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書いた本を売るための本屋 その4 メイキング映像を先に売る

さて、今日も書いていこう。まず毎日とにかく書いていく。素材をどんどん貯めていくのだ。編集はその後。構成を決めてから書くというのがどうも窮屈でできない。「いいものを書かなければ」モードになってしまうのかもしれない。それは、構成を作ることで、いいものを作ろうとするからだろう。適当に構成を作るということができない。構成を作る時点でいいものを目指しているからだ。目的を定めイメージして整理整頓する。構成をすることがそれと等しいからだ。なので構成が出来上がった時点で、目的も、イメージも整理整頓された形で自分の中に出来上がっている。そこに向けて書け!というわけだ。いいものを!書け!と構成が言ってくる。指導者にそう言われている気がしてくる。途端に萎縮してしまって、書けない。いいものを書かなければというプレッシャーが先行してしまって、気楽に書けない。書く前から負けてしまう。何も書いていないのに、書く前からいいものを書けない気がしてくる。
そうならないように、構成を決めずに、まず書き出してしまうというのが自分にはあっている気がする。

そもそも、この数年間、そういうやり方で書いてきた。初めて商品を作った時の商品説明記事は、相当重要だったはずだ。これで売れなかったら、あとは何をやっていいかわからない状態だった。転職することをやめて、起業し、うまくいかず、ある種の賭けのような状態で商品を作り、しかもお金を借りて作ったわけだ。これでダメならもうやることが思いつかないという状態で作った商品。そしてそれを届けるための商品説明記事。それをどうやって書いたかと言えば、情報カードに商品を説明するワードを一つずつ書き込んでいった。とにかく思いつくままに書いていく。作るまでの紆余曲折もあったのだから、思い出をなぞるだけで書きたいことはたくさん出てきた。書くだけ書いたら、その情報カードをグルーピングしていく。取捨選択する。そして「これは何についての話だな」とグループ名をつけていく。グループを作り、再編し、スッキリするまでそれをやり続けていく。あとはグループに順序をつけていく。完成すると、グループ名はそのまま見出しとなり、グループの順番が見出しの順番になり、各情報カードは小見出しやテキストの要約文そのものになっていく。書くことは決まっているのだ。あとはそれに従って書いていくだけだった。そうやって書いてきた。

これができたのは、まず体験があったからだろう。商品を作るという体験。その体験をキーワードで書き出し、グルーピングして、整理整頓して、それが構成になった。そしてその構成に従って、細部を書き込んでいくということをやっていたのだ。

では、これは今の状態にどう置き換えることができるだろうか。

整理してみよう。
今は「本を作ろうとしている」。自分で本を書き、出版し、それを自分の本屋で売ろうとしている。さらに本を書くに当たって参考にした本たちも一緒に販売する。そういうことをしようとしている。
ではこの場合、先ほどでいう「体験」は何にあたるのだろう。まず体験がなくてはならない。自分で本を書く。というところに至るまでの体験。先ほどは商品を作るという体験があって、それについて書くという行為だった。今はいきなり本を書こうとしているではないか。体験がないのだから、そりゃ書くことがない、何について書こうとしているかどう書いていいかわからない、なんてことになって当たり前ではないか。なんてことだ。こんな当たり前のことに気がつかないなんて。

まず体験があって、それをまとめたのが本。少なくとも自分にとってはそういうことなのか。今までのスタイルでいくと、という言葉も付け足しておこう。
では、ここから二つのパターンに分かれてくる。
一つは、今までのスタイルを踏襲するパターン。つまり体験したことを記述してまとめるというパターン。
もう一つは、今までのスタイルを踏襲しないパターン。新しいパターンでかくということ。つまり、体験せずに、先に書くというパターン。
体験せずに書くことなんてできるのか。いや、厳密に言えば、今まで体験してきたことを何らかしらの枠で囲ってその中にあるものを書くというのが、体験を書くということならば、その範疇の外にあることを書くということか。何だろ、たとえば「バンジージャンプを飛んだことないから、それを今から体験して書こう」なんてことも、結局は体験してから書くパターンに入ってしまう。過去に経験があろうが、今から経験しようが、経験したことを書くには変わらない。これではなく、体験しないまま書くというパターンとはどんなことなのか。そんなこと可能なのか?たとえSF小説を書こうが、空想を書こうが、その中で書き出すことは、自分の中にある経験をリファレンスしながら、それからズレていく書き方をするんじゃないか。経験を全く取り込まずに書くなんてできるのか。あっ、たとえば他人の経験、聞き書きではどうか。それは自分の体験ではない。いや、でも他人から聞いたものをまとめる段階では、聞いた経験が生まれて、それを編集していくことになるのだから結局体験が先で書くのは後か。もはや経験せずに書くなんてことは不可能ではないのか。

先に進むために、一旦仮で「経験せずに書くことはできない」と固定してみよう。経験したことしか書けない。だから何かしら、経験を元に書く。つまり何を経験するかが、何を書くかの答えになる。何を経験するか、もしくはしたか。これまでの経験を総括するのか、もしくはこれから新しく経験するのか、またはその間なのか。
何を経験するか/したかは、つまり、自分の生活や人生をどう区切るか、に置き換えれる。
人生より生活の方が少しライトな気がするので、一旦自分の生活を区切る、という言い方にしてみる。
自分の生活の中で、どの部分をスコープするか。それが何を体験しているかに置き換わる。わかりやすいのは、悩みとか関心だろう。あれ、これ前回書いた話に戻っている気がする。何を書くかは悩みや関心で洗い出した気がする。あえて読まないけれど。うーん、何だか詰まってしまいそうなんで改行する。


さて、気分を変えよう。もともと何の話から今日は書き始めたのだったか。自分なりの文章術というか、編集術についての話から始まったのだな。そうか、編集術についてか。そりゃ素材がなければ編集できないんだから、体験が先にあって当たり前だ。さっきの「体験」「書く」をもう一度言い換える必要があるな。
体験、ではなく、素材。
書く、ではなく、編集だ。
さっきまでずっと話していたのは、文章術ではなく編集術の話だ。
だから何を書くか(どう素材を集めるか)ではなく、どう書くか(編集するか)の話をしていたということだ。ごっちゃになってしまっていたんだな。
でもこれで大丈夫。こうしてnoteに書き出したことで、また一つ整理できた。

つまり、自分は自分なりの編集術を持っているということだ。プロの編集者に比べたら術なんてすら言えない代物であっても、自分なりの手掛かりは持っている。ないよりはマシだ。
だから編集についてはとりあえず悩む必要はない。技術が低かろうが、とりあえず手持ちのスキルでやっていくしかないのだから。それが自費出版である。そもそも文学フリマに間に合うのか。あと1ヶ月ないんだぞ。それに向けてやっていくので。

で、編集術についてはもう考えなくてOK。では何について考えるか、というか不安になっているかというと、何を書くか、素材を集めるかだな。
これは「やりたいことがわからないんです」といっている悩みを同じなのか。この悩みへの答えは「やってみないと何がやりたいかはわからない」なので、それをそのまま適用すると「何を書きたいかは、書いてみないとわからない」になる。だからまず書いてみるってことか。

ここで、少し思考に変化、アクセントを加えるために、レコードを変えてみた。荒井由美の『MISSLIM』に変更。もう少しでなんか出てきそうな気がするんだ。

えっとなんの話だったか。そう、何を書きたいかは書き出してみないとわかない。ということは、今これをこうして書いているのだからそれでいいってことなのか。で、俺は何について書いているのか。本を作ることについて書いているのだけれど、それはわかっているのだが、きっとこれがぼんやりしているのだろう。言い換えしていく。マジカルバナナのように言い換えだ。

本を作ることについて書いている。
自分が何について書きたいからわからないから書いている。
雑誌的な本づくりをしたくて書いている。

ここで、レコードについて考えてみた。コンセプトアルバムのように初めからテーマがあってそれに沿って曲を作ってみる場合もあるだろうけれど、パターンとしては、ある曲を作ったことで、それに引っ張られる形でテーマが浮かび上がってくることもあるだろう。じゃあそのきっかけになる曲はどうやって作られるのか。きっかけになる曲のきっかけは?これもやっぱり何となく作ってみたしかないのかな。ただ一つはっきりしているのは、テーマがあって作っているわけでもないということだ。無目的というか、向かう方向がはっきりしないまま作っているということだ。
ただ予想するに、今までと違うパターンだとか、経験則から外れる形でつくていることはある気がする。そこで何かしらの発見が起きて、それが自分の中の何かを駆動することになり、ガチャガチャと動き出し、テーマみたいなものになってくる。そんな感じじゃないだろうか。手掛かりは「経験則から外れる」なのだろうか。

これを転用すると、経験則から外れるように書くということか。今まで書いたことがないことについて書くということか。
今まで書いたことがないことについて書く。つまり、『読みたいことを書けばいい』なのか。自分がこれまでに書いたことがないことについて書く。もしくはこれまで自分が経験したことがないことについて経験してみて書くということか。何だか当たり前のようなことを言っているだけではないのか。

ただ、やっぱり「雑誌的な本を作りたい」のであれば、それ自体が経験したことがないのだから、雑誌的な本作りを体験してみて、それについて書くことをやればいいのではないかとも考えられる。元あった構想の一つだ。ただ、この場合、中身が空っぽなのだ。雑誌的な本づくりを体験するには、雑誌的な本を作らなければならないのだが、結局そうすると何についての本にするかを決めるという堂々巡りになってしまう。ビハインドザシーン、オーディオコメンタリ〜、メイキングオブ「雑誌的な本づくりをしてみた」、ならわかるけれど、これはどういうことなのか。

そして、やっぱりこうなるのかとなるけれど、この、今書いているnote、もうこれ自体が本の一部だとも考えられる。こうして、自分でああだこうだ、と書いたことをそのまま原稿としてしまうパターン。いきなりメイキング映像を本商品にしてしまうということ。オーディオコメンタリーがいきなり商品だということ。中身がない!これは成立しうるのか。
でも前回も言ったけれど、香山哲でいうところのプロジェクト発酵記だとすればあり得るんだよな。

今日はとりあえずここまでにするか。グルーーーーと回って同じ場所に辿り着くというお決まりのパターンか。でも思考や過程は補強されている。同じ場所を歩くことで土は踏み固められている。

大体1時間の執筆。4671文字。

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