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自分の中にいるたくさんの自分は、どれも等しく自分。

さ、今日も書いていこう。今日はちょっと遅くなってしまった。今22時27分。

さっきYoutubeでFFVのビッグブリッジの死闘を弾いてみた関連の動画をひとしきり見まくってしまっていたので、ついついこんな時間になってしまったのだった。なんでFFVってあんなにいい曲が多いんだろう。動画を見ているときに、ストリートピアノで弾いている人の動画を見ているときに、子供の泣き声が聞こえて、それが別室で寝ている娘の泣き声かと勘違いしちゃって、バッとイヤホンを外して飛んでいってスースー寝ているのを見て、なんだ動画の声かと安心しながら、ああ自分は親だなと思った。

さて、今日も今日とて、やっぱり子育ては大変だなと感じる日々だ。大変大変なんて言っていると、なんだかつまんない人生に自らしてしまっているようで嫌だけれど、もやもやする気持ちは拭えない。娘はたとえ嫌なことがあったとしてもすぐ笑って遊んでいるし、それを見ていると、楽しいかどうかって自分次第なのかなって思ったり、いや、娘は「やらなくちゃいけないこと」が少ないからだと思ったり、なんだか心の天気模様が忙しい。子育てが始まってから、こんなに玉虫色に気持ちが入り乱れるなんて思ってもいなかった。
怒ったり悲しんだり反省したり落ち込んだり前向きになったり切なくなったり尊くなったり、本当に本当に数分ごとに感情が変わったり、複数色で感情が入り乱れたりする。自分は何重人格なんだろうとさえ思う。
自分という人間がたった一つの一貫性したものと考えていたら、とてもではないが破綻してしまう。僕という人間の中に、こんなにもたくさんの自分がいて、忙しなく出たり引っ込んだりしている、というのを娘が教えてくれているのだろう。どの自分も紛れもない自分で、むしろそんな自分がいることを今まで知らなかった気が付かずにきたのだった。

最近は疲れてしまっているのもあって、朝起きると憂鬱な気分になることがある。多い。これは鬱の傾向にあるなあ、と感じるくらいには客観的でいられるけれど、本当にこうして鬱になっていくんだろうなとは思う。
休みたくても休めない。子育てとはそういうものかもしれないけれど、僕には一人の時間が必要だ。こんなご時世だし、ちょっとした私情もあり、一人でどこかにフラっと泊まってくるみたいなこともしづらい。何にもなければ、実家に帰っていただろう。もう実家には2年ほど帰っていない。実家の周りの田んぼを全く見ていない。
以前、ちょっと遠出をしたときに、久しぶりに田んぼを目にして、心がすごく癒されたことがあったが、あれは自分でも驚きだった。田んぼという風景がまさに心象風景であり、田んぼをこんなにも長く見ていなかったことで、田んぼという風景がいかに僕を育ててくれていたかを思い知ったのだった。僕は山と田んぼに囲まれて18歳まで育ったのだから、それは当然のことなのだった。それを身をもって知った。
だから娘が今この場所で育っていることが果たしていいことなのかどうか、と考えてしまうのでもあった。

ま、とりあえず僕は疲れてしまっているのは間違いなくて、でも休めない。仕事なら辞めればいいかもしれないが、子育ては辞めることができない。ま、本当に何もかも放り出して、一人でどっか行ってしまうこともできるのだが。奥さんはそれでもいいよ、と言ってくれているので、やろうと思えばできてしまう。でも僕はそんなことしてまで、一人になりたいなんて思わない。でも本当は休んだ方がいいのかもなあ。

僕には一人になる時間が必要なのだ。昼間、数時間、どこかで過ごすことができればいいみたいな話ではなくって、1日を一人で過ごすってことかもしれない。夜眠りにつくまでの時間と朝起きてからゆっくり過ごす時間。そのどちらも一人でいられるということが僕にとってのひとりの時間。それが欲しい。

来年になったら、一人でどこかのホテルに泊まってこようか。本屋さんで本を買って、コーヒーを飲みながら音楽を聴いて、買ってきた本は途中でやめてしまって、音楽をぼーっと聴いていたりする。下北沢のあの喫茶店の窓側に座って、一番街を歩く人たちを眺めていたい。大きな音でなる音楽に身を任せて、コーヒーをすすって、物思いに耽りたい。20代の頃を思い出しながら、あのときはいなかった家族のことを考えながら、今の僕のことと、これからの僕のことを考えていきたい。ノートを開いて、ペンで考えたことを書いていると、マスターがタバコと灰皿を持ってやってくる。隣のテーブルに腰をかけ、最近のことを報告しあいたい。今流れている曲のこと、さいきん読んだ本のこと、仕事のこと、店のこと。そういえば、本棚のどこかにしまってあるという河合隼雄の「トポスの知」は見つかっただろうか。くれる約束をしていた。
マスターの話を聴いて本にまとめたいという気持ちをずっと持っている。それは僕のためだ。マスターの考えてきたこと、今考えていることを、残しておいて、僕がおんなじような年頃になるころに、僕はどんな風にそれを読んでいるのだろう。そんなことを想像して、お守りの様な本として残しておきたいんだよな。

気がついたらもう2000字を書いていた。なんだか早いな、あっというまだ。明日は少しいつもより早起きしなくてはならない。またこんな時間になってしまったなあ。
僕はもしかしたら、今の悲しみや辛い気持ち、暗い気持ちをなかったことにしようとしているのかもしれないな。それは無かったことにできないのに。無かったことにしよう、見ないようにしようとすると、それはどんどん存在感をアピールしてくる。忘れないで!こっちを見て!ってな具合にだ。
暗くてもいい。落ち込んでいてもいい。
うまくできなくてもいい。ダサくてもいい。
なりたかった俺になれなくてもいい。
やるやると言ったまま、何年もすぎてしまった自分でもいい。
その間に、あいつはずっと遠くに行ってしまったけどそれでもいい。
怒ってばっかりだし、気分屋だし、困らせてばっかりだし、プライドが高いし、臆病だし、テキパキやれないし、すぐサボるし、効率的にはできないし、仕事は遅いし、不義理だし、約束は守れないし、肝心なところで逃げ出すし、お金の稼ぎ方は下手だし、お金は少ないし、几帳面で、思い通りに行かないと気が済まないし、細かいことにみょうにこだわってなかなか全体が進まないし、人に気を遣わせるし、社交的なふりをしているけれど人となるべく関わりたくないし、それを隠しているし、いいひとに見られたいし、物欲は強いのでものをどんどん買いたいのに家が狭いのは嫌だし、ものは少ない方がいいとか言ってるし、綺麗好きなのにやる気がないからと全然掃除してないし、だから汚い家だと言って怒ってるし、ぶつぶつ言いながら八つ当たりするし、まだまだ描き切れないくらいのダメなところがある俺だけれど、それでもいい。それが自分だからその自分でやっていくしかない。
何度も言うけれど、その自分は隠そうとすればするほど、存在感をアピールしてくる。忘れないで!って。周りで起こることや、人から言われたことに反応して、ここがチャンスだとばかりに隠したいはずの自分はバッと表に出てくる。
自分の中にいるたくさんの自分は、どれも等しく自分。隠さないでいよう。暗い自分を隠さないでいよう。

大体これで3000文字。
今23時02分。おやすみなさい。

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