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機織る娘と踊る日本人


私の母の父は福島県大越の農家の出である。あるとき、幼い母が父の実家を訪ねると、年長の従姉妹が機に向かっていた。夏祭りにでも着る着物を織っているという。なんと繭から糸をとるところから始める。機なんてものを見たことはない母にはこれが面白くて自分にもやらせてくれとせがんだが、織り手が代わると織地にむらがでると断られたから、ただの遊びではない。終戦後の話であるが、田舎の古風な旧家ではまだ自分で晴れ着を織る娘がいたのである。

衣服を自前で家族に供給しなければならない時代には、機織りや裁縫は主婦にとっては不可欠の技能であり、だから嫁入り前の娘にとっても身につけて損のないたしなみであった。後には農家の重要な副収入にもなったからなおさらだ。しかし、炊事や洗濯など他の家事は分業に出してしまった後もこれだけは手放さなかったのには、別に理由があるのではないだろうか。

なんとなれば、民話などではかぐや姫をはじめとして、お姫様はみな機を織っておる。鶴の押しかけ女房も機を織って恩返しする。『古事記』では、スサノオが巫女の機を織っているところに皮をはいだ馬を投げ込む場面がある。どうも、神のための特別な衣を織るのは高貴な女性の仕事であったようであり、晴れ着を織ることは通常の家事とは区別され、むしろ貴い仕事と思われたのではないか。トンカラリかトンテンカラリンかは知らないが、どこからか響いてくるそんな音を耳にする青年たちは、神々しい少女の姿を想像して胸をときめかしていたものらしい。そういえば、ロシアやフランスなどの小説でも、服を自分で作る必要のない貴婦人や令嬢たちも暇さえあれば編み物や刺しゅうなどをしている。

しかも田舎で盆踊りといえば、村の娘にとっては田植えと並んで青年たちの前に自らの魅力を見せつける数少ない機会である。晴れ着はそのための勝負服である。ここに力を入れなければ女に生まれた甲斐がない。もとより機を織らない男たちにとっても踊りの場は日ごろの修練の成果を披露すべきときであった。

その盆踊りの直接の先祖は、中世末期に関東周辺に広まった鹿島踊りとか弥勒踊りと言われるような踊りらしいが、それ以前にも念仏踊りという踊りがあった。空也の徒などのいわば民衆への布教の武器として重宝されたわけだが、修業をする暇もない民衆の救済願望はこれによって満たされたのであった。弥勒踊りなどは元はユートピアの到来を祝うものであったらしいが、それが不渡手形となっても人びとは豊作祈願のために踊り続けた。生涯の伴侶を得たのちにも、人生の悩みはつきない。若い人たちとはまた別の意味で、人生の先輩たちも踊る機会を求めた。

最近、改元のお祭り騒ぎが話題になったが、大正天皇や昭和天皇の即位の際も人々はやはり仮装して「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ」と盛大に踊ったらしい。京都では警察部長がお忍びで視察に来たが、それに気付いた民衆に逆に「部長さんもええじゃないか」と囃されて困ったらしい。どうやら「えらいやっちゃ」と「ええじゃないか」はつながっているようなのである。他に「にわかじゃ、にわかじゃ」という囃しもあるらしいから、ミロクの世の到来を待ち望む人々の救済願望は江戸時代を潜り抜け、昭和の御代まで人々の心にあったらしい。千年王国思想である。というと遠い世界の話に聞こえるが、二代か三代前のわれわれの親たちの心持がそうである。これが他人事であったら、歴史は断絶ばかりになって昔を知る意味がなくなる。

今日では、祭が妙な発展をして、われらの多くは沿道の傍観者となった。だが、夏祭りで互いに知り合う機会を奪われた若い男女は、まだ酒と踊りと夜の暗闇の助けを借りて生涯の伴侶を求めるために、大枚注いだいでたちでいそいそと出かけていく。念仏踊りや弥勒踊りはなくなったが、クリスマスだのハロウィーンだのと、大勢集まっては仮装して踊りたがるところまでは祖父母たちとちっとも変わらない。そんなことを考えると、近代人がうぬぼれるほど、人間の本質はそう根本的には変わっていないのかもしれないなどと思ったりもする。

(2019年7月1日)

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。