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書いた本を売るための本屋 その2 素材を集める。量を書く。ノリが生まれる。

「雑誌的な作り方で本を作ってみよう」と思い立ったのはいいものの、その先が進まない。よくあることなのかもしれないけれど、悶々としている。だって何も作れていないから。
というのも、思い立ったのち、実際に目指したい形の雑誌や本を読んでみたところ、プロの凄さに圧倒されてしまって、自分の技量の無さを痛感してしまったのだ。とはいえ、これはある意味前に進んでいるということなのかもしれない。例えが変だけれど、大谷翔平の凄さを目の当たりにして、落ち込み、じゃあ野球やめるわというのか、それとも自分の手持ちのカードでやっていくことを選ぶのか。そのどちらかと聞かれれば、後者を選びたい。というか、それをやることでしか前には進めない。
坂口恭平が言うように、ただ作り続けるしかないのだ。落ち込んでいる暇はない。そうだ。だから今これを書いている。とりあえず書く。それでしかない。

やはり自分の場合は、先にこうしたいを目指してから作るのは向いていないのだろうか。けれども、乱発してくと、自分が何をやっているのかがわからなくなって、それで自分で自分に飽きてしまうのではないだろうか。いや、そうではないかもしれない。むしろ、飽きは必ずくるのであって、その時に自分をどうやったら飽きさせないようにできるかが創作のコツなのではないだろうか。

自分を飽きさせないように創作すること。それは人の目を介入させないということなのか。ただ、最近読んでいる本で、若林恵さんは「編集とは介入ではないか」というようなことを言っている。いや待てよ。その場合の介入は、自らが出向いて行って介入することを指しているのであって、こちらの場に入って来させる場合の介入ではない。
人の目が介入されると、僕の場合は創作の意欲が削られていってしまう。というか、今の僕にはそれに耐えうるだけの技量や器量がないのだ。創作レベル1なのだと思う。創作レベルを上げるには、とにかく量を作ることでしか上がらないと思う。横尾忠則は、創作は時間ではなく回数だと何かの本で語っていた気がする。その本は以前図書館で見た本だが、確か先日行った「冒険研究所書店」にも置かれていた。確かあの本だったのではないか。いやもしかしたらほぼ日の記事の間違いかもしれない。こういう時に、いちいち検索しない。検索すると、思考の流れが止まってしまう。今はこのフローの只中にいるのがいい。

話を元に戻そう。そうそう、創作のコツについて話していたのであった。まず、本を書きたいということから始まっている。自分で締め切りを作るために、わざわざ文学フリマ@東京に申込までしたのだった。でもまだ原稿の案すらまとまっていない。でも正確に言うと、書けないのではなく、書かないのだと思う。書くことはできる。だって今まさに書いているわけじゃないか。でもこんなものを書いて印刷して、誰が読みたいと言うのだろうか。と考えてしまう。いや、俺はこれを読みたいのか?わからない。印刷してまで読みたいのか?俺はかっこいいことをやりたいのか、かっこつけているのか。
でも、まず書かないことには始まらない。編集は後ですればいい。こうして書きまくって、その素材を元に編集すれば良いのではないか。バサっと切り捨てても良い。本にする段階では。でもまず書いて大量の素材としてこうしてアップしておかないとそれすらままならない。

よし、これからはまず書こう。

さっきの「自分を飽きさせないように書く。」をもう少し突っ込んで考えたら何か出てきそうな予感もするのだけれど。飽きさせないように書くとはどういうことなのか。

・自分が飽きてしまうのはなぜか
・自分が飽きてしまうのは良くないことなのか
・そもそも飽きた状態で書くことはできないのか
・飽きた状態で書くと何が起こりそうなのか

こんな感じだろうか。
一つずつ、考えてみよう。

まず、自分が飽きてしまうのはなぜか。
これは考えても仕方ない気がする。が、飽きてしまうというか、不安になっているのではないだろうか。最初は行為そのものが楽しい段階。書くことが楽しく、書いたものの質より、書いたという事実そのものに喜びを感じている。誰かに読まれたからとかたくさん読まれたからとかではなく、ただ書き上がりさえすれば良い。大事なのは書き上げること。区切りがあることだ。
それが数回続くと、おそらく、「これを続けることで何が起こりそうなのか」を考えるようになる。それは結果に対する期待値の話。しかも短期的な結果の話。自分は何に期待してこれを書いているのかの答えが自分の中にないと継続するのが不安になってくるのだろう。こんなことを続けていていいのか。時間を割いてまでやることなのか。他にもやりたいことがたくさんあるのにこれに時間を当てているのはいいことなのか。なぜなのか教えてくれ自分。という状態なのだろう。きっとそれには応えられない。なぜならわからないから。その結果、自分の書いた文章の質や、他者からの評価に理由を求め始める。自分の中にないもんだから、外側に理由を求める。見えるもの、可視化できるものに理由を求める。何日連続で書きましたとかも含まれるだろう。それをやり始めると、狂っていくのだろう。

次。自分が飽きてしまうことは良くないことなのか。
そもそも、飽きたらあかんの?ってこと。飽きていることをやるのは良くないと思っているのがまずある。それについては、みうらじゅん的な考え方が助けになりそうだ。そもそもあの人は、自分を騙していろんなことに手を出している。ちっとも好きじゃないことを無理やり好きになろうとしている。うん、これはいいんじゃないのかな。好きじゃないことをどうやったら好きになれるのかということ。ない仕事の作り方あたりに書いてありそうなんだけれど、売ってしまった。また書い直すか。そしてもしこうして書き溜めたことが後々本にする時に、ここが生かされたとしたら、みうらじゅんの本を参考書籍として一緒に販売する、そういう形の本屋をやろうとしているのだ。書きながら再確認する。

あと全然関係ない話なんだけれど、今これを書きながら後ろのスピーカーからレコードが鳴っている。しかもビーチボーイズでばっちり歌が入っているんだけれど書けている。いつもの自分なら歌が入っているどころか、音楽を鳴らしながらだと書けなくなっていくんだけれど、それは、Macから直接Apple Musicで鳴らしていたからなのかもしれない。デジタル<アナログって話なのか、音が前から<後ろからって話なのか。どっちからはわからないが、多分両方な気がする。これがCDだとこうはいかない気がするんだよな。なんでも最近はとにかくアナログ、物理的、物資的に向かっている自分。自分の身体に感じさせたいのだ。フィードバックの質と量が圧倒的に変わる気がする。

さて、次。そもそも飽きた状態で書くことはできないのか。
できると思う。それは先ほどのみうらじゅんの話そのままでいい。彼は飽きてもやっている、というか最初から飽きている。そこからずっとやり続けていくと飽きなくなっていくのか。いや、そこはわからない。飽きたからやめるでは修行が足りないのかもしれない。修行なのだ。
なんだか、やりたくないことをやるのは良くないとか、やりたいことをやろうみたいな思考に囚われているのかもしれない。やりたいとか、やりたくないとかではなく、飽きたからやめるとかではなく、その先にあるものを見てみたい。そういう気分になってきた。いい指標な気がする。今までの自分にないぞこれは。

さて最後。飽きた状態で書くと何が起こりそうなのか。
この質問が、すでに違って感じる。すごいスピードだ。この質問を書いたときは、飽きた状態で書くとどんな悪いことが起こりそうか、という意味で書いたつもりだったのに、この数十行の執筆を経た上で、その意味が飽きた状態で書くと、どんないいことが起こりそうかに変化してしまっている。自分の中で。書くってすごいと実感している。飽きてきても書くことで何が起こりそうか。これはもう先ほど答えが出ている。今までみたことがない世界があるかもしれないということだ。だって飽きてるのにやったことって、ない気がする。この人生の中で。もうとっくに飽きてるんだけど、やり続けてますってことない。それを悪いことだと思ってきたから。ワクワクすることとか、やりたいこととか、そういう言葉に引っ張られてきたから。だから飽きているのにやり続けるなんて自分の人生には無かったこと。それを今からやろうとしている。飽きてからがスタートなのだ。これからは。

ということで、まず書くことをこれからも続けていこう。何が起こるかはわからない。やりたいことは「雑誌的に本を作って売る」。これだけは決まっていて、このnoteも、その原稿の一部なのだ。全然沿っていないかもしれないけれど、それでも構やしない。素材の一部だ。大量の素材だ。写真集を作るには、まずたくさん写真を撮らなければならない。撮らなければ、自分が何を撮りたいのかすらわからない気がする。たとえテーマが決まっていたとしても。「おじいちゃんの靴だけを撮った写真集」というテーマが決まっていたとしても、どのおじいちゃんの靴を撮りたいのか、靴の何を撮りたいのか、それを集めて何が見えてくると思っているのか。そんなことは大量に取るという行為をしないと見えてこない。
ひたすら量を出すというのは、二つの意味があるように思う。
写真集の話で言えば、写真をたくさん撮ることで、一つは、写真という素材が積み上がる。その大量の素材がばーっと並ぶことで浮き上がってくる意味性があったり、編集という行為につながる。最初から絞ってしまって「厳選された少ない素材」では意味性も編集も生まれない。編集しながら撮ってはいけない気がする。まず素材はできる限りフィルターしないで集める。
量を出すもう一つの意味は、量を生み出す行為自体による身体性の積み上げである。「経験値」も積み上がるがそれは一部に過ぎない。仮に、先の写真が他人によって提供されたものだとしたら?素材は大量にあるので、それらを眺めることで、意味性も編集も生まれるかもしれない。けれど、それは他人が提供したものだ。自分が撮った大量の写真と他人が撮った大量の写真とでは、自分における意味合いが全く異なる。世の中のプロの編集者たちは、基本他人が提供した大量の素材を編み直すことが仕事なのだろう。それはそれでいいのだ。そうではなく、創作者としては、自分が作りだすという行為は多い方がいい。これが横尾忠則のいう、時間ではなく回数の話につながる気がする。そう、量を作ることで、自分の身体にフィードバックされる回数が多くなっていくのだ。おじいちゃんの靴の写真を撮るたびに、自分の中でフィードバックが起こる。そのフィードバックを感じながら「ノリ」が生まれ、写真自体が変化していく。量が多くなることでノリが生まれてくる。そのノリこそが、素材を作品たらしめるキーワードな気がする。
うん、ここまで。書き始めた頃には、こんなこと予想していなかった。これも一種のフィードバックだ。書いたことで起きたフィードバック。これが積まれていけば、ノリが生まれ、一つのnoteが本になっていくのだと思う。

4600文字も書いていた。

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