就職をするには体力があった方が続くというまゆつば話が聞かれるということ。実際に働きながらスポーツにいそしんでいる人たちがおり、デイケアにいくよりそういう人とつるんだ方が楽しかったし為になったというのがある。無論、デイケアには行っていたし勧誘の場でもあったのだが、デイケアは日曜祝祭日が休みだったので自分にやることができちょうどよかった。
 自分自身、フットサルの大会に出て全国大会で準優勝したりしたのは思い出に残ったし、けがをしてあまり顔を出していないがそうした活動があり、特に所属していた団体メンバーに日本代表候補選手がいるというのは誇らしい限りだ。一回も会ったことはないけれど。
 この活動の際に障害者年金を使いながら物を買うという行為は父親からすれば無駄遣いとされ、ごくつぶしあつかいだったが徐々に体力が増えるにつれ活動量や病状の安定につながり最終的には正社員ではないけれど障害者枠で仕事をし始めるきっかけになった。年金から始まりすべては順調に向かう予定だった。あの事件さえなければ。


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