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まっしろなブルー(短編小説)

 目尻のしわ。加齢による劣化は多少なりとも覚悟していたはずだが、いざみつけてしまうと動揺するものだなと、他人事のように考える。左右非対称なのが忌々しい。右と左でまるで顔が違うのだ。しわが目立っているのは、左側。人間の美というものは、いかにシンメトリーに近づけるかである。お隣の奥さんは完璧なほどそれに近いというのに、私は。
 たどっていくと、ほくろがある。泣きぼくろともいえない中途半端な位置。ここでも私は嫌悪する。しみとそばかす、異常にあいた毛穴。ほんの少しを気にしだしたらキリがなく、気分は降下していくばかりだ。くちびるの下にニキビの兆し。触れてはいけないとわかっていながら、薬指でかるく押す。数回やって、顔の右側をてのひらで覆う。自分の左側は気に入っていたのに、最近、このとおり不調なのだ。左側をてのひらで覆う。きらいだ。そうして全てを覆う。今までケアを怠ったことなどない。食事にも気を遣っている。睡眠時間も、運動も。セックスすれば綺麗になるというからそれも嗜み。彼は私を求めてくれる。私の悩みを気にしすぎだと笑いながら、宥めるようにキスをする。わかってないな。私はいつまでも美しくありたい。近づきたいのだ。うっとりするほどの透明感。澄んだ青。圧倒的シンメトリー。完璧な彼女にも、悩みはあるようだったが。
「うちのひと、ちょっと、変わっているの」
 憂いを帯びた、その横顔があまりにも美しすぎた。だから私も憂えるということをしてみたかった。しかしいざ憂うというのも私の悩みでは自意識がすぎて、くだらない、ような気もした。いつも寝室の窓から彼女が土をいじるのがみえる。朝がはやい。ここに越してきた翌日、セックスしながら彼女の姿をみつけた。汚れるのが目にみえている白いワンピースに、ビジューで光るサンダル、デニムのエプロン。不似合いな、軍手。彼女はひとりでも楽しそうだった。一生懸命に土を掘る姿が、画になる。途中でミニトマトをつまみ食いしながら、まるでうたうように土をいじっていた。
「あ、」
 自然にあがる声に私はもう疑問すらも抱かない。彼との付き合いは長い。そろそろ一緒になりたいね、と話しあっているのだけど、前途多難。私たちのあいだには問題がある。
 朝から精がでるなぁ。
 ……どっちが?
 バックでなかを抉られながら、彼とした会話もよくおぼえている。


「アオ? すてき。あたしブルーって大好きよ」
 まぶしいくらいの笑顔に私は目を細めた。彼女の笑顔につられて笑ったようにみえたかもしれない。そうであってほしいと願った。
 仕事にいきづまるとよく散歩をする。行きも帰りも彼女は庭で土に夢中になっていた。いつも白いワンピースを着て、ビジューで光るサンダルに、デニムのエプロン。不似合いな軍手。土いじりをしていても彼女は美しかった。みとれていると目があってしまい、庭に招待されたのだった。今までは薔薇の生け垣を隔ててあいさつ程度。唐突なお招きに鼓動が高鳴る。満面の笑みでファーストネームを尋ねられ、控えめに「蒼」と名乗ったところだ。大好きと無邪気にいわれるとますます心拍数が跳ねあがったが、違和感も芽生えた。
「白、じゃなく?」
 私は思わず問う。間近でみた彼女のワンピースは、繊細なリネン。襟元には刺繍が施されている。なにもかもが、まっしろな。
「これは夫の好みなの」
「汚れてしまうのに……」
「だからあたしは土をいじるの。せめてもの反抗よ」
 ウインクだって様になる。彼女はとても美しかった。
「名前、あたしもブルーよ。おそろいね」
「え?」
 そして彼女はほがらかだ。
「瑠璃っていうの」
 おそろしく完璧な名を持つひとだ。深い青の瞳にみつめられながら、私は思った。
「奥さんじゃなく名前で呼んでね」
 彼女がもいだトマトは随分おおきい。みつめあうようにトマトに微笑んで、その場でかぶりついた。ジュレが、したたる。襟元に、伝っていく。汚い、と思うのに、彼女はやっぱり美しかった。


 さいしょはトマトをふたつもらった。彼女にはおおきいのに私にはちいさくみえる。トマトは彼の好物だ。彼の手のなかにあるトマトも随分ちいさい。それでも彼は「おおきいね」といってよろこんでくれた。
「めっちゃいいひとじゃん。よく仲良くなったな」
「うん。すごく気さくで、あかるいひとだった」
「おまえとは正反対だ」
 彼はさりげなく私を貶す。私は彼のある種の癖にもう慣れきっていた。麻痺しているといってもいい。私はそれでも、彼のそばにいたいと思っている。けれど。
「今日なに?」
「パスタ」
「また?」
「新鮮トマトのパスタだよ」
「そりゃ好きなんだけどね?」
 もう何度したかわからない会話だった。彼の好物を何度も作ってしまうけれど、彼は不服なようだった。だけど結局は食べたがる。メニューから数日あけると「トマトパスタが食べたい」と耳元でささやくのだ。彼は私を背後から抱きしめて、調理を中断させる。うれしいけれど、今じゃない。それでも、触れられるとからだは跳ねた。
「好きだよ、蒼」
 彼はなにもわかっていない。私のことを。私の奥底を。それでも軽々しく好きという、その姿勢が好きだと思う。だから離れられないのかもしれない。
 カタン。包丁にあたりそうになって私は彼に静止をかける。不満げな彼の表情にキスをひとつ。気をよくした彼はさらに行為を再開しようとする。もう。待って。きく耳も持たない。いつの間にか私はうでをまわしていて、観念する。きもちいいことは好きだ。この場所がキッチンでなかったなら、私は彼を誘惑して自らまたがっていたかもしれない。もう、彼とは随分長い。そろそろ、身をかためたい。でも。私は彼に不信感を抱いている。それはふとした瞬間に、言動にあらわれる。私は彼がこわい。
「蒼、」
「ん?」
 子どもみたいに私を呼ぶ、彼の声をきらいになれない。
「おれから離れていかないでね」
 こわいのに、一緒にいる。
「いかないよ」
 自分の本音がわからない。そういうところまできてしまった。


 瑠璃さんは今日も白いワンピースだった。素材はふわりと風に揺れるオーガンジー。スカートの裾が土で汚れていたが、全く気にした様子はない。今日はきゅうりをお裾分けしてもらった。にかっと歯をだして笑う瑠璃さんは、少年漫画の主人公みたいだ。彼女には儚さのなかに芯があるように感じる。
「蒼ちゃんの恋人は、ヤキモチやくの?」
「けっこう、妬くかも。独占欲が強いっていうか」
「そうなんだ」
「好きなんだけど、たまに、窮屈で」
「そうなんだ。わかるー」
 瑠璃さんと恋人の話ができるのがうれしかった。彼女は私の話にいつも共感してくれる。瑠璃さんの旦那は出張で家をあけていることが多い。一度しか会ったことはないが、冷たそうなひとだと思った。瑠璃さんにはいえそうにないけれど。彼女らのサイクルを羨ましく思ってしまう。私と彼との関係は良好なようにみえるのに。
「瑠璃さんの一番好きな色はブルーなの?」
「そうよ」
「でもご主人は白が好きだから、白を身に纏っているんだね」
「そう。下着も白なのよ」
 彼女は笑う。だけどほんとうの笑顔だろうか?
「今度一緒にショッピングにいこうよ」
 私は思いきって提案した。
「いいわね」
「思いきり好きなテイストの服をえらんでやろう」
「うん。素敵」
 瑠璃さんはほんとうにそう思っているだろうか? 社交辞令だと思って流される? 私は本気だったけれど、この手のお誘いは見極めが難しい。もっと仲良くなれたら。私は思う。思い描く。もっと彼女と近づきたい。もっと。確かな信頼を。


 願望だけではなく彼女との距離は私の望んだものになりつつある気がした。私が庭をのぞくたび瑠璃さんはうれしそうなのだ。だけど約束したショッピングにはほど遠い。もらいっぱなしでは申しわけないから、私はたまに衝動的に量産したくなるクッキーを焼いて、慣れないラッピングでお返しした。女性にはピンクがいいのかもしれないと一瞬思ったけれど、瑠璃さんはブルーが好きなのだからリボンは迷わずともよいのだった。彼女はおおげさなくらい全身でよろこんでくれた。
「コーヒー、飲んでいかない?」
 今日は家に招かれた。私はこころのなかではしゃいだ。
「うれしい。おじゃまします」
 言葉にもしっかりのせる。彼女に出会って私は純粋に、素直でいたいと思うようになったのだ。
 家のなかは一切の汚れを許さないとばかりにまっしろだった。ここは旦那のテリトリー。やはり私の直感はあたっているような気がした。あのひとは冷たい。瑠璃さんのことまでももの扱いしているんじゃないかと心配になる。それは私の職業柄、なにごとにも考えすぎるせいだと思いたかった。
「クッキーには紅茶がいいかな。コーヒーは種類がいっぱいあるの」
「なにがあるの?」
「キリマンジャロにモカ、ハワイ・コナ。それにマンデリン」
 ひとつひとつ指差しながら瑠璃さんはこたえる。コーヒー豆が入っている瓶たちをよくみると、茶色から黒っぽい色でグラデーションになっていて、綺麗に整列されてある。ここでもこだわりがみえた。
「どれがいいかわからないな」
「これも夫の好みなの。あたしも詳しくない」
「じゃあやっぱり紅茶?」
 キッチンの片隅に茶葉の入った瓶がぽつんとあった。
「ふふ。紅茶はダージリン。これはあたしが好きなものよ」
「じゃあ、好きなのがいいね」
 うん。瑠璃さんはふわりと笑う。瞳がとろけるように輝いている。綺麗な青。その名にふさわしい色をしている。
「……いいな」
 私は思わず声にだしてしまった。なにが? というようにみあげる瑠璃さんの身長を思う。彼女は小柄で、抱きしめたら折れそうなほど華奢だ。なかなかに陳腐な表現だ、と我ながら恥じた。
「ごめんなさい。羨ましくて。瑠璃さんの髪も目も、くちびるとかも全部が可愛くて、瑠璃さんになりたい」
 無垢な瑠璃さんの瞳をみていられなくて、私は顔を覆った。瑠璃さんに比べたら、私はなんて醜いんだろう。私はただ綺麗になりたい。それだけだった。瑠璃さんのように、綺麗になりたかった。瑠璃さんになりたい、だなんて、だいそれたことをいってしまって、その発言すらも醜いと思った。
「交換できたらいいのにね」
 でも。瑠璃さんは一瞬、言葉を濁した。
「こっち側にきたらきたで大変よ」
 瑠璃さんはいう。同じなのかもしれないと思う瞬間。瑠璃さんと私はこんなにも違うのに、悩みは同じなのかもしれないと思う瞬間だった。きっと瑠璃さんは、旦那に束縛されている。ゆるやかな拘束に、ゆっくりと首を絞められるように。私と同じ。できあがっていくダージリンのにおいに脳はまどろんでゆくけれど、麻痺していたどこかが目覚めようとしている、そんな予感があった。
「そうだ。使わなくなった化粧品があるの。いる?」
 瑠璃さんは私にいった。彼女はこうやって私をそっち側へ導いてくれる。なんの偏見もなく、私をみてくれる。
「ほしい、です」
「ふふ。なんで敬語?」
「いや、なんだか、うれしくて」
「メイクレッスンもする?」
「する」
 ふふ。瑠璃さんは笑う。さ、まずはお茶にしましょう。カップを運ぶ瑠璃さんは、今日も美しい。白の汚れも気にしないで、ほがらかに笑う。ワンピースはよくみるとデニムの色が移っていて、このまま混じりあえば、きっと彼女の色になる。ほんとうの、彼女の色になる。なぜかそう思った。


 彼女の首筋に縄のようなあとがある。それをみたのは翌々日。瑠璃さんはめずらしく長袖を着ていて、こんなに暑いのにどうしてだろうと思って、だけど素材はシアーだったからそこまで気にすることはないと思ったのだけれど、やっぱりおかしいと思考が踵を返した。きのう瑠璃さんは庭にいなくて、私は少しさみしかった。
「やっぱり隠せないわね」
 瑠璃さんはいった。笑っているけれど、つらそうだ。
「あたし、あのひとがこわいの」
 瑠璃さんが私に本音をいうことが、不謹慎だけれどうれしかった。私は彼女の背に手を添えた。ぽんぽん、と、あやすように触れる。どうしたの? きいてあげればいい。私は彼女の唯一の相談相手になれる。ほど遠かった存在に、やっと手が届く。
「別にひどいことをされているわけじゃないの。あたしを束縛するのは愛ゆえだっていうの。愛があるからどこにもいかせないって。安全なところへ隠してるんだって」
 彼女の声は泣きそうに震えていたけれど、涙はなかった。堪えている。私はどうしてあげたらいいかわからず、ただ黙ってきいていた。背中に触れた手は離せなかった。離さないでよかったと思っている。


 大玉トマトにナス、ズッキーニを並べる。せっかく夏野菜が豊富なのに料理のレパートリーは少なく、仕事よりもあたまを悩ませる。瑠璃さんがよくつくるメニューもきいてみればよかった。そしたらもっと私は彼女に近づけるのかもしれない。パートナーの好物を眺めながら、散り散りの焦燥。ぼんやりとトマトを手のなかでもてあそんだ。
「すっげー仲良くなったじゃん」
 ふいに背後から抱きしめられた。掴まれる手首。流れるように彼はトマトに齧りついた。付き合いはじめのころは、この強引さにときめいていたのだ。うま。つぶやいた彼のあたまを撫でながら思いだす。今は、手首にしたたっていくジュレがこのうえなく不快だ。
「おかえり、」
 彼はこたえず私にキスをする。
「今日なに?」
 くちびるを触れあわせたまま尋ねられる。なに、って、なに。めし。まだあかるい空のした、夜の気配。夏は体内時計が狂うから困る。彼の戯れはどうしていつもキッチンなのだろう。
「……悩んでる」
「もうパスタでいいよ。別に凝ったもの求めてないから。おまえも仕事してるんだから、大変だろ?」
 私の返事は呑み込まれる。今日も彼のキスが曖昧にさせる。でも、といいたかった。私はごまかしのきかない胸のもやもやを、彼に話すべきだった。
「なんかおまえ、綺麗になった」
「ほんと?」
「前のほうがよかったなぁ」
 こころが冷えていく。彼が悪意なくなにかをくちにするたび。腰より低いシンクに追い込まれ、対面。顎を掴まれる。右の目尻にキス。傷ついたこの顔がわからないのか。私は。昔よりも今が。未来が。私は。
「もっと綺麗になりたい。あのひとみたいに」
「張りあってどうするんだ。あんな女じゃ意味ない。おまえだからいいんだ。わかるだろ?」
「そういうことじゃないんだよ」
 声を荒げても彼には伝わらない。どうした、と甘い声で。機嫌なおせよ、とめんどうなのを抑えた表情で。彼は抱きしめればなにもかもが解決すると思っている。
「疑わないの? おれが奥さんと仲良くしてても」
「はは、」
 いやな笑いかただ。吐き気がするほどの。
「おまえが女を抱けるわけがないだろ」
 決めつける彼の、浅い思考回路。好きだった。でも今は。
「おまえ、女になりたかったの? おれはおまえが男だから好きになったのに」
 わかってない。彼はなにもわかっていない。
「化粧なんてやめろよ。おまえはなにもしないほうがかっこよくて可愛いよ」
 やわらかなキスがくる。私は拒む。なぜ拒まれたのか、彼は本気でわからないようだった。どうして私と彼はすれ違ってしまうんだろう。以前は確かに好きだったはずなのに、どうしてきらいになってしまったんだろう。きらい、なのか。今は。自分の脳内に響く単語に驚いて、ふいをつかれる。ずっと好きでいたかった。彼のことを、理解してあげたかった。同時に強く理解されたかった。だけど私はどこまでも彼のいいなりで、こんがらがって、つらくなる。徹夜明けの髭が好き。なんていわないで。弱いとわかっていて腰を抱かないで。触れられるとどうしようもない、淫らな下半身を人質にとらないで。女になりたいわけじゃない。でも確かに存在する私のなかの女々しい部分。形がないからうまくいいあらわせない。だんだんキスが激しくなって、彼が私の目尻に触れて、だいきらいなしわに触れて、可愛いなんていう。きらいなのに大好きが蘇ってきて、後悔。


「なおった? 機嫌」
「……わるかったわけじゃない」
 結局なしくずしにからだを繋げられて、ベッドのなか。また私は彼を許してしまった。許したわけじゃない。石ころのような塊が少しずつ蓄積されていく気分。
「おまえさぁ、もうあの女と会うなとはいわねーけど、」
「瑠璃さん、だよ」
「瑠璃さんと会うなとはいわねーけど、おれのきもちも考えて?」
 なにをいっているんだろう。おまえが女を抱けるわけがないだろとかいったくせに。彼はこうやって矛盾したいいぶんを突きつける。はぁ。横できこえるため息。
「はらへった。なんか作ってよ」
 私はくちびるを噛む。とっくの昔にやめた煙草が吸いたかった。


「あいつは、おれのこころが絶対に変わらないと思っているんです。絶対なんてないのに。けど、どうしたっておれは男が好きで、あなたは魅力的だけどあなたよりもあなたの旦那のほうを目で追ってしまうのは否めないし……」
 ふふ。彼女の笑みは私が懺悔してもやさしかった。
「みる目がないのね」
「それは、お互いさまです」
 あなたはトップとボトム、どちらなのかしら。めずらしいききかたをするひとだ。瑠璃さんは日本にきてそれなりになるというが、友だちがいない。原因は想像できてしまった。
「戦略を立てましょう」
 彼女は表明する。
「おおげさだな」
「おおげさなんかじゃないわ。これくらいなら許されるだろうって今まで流されてきたのよ。あたしあなたと出会って麻痺していた感情が戻ったの。あのひとたちには支配されることの恐怖がわからない。きもちがわるいわ。薔薇の棘を少しずつからだに刺されるように傷つけられているのに、向こうが正しいなんて顔をされ続けるのよ。冗談じゃない。あたしたちはデモを起こすべきなのよ」
「たったふたりで?」
「ふたりだからよ」
 いい? 彼女はいう。悪戯好きの少女のようだ。
 あたしたち、夜明け前にこの街からエスケープするの。


 街をでる前に洋服を買いたいと瑠璃さんはいった。ネットでみて気になっていたロイヤルブルーのワンピース。みせてもらったけれど絶対に瑠璃さんに似合う可愛さだった。ただし、値段は可愛くない。きっと似合うよ。可愛いよ。というと、なんだか口説かれているみたいと瑠璃さんは笑う。私も笑った。そう。私たちみためだけは男と女なのだった。不思議と彼女といるとそんな境界線はなくなる。私は男とか女とかじゃなく、ただ私であれた。瑠璃さんはどうだろうか。どうか彼女が彼女のまま、自由であるといい。
 もう長いこと彼らに尽くしてきた私たちだから、少なからず「私だけのための買い物」に躊躇していた。だけど決戦には戦闘服が必要だ。私も入念に調べあげてお気に入りの洋服を買おうと決めた。瑠璃さんと一緒なら、きっとこわくない。
 私たちは電車に乗るのも億劫だ。私は出不精だし、瑠璃さんは旦那に行動を制限されていた。街をでる前に骨が折れるミッションだ。通販で簡単に買えたらいいのだけれど、心臓がとびでるほど高い買い物をするのだ。試着はしておきたいし、店にいくことに意味がある。綿密に、緻密に、計画をたてて決行する。
「ひとがいっぱい」
 瑠璃さんがつぶやく。気の利いたことをいえたらいいのだけれど、そうだね、と返して沈黙になった。私たちが目指したのは銀座だった。はぐれないように手を繋いだほうがいいのかもしれないと思ったが、私たちはまだみられかたを弁えなければいけなかった。瑠璃さんは今日も白いワンピースで、銀座によく似合っていた。素材はコットンレースだった。隣を歩く瑠璃さんは泣いていた。どうしたの、と問いたかったけれど、やめた。私もツンと鼻にきた。わからなかったけれど、わかるような気がしたのだ。気がしただけだけれど、瑠璃さんのことをわかりたかった。
「やっぱり帰ろう」
 瑠璃さんは涙を拭いながらいった。そして自らの肩を抱き、うでをさすった。
「ほんとうは前へ進むのも戻るのもこわいの。だったら戻って家庭菜園していたほうがいい。慣れているほうが、気が楽よ」
 私にもそのきもちはわかった。ほんとうはずっと不安だったし、こわかった。彼から逃げるなんてできっこない。あたまの片隅で思っていた。でも、それでも、私たちは抗いたかった。だってさっきの涙には、うれしさも含まれていたでしょう?
「せっかくきたんだし服だけでも、みにいこうよ」
 私は躊躇していた手を瑠璃さんの手に絡めた。そうしたほうがいい気がしたからだ。瑠璃さんは私をみあげてはにかんだ。


 私たちは店の前にたった。だけどいざ入るとなると尻込みしてしまうものらしい。顔をみあわせかたまっていると、ボブヘアの店員が「どうぞ試着していってください」と声をかけてくれた。私はますます硬直してしまったが、瑠璃さんは安心したような顔をして入ろう、といった。
「あのロイヤルブルーのワンピースをみたいんです」
 瑠璃さんは凛とこたえた。彼女には決意があった。
「ええ、どうぞ。みるだけじゃなくぜひ着てみてくださいね」
 サイズはゼロで大丈夫そうですね。ききなれないサイズのいいかたに、ここでも私は萎縮した。ゼロ、とは、きっとこの店で一番ちいさいサイズだ。こんなところでも彼女を羨む。私はいったい何サイズになるのだろう。
「あの、この方も着てみていいですか?」
 瑠璃さんは私のぶんのワンピースも手にし、店員に声をかけた。さいしょは驚いた表情をみせた店員だったが、「もちろん」と笑顔でいってくれた。
「はい、蒼ちゃん」
 サイズを店員に確認してもらって、瑠璃さんが手渡してくれた。
「細いからもうワンサイズ下でもいいと思いますけど、念のため」と店員はいう。そういわれたとき、女性には私は細く映っているのだとはじめて気づいた。普段、外見について指摘されることはほとんどない。
 私と瑠璃さんは真向かいの試着室にそれぞれ入った。ひとりになったら途端に心細くなる。背中のファスナーをあげられるか自信がなかった。それに、店員はなにもいわなかったけれど、私はやっぱり男だ。いくら中性的に身なりを整えていても、からだのラインは隠せない。それでも、着てみたかった。瑠璃さんが着ているような、まっしろなワンピースを。あたまからワンピースをかぶる瞬間はドキドキして、変な汗がでないかと心配になる。袖を通す瞬間はそわそわ。ファスナーは想像よりもうまくあげられてうれしかった。鏡のなかの私がみたこともない顔をしている。この歓喜にふるえる瞬間は一体なんだろう。今までに味わったことのない感情だった。
「おふたりとも、素敵ですよ」
 お世辞だと疑う余地もない、店員の声に私たちは泣いた。世界があかるい。目の前にいる瑠璃さんはロイヤルブルーがほんとうによく似合った。いっぽう、私のほうは全く似合っていなかった。それでも、私はうれしかった。好きな服を着られるということが。似合っていますよ、とほめられることが。私と瑠璃さんは抱きあった。抱きあって、年甲斐もなくわんわん泣いた。これからこの服とともに生きてゆこうとさえ思った。私のまっしろなワンピースは、私たちの戦闘服になる。
「あたし、逃げない」
 瑠璃さんはいう。
「うん」
「戦うわ」
「うん」
「あたし、あなたとなら一緒に戦える気がする」
「うん」
「いつかあの街をでられるように」
「うん」
 うん。私は頷くことしかできなかった。できなかったけれど、彼女と同じきもちだった。私たちはこの服で彼らと戦う。ここをでて、どこかへいけるように。
「あたしきっと、ずっとあなたを待っていたんだわ」




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