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プロメテウスのワキガ(「私」を何かから解放するということ)

南米コロンビアは美人の産地として有名であるが、つぎのようなジョークがある。

「コロンビアにブスはいない。いるのは貧乏人だけ」

「カネを持っている人たちは皆整形するので、ブスなままでいるのは貧乏人だけ」という意味である。実はコロンビアは天然美人が多いので、これはミス・ユニヴァースを輩出する隣国のベネズエラの方によく当てはまる。ひょっとするといろいろな国に同じジョークがあるのかもしれない。いずれにしても、整形手術に対する抵抗が日本なんかよりずっと少ない。

なぜこんなことを思い出したかと言うと、ネット上で「胸だけ残してヤセたい」とか「脱毛せずにワキツルツル」といった類いの広告がやたら目についたから。

日本では親から授かった体にメスを入れるような整形はまだ一般的ではないようだけど、髪の毛を他の色に染めたり、色付きのコンタクトをはめたり、入れ墨を入れたりするのは普通に行われるようになっている。化粧の技術も格段の進歩(?)を遂げている。

女の子たちが経済的自立を求められ、なおかつ美貌や性的魅力を気軽に商品化・資本化するテクノロジーが開発されている今日では、整形というものが非常に現実的な投資にもなる。競争が激しい社会では、ちょっと差が大きな結果のちがいを生む。人間は外見より中身が大事なんていうセリフがお為事なのは、ツイッターのフォロワー数を比べるだけで誰にでもすぐわかる。

自由と自己改良願望

だが女の子の出世願望だけの話ではない。われわれ現代人の自分の体に対する執着というのは異常なほどである。必ずしも病気や障碍ではないけれど、体に人為的に手を加えて自分の体を「改良」することに余念がない。広い意味ではジムでの筋トレとかヨガなんかも同じような範疇に属する。今日の男性器増強とか精力増強剤なんていうのも一種の自己改良への願望を利用した商売であると言える。

モラルの低下とかナルシシズムという批判もあるが、自分に与えられたものを当然視せずに、批判的に捉えて作り替えていくというのは極めて近代的な行為であるとも言える。

アンソニー・ギデンズという社会学者によると、近代の特徴の一つは人々が常に自己のモデルチェンジを行っていくものだと言う。近代社会は新しい情報、知識、技術をもとに柔軟に制度や慣行を変えていく。科学が発達すれば、今まで「自然」の一部だったものも人間の干渉により人為的なものになる。「自然」というは人間の意志によってかなり自由自在に操れるようになっているのだから、人間の体もまた例外ではあり得ない。

いい意味で捉えると、われわれの体に対する執着は「自然」という桎梏から解放された人間というプロメテウス的理想の延長である。神に近づこうとする不遜な挑戦ゆえに救われたファウスト博士も、このプロメテウス的近代理想を体現している。ユルゲン・ハバーマスと並んで「最後の近代主義者」と称されるギデンズであるから、ちょっと病的にも見える体への執着にもポジティブな意味を見いだす。

(注:プロメテウスというのはギリシャの神の一人で、神を裏切って人間に火(文明の比喩?)をもたらした。そのために罰せられて、岩に縛りつけられ禽獣に腸を食いちぎられる。しかし、一晩のうちにその傷が治ってしまう。それで、次の日にはまた同じ苦痛を味わわされる。これが未来永劫続くのである。)

でも、それだけじゃ何故「胸だけ残して」とか「ワキつるつる」でないといけないのかの説明にはならない。胸が大きいことはよいことであるとかワキはつるつるの方がキレイという基準は普遍なものではないし、必ずしも自明のことではない。

グローバル社会のにおい

私が日本で通っていた大学院は、世銀の奨学金をもらった「途上国」の学生を受け入れていた。それで、クラスもアジア、中東、アフリカ、ラテンアメリカからの留学生の方が日本人より多い。世銀から奨学金をもらうくらいだから、自国ではトップクラスの学生だったり政府の役人であったりする。言うなれば、結構エリートなわけだ。

でも、皆「臭い」。「体臭」である。日本ではワキガと呼ばれるものである。夏場は教室も省エネのため弱冷房になってちょっと汗ばむくらいなのだが、授業中何とも言えぬアロマが漂う。だが、彼らは自分が「臭い」ということに気がついていない。自分が他人から「臭い」と思われてると思っていない。

日本ではワキガもちは少数派なので、いやでもこれに気づかされる。病気扱いされて、本人も気に病む。だが、おそらく人類の大半はワキガもちであって、これがグローバル・スタンダートの体臭に近いらしい。

どこで読んだか忘れたが、黒人はほぼ100%ワキガをもつし、白人も7割くらいはそうであるらしい。どういうわけか、北東アジアにはワキガもちが少ない。日本人は1割くらいだが、朝鮮人はさらに少ないし、中国人にはもっと少ない。なんとか腺というのが退化してるためらしい。こちらがむしろ変種であって、アイヌの人びとにはワキガをもつ人が比較的多いらしいから、おそらく日本人はかなりの混血民族であることを示している。

たまたま日本人はその臭いになれていない人が多いので、すぐに気がつく。だが、興味深いことに、ラテンアメリカの留学生もまたこのにおいに敏感であり、いつも自分の同僚たちの体臭(スペイン語で「チュッチャ」という)について不平を言っていた。

面白いのは、ラテンアメリカの学生もチュッチャがない訳ではない。朝きれいにしておいても、夕方にはもうくさくなってる人が多い。ただ、毎日何度もまめにシャワーを浴びて、デオドラントを塗りたくって、香水をまき散らして、なんとかごまかしているのである。二、三日風呂に入らなくても臭くならない自分などは、かみさんに羨ましがられたものである。

ラテンアメリカ人の体臭に対する強迫観念はかなりものである。旅行に行くとき、デオドラントは歯ブラシと同じくらい欠かせない必需品である。だから、中南米のスーパーにはデオドラント売り場がかなりの場所を占めている。しかも、かなり強力な奴らしくて、日本のデオドラントは全然効かないと、わざわざ自分の国から送ってもらう念の入り用であった。

実際、ラテンアメリカにおける消臭剤とか香水の消費量は半端ではないらしい。一人当たりGDPで比較すると、世界でトップクラスらしい。そんなに金持ちでなくても、なけなしのカネはたいてデオドラントと香水だけは買う。

でも、誰が最初に自分の体は「臭い」と気がついたのだろう。皆が臭いのであれば、他の地域の人たち同様気がつかないはずである。何故、ラテンアメリカでは自国では生産されない香水を大量に輸入してまで消臭に躍起になるようになったのか。

ワキガの社会史

私が勝手に想像したラテンアメリカの「ワキガの社会史」はこうである。

植民地で財を成したラテンアメリカのクリオーリョ(現地生れの白人のことをこう呼ぶ)は、独立後も文化的にはヨーロッパを手本と仰いでいる。でも、ヨーロッパに「凱旋」しても、そこの上流階級から洗練されない田舎者としてバカにされる。

バカにされる理由の一つが「体臭」である。ヨーロッパでは、体臭を紛らわすための香水がフランスの貴族社会のために開発され、それが上流社会に普及していた。風呂にもろくに入らないヨーロッパの人たちは、香水を振りかけて臭いをごまかしていたのだ。

こうしたヨーロッパの「文明」の洗礼を受けたクリオーリョは、「体臭」を恥ずかしいものとして認識し、それを抑えることに躍起になる。まめに行水する。消臭剤や香水を使う。そして、「体臭」を隠さない下層階級をバカにする。結果として、ラテンアメリカで「体臭」というのは下層階級の特徴として捉えられるようになる。下層に行くほど人種的に肌が黒くなっていくと想定されているから、おそらくワキガは人種観念とも結びついた。

次第に経済力をつけた中産階級は下層階級から自分たちを区別するため、上流階級の真似をして香水や消臭剤を使い、頻繁に行水をするようになる。特に、メスチーソと呼ばれる混血の人びとは、肌が少し浅黒い人が多い。社会の階梯を上って上流階級に受け容れられるために体臭対策を重視したであろう。こうして「体臭」に対する強迫観念は次第に下層にも浸透していった。身だしなみの一部になった。

ヨーロッパの上流社会に追いつくために消臭に躍起になったラテンアメリカ人であるが、200年経ってみると、実はヨーロッパの大半の人はろくに風呂にも入らない人たちであることに気がつく。

それで、今日ではスペイン人やフランス人を「臭い」とか「不潔」とかいって逆にバカにする立場になった。でも、自分たちの「体臭」に対する強迫観念がヨーロッパに対する劣等感から生まれており、必要もない高価な香水なんかを大量に輸入させられていることには気がつかない。

文化の階層性

この想像上の社会史が的を外していないという自信はないが、多かれ少なかれ「体臭」と「階級」には密接な関係があると思う。そして「階級」というのは単に国内の金持ちと貧乏人というだけでなく、国際社会の人種的・文化的ハイアラーキーもまた重要な役割を果たしている。

「胸を残して」とか「ワキつるつる」というのも単に個人の自発的な自己省察によるものとは言い切れない。世の中には権力構造というものがあって、人々が欲しがるものを決める際に大きな力を持つ者と、それを受け入れるだけの者がいる。

ラテンアメリカの体臭除去の努力のように、誰かが勝手に決めた基準を受け入れた者が、努力して本家本元を打ち負かすことも可能である。でも、その人たちも恣意的な基準自体に対しては批判能力を失っている。

卑近な例を一つあげよう。最近、日本人はパスタにうるさくて、外国で食べるパスタはゆですぎて美味しくないと文句を言う。アルデンテじゃないパスタなんてパスタじゃないなんて知ったようなことを言う。でも、私が大学生くらいまでは、喫茶店のぐちゃぐちゃパスタを皆文句も言わずに食べていた。

豊かになって、世界中の一流品を買い漁れるようになってきて、日本人は妙に目利きになったのであるが、誰かが決めた基準をそのまま受け入れているだけであることには変わりがない。

フランスのワインだろうがイタリアのパスタだろうが、我々は結局「受け手」にしか過ぎない。本家本元のフランスやイタリアにいって、彼らが結構まずいワインやパスタを平気で食しているを見て、がっかりしたり優越感に浸ったりする。

日本の市場が大きくなれば、世界中の人たちが日本人の好みにあったものを生産して売り込みにくる。そうすると、自分たちが何となくエラくなったような気もする。でも、「消費者」としての力は必ずしも文化的な独立を意味しない

自然からの解放が人間を別の鎖につなぐ

プロメテウスがもたらした火のおかげで「自然」から解放された人間だけど、人間の社会にはまだ目に見えない鎖がたくさん張り巡らされている。

近代化というのはこうした鎖を一つ一つ断ち切っていくことを可能にしたのだが、同時に新しい鎖も生み出してきた。自然の鎖の代わりに社会の鎖に人々はつながれた。その一つの鎖を断ち切る努力が、実は他の鎖で自分を縛る行為だったりもする。

真の自由の実現としての自己改良というのは、どうも個人の美意識とか好みに頼るだけではおぼつかないようだ。自分の自己理解の一部になってしまった目に見えない権力構造みたいなものに敏感でないと、自分が有している選択肢の幅を自ら狭めてしまうのである。

まだ人間は自然から完全には解放されていないのであるが、われわれの関心はむしろ社会的な桎梏の方に移っている。そのために、むしろ自然への回帰を自由と結びつけることにさえなっている。他人の目が煩わしくなった者にとって、自然がわれわれに向ける無関心は何よりの清涼剤である。

こうして、自由が自我の問題とつながった。自由とは「偽りの自分」から「本当の私」が解放されることであるという定式になる。実在する私は社会の中に組み込まれている。別の言い方をすれば、「私」はその内奥まで社会というものに差し込まれている。「私は私のままでいい」と思うだけでは「本当の私」はいつまでたって見つからない。

だが、社会的なものを「私」から削り取っていったときに、「本当の私」として何が残るか。「胸が大きい」とか「ワキつるつる」とか「くさくない」というものの代わりに何が自己改良の願望の対象たりうるか。「自然のままの私」は毛がぼうぼう生えていてくさい。それが自分が欲するものであるのか。この問いに答えられないかぎり、自己改良の意義自体に疑問符がついてしまう。

今日の「私は私のままでいい」は、恐らくこの自己改良への懐疑が現れた形である。自己改良への熱狂に疲れた人々の口から洩れるものであり、ロマン主義的というより虚無主義的である。本当にそう考えている人であれば、決して口にしない言葉である。

他人の目が煩わしくとも、やはり人が欲するものを自分も持ちたいという願望からは解放されないのであるから、岩に縛りつけられ何度も腸を食いちぎられるプロメテウスのような運命に自分らはある。それを知った上で、いかにして人は「自分らしく」、つまり「自由に」生きていけるのか。この問いに対する答えが巷に流布しているような簡単なものでありえないことは、わかっていただけるかと思う。

(2008年5月30日初出のものに書き足した)

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。