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【読書日記】ニーチェと柳田国男

読書日記について

自分は、「読書メーター」というところで読んだ本の感想を書きつけている。最初は何を書こうか困ることもあったのだが、最近は書くことが多すぎて、コメント欄まで利用しながらなお書ききれない。

どこの馬の骨ともわからぬ人間の読書に関心のある者はそう多くない。そう思っていたし、何を読んで何を獲たかというのは、物書きにとってはいわば作業現場であり舞台裏でもある。必要のないかぎりあまり表ざたにしたくないところもある。

そもそも何を読み何を獲るかは他人に指導できないし、またせられるべきものではない。そんなことをされたんでは、せっかくの読書の愉しみも半分以上減ずる。

それが自分の思想であったが、世間を見渡すと、どうやら他人が何をどう読んでいるのかを知りたいという一定の需要があるし、どんな本を読んだらよいですかという質問をときどき受けたりもする。

商売柄、自分が読む本の大半は古いもので、しかもあまり一般には読まれないものを多く読む。本屋が喜ぶようなものはあまり書けそうもない。それでも、自分の読書を本屋にだけ指導されてることが心配な人たちもいるであろうし、自分の読書体験を共有することには、何か意味があるかもしれない。

そういうわけで、自分の読書のうち、他人の興味を引きそうなものををここでも紹介していこうかと思ってる。時間の都合で自分の覚書も兼ねているから、親切な文章になるとはかぎらんが、もう二つほどそういう記事を挙げた。今回はニーチェの『反時代的考察』という書物である。

専門の都合で、自分は岩波文庫の古い訳で読んだが、新訳もいろいろと出ているらしい。自分は手にとっていないが、入手しやすそうなちくま学芸文庫版のリンクを貼っておこう。ちなみに、好みの問題もあるが、ニーチェに限らずちょっと古い思想は、少し古い訳の方が自分には読みやすい。時代の雰囲気が直接出ているような気がする。

教養としての教養批判

仮に読む前から人生を変えられていた本などというものがあるなら、自分にとってはこの本がそうであった。

人文的な知や教養の根拠というのが近年の自分の関心の一つであったが、この問題意識もニーチェのエピゴーネンであったらしい。とはいっても、本書の第二篇やニーチェの他の著作には接していたから、無意識のうちにどこかに引っかかっていたらしい。

ニーチェというのは、簡単に飲み下して自分のものにしてしまえるような思想家でない。特に自分のように民主主義に賭けようと思ってる人間には、とてもそのまま受容できない。そんなことをすれば、民主主義自体を否定しないとならなくなる。

だが、だからといって簡単に手で払い除けることもできない。知識人と民主主義とのあいだの緊張を、もっとも先鋭に描き出した一人がニーチェなのである。そうそう簡単に消化できるわけがない。あっちに同化されないようにしながら、こっちに同化しないとならない。ミイラ取りがミイラにならないようにしないとならない。そういう存在である。

だけどいくら嚙み砕いて飲み込んだつもりになっても、消化しきれずにいつも何かが残ってる。喉元にささった骨みたいに。油断していると、自分がミイラになりかかっている。その意味では、政治理論におけるC・シュミットに似ている(これもおそらく偶然ではなく、英米思想の覇権下におけるドイツ思想の位置づけと関わっている)。

本書の主要な標的は教養俗人としてのヘーゲル派の教壇哲学者たちらしいが、その批判は専門化した「純粋学問」一般に当てはまる。つまり今日の学問一般であって、今日のニーチェの信奉者たちでさえ例外じゃない。

ところが、岩波版の訳者の井上政次という人も、西田幾多郎と並ぶ大正教養主義の重鎮、阿部次郎の弟子のようである。つまり、日本型教養主義の根っこにもニーチェがある。この教養主義が今日では自分の専門の殻に閉じこもるような方向に向いていて、むしろニーチェの批判の対象になりうる存在になってしまったわけである。

どうしてそうなったのか、ニーチェの日本における受容が誤解・誤読に基づいていたのか、そもそもニーチェの思想のなかにそうならざるを得ないものが胚胎していたか、検証が必要だと思う。

歴史の過剰と欠乏

ところで、自分が本書を手にとったのは、ドイツ思想史における「歴史」の概念を調べる過程である。柳田国男の歴史観におけるドイツ歴史学派の影響を特定したいと考えていた。ところが、ここで思わぬ収穫があった。

柳田国男はヘーゲル、折口信夫はニーチェ。誰が言ったか忘れたが、そういうたとえがある。一理あるが、柳田が直接影響を受け、対話していたのはどうもニーチェの方であるらしい。

自分の知るかぎり柳田がニーチェに言及したことはないが、柳田の親友であった田山花袋の『東京の三十年』に次のような記述がある。

私と柳田君とは、イブセン、ニイチェ、ドオデエ、ツルゲネフについてよく語つた。我々はかうしてはゐられない。ぐづぐづしてはゐられない。飽まで新しい社会のチャンピョンとして出て行かなければならない。かういふ話が絶えず繰返された。(田山花袋『東京の三十年』。明治三十四年早春の場面、柳田は前年七月に大学を卒業し、当時二十七歳)

イプセンやドーデー、ツルゲーネフにならんでニーチェの名が挙げられている。柳田が直接ニーチェを読んだのか否かはわからないが、文学青年たちのあいだでの話題になったことは間違いなさそうだ。

柳田は「歴史の欠乏」(『青年と学問』)という言葉を使っていて、初めて読んだとき意表をつかれたことを記憶しているが、おそらく『反時代的考察』に出てくるニーチェの「歴史の過剰」を意識したものである。

歴史の過剰とは、自分の意志とは関係ない力によって紡がれる無限の連鎖の一点に自己を押し込めることによって、人間が主体性を失っていくこと。批判の対象はヘーゲル哲学だが、ほぼ同様の批判が実証史学や自然科学にも当てはまる。これに対して、ニーチェは歴史に断絶をもたらす天才の到来に期待したのである。後のマックス・ウェーバーのカリスマ性の議論にこれが引き継がれている。

どうやら、柳田はニーチェの教養批判、学問批判をある程度共有している。明治体制の官学複合体に対する反発という文脈でである。西洋文化を吸収した帝大卒の高級官僚が師匠の大学教授と組んで、日本のおバカな民を上から近代化に導いていく。言ってみれば、日本の学歴エリート自体が西洋化の先兵として教育され、日本を一種の植民地として統治している。柳田自身もその第一世代の一人であったのだが、どういうわけかこれに反旗を翻した。

だが、ニーチェの教養批判、学問批判を受け容れたその上で、柳田はニーチェの天才崇拝、英雄主義を否定しようとする。これも大正デモクラシーが重要な時代的文脈であると思う。政治に背を向ける芸術的天才ではなく、生活に密着した人びとの主体性が問題となったのである。

市民と常民

西洋であれば、そこに「市民」という範疇がすでにあった。すでにどこかで書いたように「市民」というのは封建社会や国家から自律性を保つ「個人」であり、私人に対する社会の構成員としての人々の集りも指す。

実際に、柳田の同時代人であったドイツの作家であるトーマス・マンは、ドイツ的な主体として「ビュルガー」という語を取り出してきた。これは「市民」の意であるが、フランス語のブルジョワジーと区別するために、わざわざドイツ語にしてある。資本家の代名詞として揶揄されるようになったブルジョワジーとは区別される、勤労、倹約、誠実などのプロテスタント的倫理をもって生きる市民を指す。物質的享楽よりも内面的充実を重視する伝統を背負ったドイツ的市民、まだ市場と(市民)社会が乖離していない段階での「市民」である。

だが、日本にはこうした意味での「市民」は歴史上存在しない。そこで柳田は、「常民」という凡人の集団を歴史主体として構成しようとする。主に農民であるが、とくに文字を解さない人々というくくりである。文字文化からは離れたところで生活を営んできた常民は、ニーチェの批判する教養階級のようには歴史的教養には縛られていない。かえって自分たちこそが歴史を創ってきたのであり、自分たちのすることがこれからの歴史を左右するという意識が足りない。マルクス的な言い方をすれば、常民は即自的であって、まだ対自的な存在になっていない。それを彼は「歴史の欠乏」と呼んだ。

その欠乏を埋めることを期待されたのが民俗学である。教科書に出てくるような政治史中心の国史ではなく、人々の生活に密着した文化史・社会史、「歴史をもたない人々の歴史」を掘り起こす学問である。柳田はエリート主義を引き摺る教養主義からは距離を置き、民俗学において民主教育(今でいえば主権者教育みたいなもの)の可能性を切りひらこうとしたのである。

翻訳者階級としての学者

だが、柳田が気づいたかどうかは不明だが、ニーチェの思想自体にもエリート主義の枠をはみ出すものが見出せる。ニーチェが憎む「有教養者」は大学なんかで教育を受けた人々のことで、「教養俗物」などともよばれている。ニーチェによれば、偽の教養をもつこの有教養者階級によって押えつけられた人間の「自然」を復興させることが、天才の仕事とされている。

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