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書いた本を売るための本屋 その5 自分にとって切実なものこそ

ぎっくり腰になってしまった。今も痛い。けれどだいぶマシになったのと、書いておきたいことが出てきたので、今これを書いている。
この連載は、「書いた本を売るための本屋」の通り、自ら書いた本を売るための本屋を始めるにあたっての考察の記録であり、行動の記録であり、同時に原稿である。これを後々編集して本にしてしまえばいいのではないかと考えている。だから原稿にもなっている。考察と行動の記録、つまりプロセス=素材として捉えている。以前にも書いたことだが、そもそも構成(全体像)を固めてから素材を集めていくことに、全く心が動かず、というか何も出来なくなってしまうという自分の特性上それを諦めることにした結果、まず素材を集めまくって、そこから立ち上がってきたものを編集して一つの形に落とし込むことをやろうとしている。これは自分のいつもの常套手段であり、いわゆる得意なパターンだと思っている。だから得意なことをやって苦手なことはやらない、というわけだ。ああ、まだ腰が痛い。ので椅子に長時間座っていられないだろうから早く書こう。リミットが迫っている。

それで、今日は何を書きたかったかというと、何についての本を書くかということだ。素材を集めると言っても、全く無目的に集めることは難しい。何からしらの興味や関心を軸に枠(かご)を作っておいて、その中に入ると思わしきものをポンポン投げ込んでいく方が楽だ。取捨選択は後ですればいい。で、そのカゴは何を入れる箱なのか、ということを決めたいとずっと考えている。前回も、前々回もそれについて書いてきた。
そもそも本を作るまでのプロセス=本の作り方について書こうみたいな案もあった。いい案が他にないのと、一番はじめのテーマとしてはなかなかいいきがした。それはほとんど、今書いているこの考察記を指すことに等しくなるのだけれど、それはつまりビハインド・ザ・シーンであって、オーディオコメンタリーであって、本来は先立つもの/ 本丸に当たるものがあって、それの副次要素として存在するものなのだが、その副次要素をぐいっと前に出してしまって、それを本丸に置き換えてしまおうということでもある。そしてそれは、香山哲『プロジェクト発酵記』に見られるように、前例もあることなのである。ここまで前回書いたのだった。

それとは別に、もっと開かれたテーマというか、自分にとって切実なものをテーマにしてもいいのではないかと考えた。なぜ自分にとって切実なもの=開かれたテーマ、になるかといえば、そういうものだから、としか言えない。自分がこれまでに作ってきた商品も、イベントも、自分のために作り上げたものであり、結果それが人に必要とされるものでもあった。だから自分の経験値としても、自分にとって切実なものであれば、他に必要とする人がいるものと考えられる。
じゃあ今の自分にとって何が切実なのかと言われれば、「怒り」である。僕はとにかく良く怒ってしまう。年をとるにつれてそれが顕著になってきている。家の中にいても、ちょっとしたことで怒ってしまうし、街を歩いていても気になることが多すぎてイライラしてしまうことがよくある。怒りというのは、周りに良い影響を及ぼさないことがほとんどであり、しかももっと困ったことに、本人にとっても良くない。僕はよく怒ってしまう自分に困っている。じゃあ怒らなければいいじゃいか、と言われたらもっともなことなのだが、起こりたくないけれど怒ってしまうから困っているのだ。よく自分の機嫌は自分でとりましょうとか、自分の機嫌をとれない人は大人ではない、とかSNSで話題になっていて、しかも賞賛されているのを見るけれど、それは本当にそうだし、自分もできたらそうしたいのだが、できないから困っているのだ。

なぜ怒ってしまうのか。大切な家族に対して、自分も後で嫌な思いをしながら。まるで意味がわからない。
原因や対処法について、これまでに自分なりに色々試したり考えてきた。
心理学の本なんかには、怒りは第二感情であって、第一感情と言われるものを隠すために怒っているのだと書かれてもいる。第一感情こそが深層的な感情であり、それはさみしいとか、悲しいとか、そういうことだったりすると。でもそれだけでは説明できない気がする。だって、朝、自分のタイミングで洗面所が使えなかったりするだけでイライラしてしまうのは、単なるわがままでないのか?その奥に潜んでいる第一感情というやつを無理やり引っ張ってこようものなら、「自分のタイミングでやりたいと思うことをやらせてもらえなかった子供の頃の悲しい思い出があり、それが怒りになって表出している」みたいなことになる。つまりこれって、大体が過去のトラウマだとか、親からうけたものが原因で。。。みたいなことになる。それって明るくない気がするというか、それが原因だとして、じゃあ次はその先どこに行けばいいの?となる。これまでの経験上、親を原因にし始めると、あらゆることが親に帰結していく。都合が良いブラックホールみたいな存在になっていく。それで親に怒りをぶつけ、親が悪いんだ、自分が悪いんじゃない、みたいなことをやり続けて、、、それで?何かいいことあった?次どうすればいいの?となった過去がある。そうではなくて、過去は過去であり、そうした悲しみや寂しさがあったとして、それは事実だと自分の中で認めた上で、ここから先は自分の人生だとして引き受ける覚悟がないと、一向に自分の生活は良くなるように感じられない。感じられないというのがポイントだと思う。結局、悲しみも、怒りも、寂しさも、自分の感じ方であるのだ。過去のことについて、自分はこう感じたんだ。これは受け入れればいい。けれど、だからといって、「こうした過去の負の感情があるおかげで、これから先も一生自分は負の感情しか感じられない(幸せを感じられない)」と決めつけるのは自分次第ではないか。あまりに人に自分の人生というか、感情の持ち方を任せすぎではないか。それは自分の人生と言えるのか。自由を奪われたも同然ではないか。ショーシャンクの空にでいうところのHOPEを思い出そうではないか。自分次第なのだ。

話がだいぶ飛んでしまった気がする。そうそう、怒りが第二感情うんぬんはどうも腑に落ちないという話だった。
で、あくまで自分の場合だが、怒りの背景には「ねばならない」とか「損得勘定」のようなものが張り付いている気がする。「こうしなければならない」から外れた時に怒りとなって表れる。もっというと、自分が損したときに怒っているのではないか、という見立てだ。そもそも、怒ることに困っていると書いたが、怒ることで、人生を損しているとすら思っているのだから。改めて文字にすると、自分がいかに浅ましい人間なのか、恥ずかしくなってきてしまう。明らかに恥だが、それを露呈するくらい、自分にとってはどうにかしたい問題であり、切実であるということなのだ。だから、損得勘定の正体を自分なりに考察していく中で、自分の人生をよりよくしようという試み、それを本としてまとめることで、世界のどこかにいるであろう、同じような悩みを抱えている人の慰みになればいいかなと思っている。需要があるかないかとかそういうことではない。自分にとって読んでよかったなという内容にさえまとめられれば、同じように感じてくれる人はいるはずだ。本としての売上うんぬんは、その人に出会えるかどうか次第だろう。少なくとも出来上がった時点で自分にとっては読むに値するのになっているのだから。

今日はここまで。3,096文字。

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